●容姿衰え裁判のこと

 母・節子の逝去後、朝日新聞の取材を私が受けた事がありました。その月に亡くなった人を追想する、よく見かける記事です。その最後に「“旅立つのが早かったけど濃密な人生だったと思います”と次女の綾子さんが微笑んだ」と、大体こんな感じの美しい終わり方でした。微笑んだというよりヘラヘラしてただけだったのですが。当時の私は、ゆっくり悲しみに浸る間もなく、次から次へと用事をこなしているだけ、といった状況だったので、何を喋ったかまるで覚えていませんが、この時の記者さん、加来さん(女性)は、裁判の時の事を聞きたい、と言われてたのに、私が最初の電話で聞き間違ったばかりに闘病の話ばかりになってしまった(「裁判のお話を…」を「はい、がんのお話を…」と聞き間違えたらしいのです)…そんな私なのに綺麗にまとめていただいて…。節子さんにお会いしてみたかった、とまで言っていただけまして、少しは母の魅力、伝えられたかな、とちょっぴり自我自賛な気分。
「濃密な人生」。そう。濃いですよ〜こ〜いこいこいこいこい…。

北原みのりさんが2003年に『私たちの愛』を読んで母を見つけて下さって、母の所に何度もいらっしゃった取材の会話で
みのりさん「節子さんは、ずっと動き続けてるんですね」
母「その言葉、気に入ったわ。そうなの、私はずっとずっと動いてきたのね。止まることがなかった」
という件があったのをフェミドルのページで読みました。
うまい。本当にみのりさんの表現はうまいし、母をよく知ってくださってる。母はいっつも動いていました。それもあまり(あえてあまり、と言っておきましょ)妥協しないできたものだから、あっちへぶつかりこっちへぶつかり、普通の人なら避けそうな岩場の道も「面白いじゃない」と入ってしまう。その代わりというか、多くの人が気づかずズカズカ踏み込んで行きそうな人の心の微妙なヒダは、真綿のようにというか、優しく優しく包みこんでやったりするものだから…もうハマった人はイチコロ。
面白くて全然飽きないのです。

 そんな濃い母の人生の中で、思い切り色強くお人の印象に残っていそうなのが1976年に勤めていた会社に対しておこした「“容姿衰えた”に、どついたろか裁判」…あれ?ちょっと違いましたかね。今、気づきましたが、ちょうど30年前なんですね。勝ち裁判30年記念か(何が?)。決着がついたのは今月と同じ7月ですから本当に丸30年。
小学6年だった私にとってはいつの間にか始まっていました。

私の記憶の中で、母がテレビのアナウンサーとして映っていた記憶はほんの少しだけ。
8歳頃まででしょうか。それも提クレが多くなっていました。私には元アナウンサー、とは違和感が残る名称なのです。今、巷でいわれる「女子アナ」と母のイメージはまるで重なりませんしね。
「(昭和34年の就職時に女子と男子同等の仕事というと)アナウンサーしかなかったのよ」といろんな所でよく言ってましたが一度だけ、ぽつんと「表現する仕事をしたかった」と聞いた事があります。

この裁判が世間を多少なりとも騒がせたおかげで、母・節子にずっとついてまわる「女子アナだったのに容姿衰えたと配置転換を命じられた」女、という前説。この表現は母が父・総一朗と結婚した頃、一応この時も新聞沙汰になったのですが、母を紹介する文には「あの、裁判起こした元・美貌アナ」としつこく書かれてました。がん患者ご意見番となるごく最近まで、ただ唯一の肩書きみたいになってました。私としてはなんか不本意(言いませんでしたけどね)。過去に事件を起こした、それだけの女、みたいでね。実際、時々「あの人は今」みたいな記事に出た事もありますし。裁判当時、一番マスコミに使われてた写真と共に。クロワッサンでしたか女性史年表みたいなモノが誌面に作られ、紫式部の顔の隣に母の写真が並んでいたりして。これは姉の敦子が見つけてきてくれたのですがなかなか趣ある感動モノでした。

折りしも国際婦人年が1975年。裁判はその翌年。(これは偶然ではないようです。会社は母がウーマンリブの活動をしている事を快く思っておらず、メキシコで行われた国際婦人会議に出席する為の出張どころか休暇も認めなかったらしいですから)
母が会社から「もう若くないんだから、アナウンサーを辞めて他の部署に移れ」と言われ、それに対して異義をとなえた母がついに裁判にうったえる事になった…というような事を私が聞いたのは、多分、それが新聞沙汰になったのとそんな変わらない頃かも知れません。
母は普段から子供の話を沢山聞いてくれましたが、自分の会社の愚痴などは、特に子供にはあまり言わない人でした。普段は割となんでもはっきりズバズバと言う性格ですし、母に会社でいくらか敵がいるらしい事はなんとなく知ってはいました。しかし会社そのものがそんなえげつない態度を取ってきていたとは。
確かに会社とは得てして理不尽なもののようですが。

「元美貌アナウンサーうんぬん」の文字を目にする度に、私は「美貌・・」と心で復唱して、ふむ。今はともかく以前は美貌だった(母本人もどこかで同じように書いてましたが)と少しは褒められている訳かいな、と変なとこで感心したりして。
その頃の家の中の雰囲気はというと、決して誰も戦闘的でなく、怒り狂いもせず、ただ売られた喧嘩は買わにゃあ、というか、相手がこんな出方して来たんだから、この位は返して当然。裁判おこすなんて、普通。
ママが頑張るんだから皆で応援。家庭内は至ってそんな空気でした。この状況を楽しんでる風でさえあったのです。ガキんちょの私はその位に感じていました。のんきにも。
時折、取材と称して、断っても断っても電話を何度もかけてきたり家のドアをドンドン叩いてきたりした週刊誌の記者などには閉口ものでしたが。電話に出て「母はいません」という私に「坊や、嘘ついちゃいけないよ」と言った週刊○○の記者さん!あーたが一番許せません。(尤も後日、また訪ねてきて「ごめんね。女の子だったんだね」と律儀に謝られてもいるのですが。しかもこれドア越しの会話)

母の職場ではのんき、とはいかなかったようですね、やっぱり。後に著書などに書いてましたが、友人と思っていた人が母を中傷するようなコメントを出していたり。そんな中で以前と変わらない態度で接して下さった方、積極的に応援して下さった方々には本当にずっと感謝していました。多分今も。
裁判が終わる頃か終わった後だったか、母の顔に何やら激しい吹出物(この表現がぴったりくる位すごいものでした)がたくさん出来、それが母の強いストレスを示していました。治るまでにかなりの時間がかかり、血も出ましたし跡も残りました。名誉の負傷ともいえるのかな?でも、それまで肌が人より丈夫だっただけに、本人嫌そうだったし、ほっぺなどに大きく残った跡は痛々しかったです。
それに元美貌アナうんぬん言われていた時に、顔にできものができまくり、というのは今思うとかなり辛かったでしょうね。


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