”女どもがいつもの女じゃない。男に微笑みかけることをまず心がけるいつもの女じゃない。それにひきかえ女同士の交わす視線の暖かいこと!”(「流動」75年9月号 村上節子「国際婦人会議に参加して」より)
女子トイレは勿論女子用、男子トイレも女子用に変わり、売店の売り子がみんな男だったといいます。
母・節子が私を連れてメキシコに行ったのは、1975年の6月。国際婦人年のこの年、世界中の女たちがメキシコに集まっていました。その時のレポートを母・節子は雑誌「流動」75年9月号に寄稿しています。母の文を読んで、「ちゃんと意識して見ていればいろんな発見があったろうに」とかなり残念な気持ち。子供だったから、というより当時あまりいろんなことに関心が持てなかったんですね。
10歳のクソガキだった私は訳分からず、母が何故その会議に行きたいかも無論知らず、ただ母に付いて行くだけの初めての海外旅(この頃、海外行きはまだ珍しくて親戚が羽田! 空港まで大勢見送りに来ました)。
確かある日、なかなか起きない母を起こしにいって(多分日曜日だったのでしょう。平日だったら私が登校してもまだ母は寝ているのが常でしたから)ベッドに入り込み、肩をぽんぽん叩いたりしてて、急に言われた言葉が「綾子、ママと一緒にメキシコ行く?」でした。そんなシチュエーションなのに眠そうでもなく。むしろ厳しい顔をしてました。ってことは、ただ寝坊していたのではなく、ずっとメキシコ行きの事を考えてたんでしょうかね。会社にメキシコへ行く為の休暇を申請しても相当に渋られたらしいですから。強行突破した際の影響とか考えていたのかもしれません。当時の私はそんなことは知る由もありませんでした。
余談ですが、母の口から「女性」とか「女の人」という単語はまず聞いた事がないですね。「女の子」はよく使ってましたが。自分より年下の女は皆「女の子」。とにかく「女(おんな)」と言い続けました。女子アナ、という言葉もどうも嫌っていたようです。「女アナウンサー」とよく言っていました。「男カメラマン」なんて表現もしてます。なんだか少々乱暴なようにも生生しいような気もしますが、存在に対する愛みたいなものも感じられます。
母の文章を読んでいると特に「女」と表記される度に「女」への慈しみ、励まし、とにかく愛といっていいような暖かい感覚をおぼえるのです。
”とにもかくにも人間の歴史はじまって以来の女だけの会議なのである。事務局の話だと百三十三の国が参加したという。ここで百三十三種類のほかの国の女に会える_。これだけで私はドキンドキンと心が昂ぶった。”(前出の「流動」より)
メキシコで私が覚えているのはあの熱気。会議場で出会う人の誰も彼も女ばかり。それもいろいろな色の肌の女があっちへこっちへ、何かをやる気まんまんで闊歩していました。会議場のステージで演説してる人の話している内容は、英語だかなんだかさえ全くわかりませんでしたが、何かを分かり合おう、伝え合おうとしている空気の熱さは、その後の人生でもなかなかお目にかかれるものではありません。
思想家もいたようですし、専業主婦の人もいたようです。それぞれに立場が違っていてもそれぞれに問題を抱え、共鳴できるテーマを持つ女とそれぞれ出会おうとしていたらしいのです。なんともわくわくしますね。
ホテルの部屋で夜、多分一度だけ一人で部屋に残された事がありました。母が部屋を出る前に、1人でいて、こんな事があったら怖いよ、というのを訴えていたときの事。
部屋に暴漢がきたら、という意味の事を言いたくて「黒人が入ってきたら、怖いノ」
と私の口から出たのです。
母はそこですかさず「何故、黒人が怖いの? 黒人だと他の色の人とどう違うの?」という意味の話を私にしました。教え込む、というより考えさせたのです。
10歳の小さな頭の中に何ゆえ「黒人は怖い」などという概念が収まっていたのか我ながら不思議…。
母の話を聞いて「あれっ本当だ。どーして黒人=怖いって決め付けてるんだろ、あたし」とあっさりお目覚めの私。思い込みって怖いな。と、この時つくづく感じ入りました。
こんな風に、私がさりげなく言った一言などに母はその場でしっかり反応し、叱り付ける、というより諭されるという事が子供の頃は多くありました。母流の躾でしょうかね。
会議場で、いろいろな国や年齢や職業の女たちが、それぞれにテーマを抱えながら、おそらく自分が話したいテーマを持っている女と出会う為にあっちへ、こっちへと動き回り、あちらこちらで大いに話続けているとき。アフリカのそれはそれは大柄の(私もガキだったので、大人は皆大きかったですが)まっ黒い肌の女に会いました。その人が少し母のグループと話をした後だったか前だったか私の事をせつなそうな大きな目でじっと見つめ、手をぎゅっと握り締めてきました。後で聞いたら「あの方、自分の国に綾子と同い年の女の子を置いてきてここに来たんですって」それを聞いて、そうか、子供を置いてくるって親にとってもちょっと傷つくことなのだな、と初めて知ったような気がしましたし、そのアフリカの女の手は、もうこの上なく暖かく太陽の陽射しそのもののようで、黒人云々などと言っていた、多分1日ほど前の自分をほんとにアホらしく感じたものです。あのあったかさは今も忘れられません。
夜の街を歩くと、公園で物乞いの子供に声をかけられました。「ドルちょうだい」日本語ではなかった筈ですが、確かにそう聞こえたのです。スペイン語は「アスタ・マニアーナ」のように微妙に日本語と近いものもあるようなので、スペイン語そのものだったのかもしれません。母の方を見ると、首を振っています。お金は全くあげませんでした。その人にずっと責任を持てる訳でもないのに安易に手出ししない。そんな観念を知ったのもこの旅からでした。
その数分後、ストリートライブを始めたブラスバンドがあり、それに合わせてさっきの物乞いの子や、その仲間のような子供たちが嬉しそうに弾むようにボロボロの服を揺らしながら踊り始めました。
あの時、何故母があの会議に行きたかったのか、私は知りませんでした。
よく人から、他の事でも何故もっと母にいろいろな事をきかないんだ、もっと興味をもてとか言われました。まったくのよその人からも。私も興味が無い訳でも聞かない訳でもないのですが、母が答えにくそうにしてたり、曖昧にぼかされたりすると、あ、言いたくないのかな。それでもやりたい事なのだな。母がやりたい事ならまあ、いいか。無理には聞くまい、と、大体こんなスタンスでずっと来たのです。私は。
小さい頃に妹とか弟とか下の兄弟がいたら違ったかもしれません。もっと母に突っ込みを入れていたかも。小さい頃の私は一人っ子で、私さえOKならいいんじゃない、で済んでいたのです。
大人になって、後からいろいろ知り、母をますます興味深く見ています。そうだったのか。だからあの時ああだったんだ。…やはり「流動」の文を読み、メキシコに行った意味もしっかりと確認出来たように思えます。
”女が女に会いに行く。たしかに私は女に会いに行き、女に会って、おなかの底からわき上がるたしかな応答に元気づけられて帰ってきた。女と女が触れ合えば、正確に共鳴する。あまりにも女たちは、ひとりひとりのたこつぼの中に入っていて、隣の女がなにを考え、なにを望んでいるのかも知らないけれど、たこつぼをたち割ってみれば、それはあまりに女自身であることを発見する。
「外国の女も女だった?」
と、行かなかった女が聞いた。
「うん、外国の女も女だったよ」
そして、私はまた元気になった。”
(前出 「流動」より)
良かったね、かーちゃん。