世の中すっかり夏休み真っ最中ですね。私の通勤タイム朝9時頃だと、すっかり夏のお出かけルック(古?)の人々が増え、華やかなりし今日この頃です。
という訳で? 今回このページでも、母・節子の「面白かーさん」ぶりを少々ご紹介させていただきます。夏休みの絵日記を読むような気持ちでみていただければ…因みに前回までずっと書いてきた「母は面白い人」との「面白さ」はこーゆー意味「だけ」では決してありませんので、念の為。いってみれば「えがわあやこ的あたしんち」
<例えばその1>
「まったく“お嬢ちゃん”なんだから!」と、母から怒鳴りつけられた事があります。19歳頃のことでしたか。中身は忘れちゃいましたが何かおめでたいというか甘〜い考えを口走ったか、行動をしてしまった時でしょうね。まるっきりの他人に言われるならともかく。…もしもし?私、どなたのお嬢ちゃんでしたっけ?
なんか腑に落ちないですわねえ。
<例えばその2>
「すられた!」財布とか鍵とかなくすと母がすぐ言う台詞。ちょっと見て見つからないとすぐ言うんです。
がんを発症し、やがて歩けなくなり、自分一人で外出しなくなってからはさすがに「すられた!」は言わなくなりましたがね。
でもモノをなくすのは相変わらずで「メガネがない!」とかただシンプルに叫ぶようになっただけ。で、こちらが「あら、そう、大変ね」的な他人事態度なんかとっちゃったらあら大変。ボリューム上げて「探してよ!!」とまた怒る。まっすぐに。迷いなどなく。こちらが仕事中でもおかまいなし。
大抵、その後ちゃんと見つかるのです。
メガネが何故か冷蔵庫の中にあったり、しっかりと丁寧に探していかないと、常識にとらわれていては見つからないような所がたびたび発見現場となりました。どうも忙しさのあまり、いろんな用事を同時進行しようとするので、そんな事になっていくのでしょうかね?
母は会社員時代ずっとコンタクトをしていて、これをまたよく落としてたので、いつも家族皆で地面をはって探しました。あまりしょっちゅうだったので、幼い私はあんな面倒くさいものは持つまいと心に決めました。そんな私もやがて成長し近眼になりましたが、40歳を過ぎた今もメガネオンリーです。生涯このままの予定です。
<例えばその3>
「子供って産んどくもんね」もう私が24歳くらいになってたある日。それまでにないパターンの本を、トイレに行くから何か読むもの貸してくれ、という母に渡した雑誌が、ちょっと趣向の新しいタイプの、若者向けの本だったので(「月刊カドカワ」ですけどね…)出た台詞なのです。
今まで産まなきゃ良かったと思ってたのか…?としばし悩む私。
<例えばその4>これはちょっといい話
小さい頃から、母と私のコミュニケーションは、平日の夜と日曜日でした。ず〜っと仕事をしていた母は、私が幼児だった当時、まだ今に比べたら珍しい「働くお母さん」だった事もあり、またどうやら父との事でうしろめたさもあったのか(『私たちの愛』にそんなような記述があったので)?子供へのコミュニケーションを非常に大事にしていたのです。ん? じゃあ私ラッキーって事で。(別に子供に丁寧に接してる全てのお母さんが怪しいって言ってる訳じゃありませんよ)
季節ごとの七夕やクリスマスなどの行事をそれなり丁寧にやったり、何かというとぎゅっと抱きしめてくれて、「大事なあなただよ」という気持ちをおしみなく降り注いでくれました。ハグは大事ですね。力が蓄えられていく感じしますね。
おかげさまで、私が今までの人生通して何とか基本の所で自分を好きでいられるのだと思います。母は、自分のやりたい事もしっかりやって、自分の人生は充実させながら、そのリスクは背負いながら、私の事もしっかり見てくれた訳で。その後、例えば父とのことや子供から見たらショッキングなこともいろいろ知る事になるのですが、それまでに母から貰ったものが大きすぎて、母を憎んだり否定する様な根拠には決してなりえないのでした。それに母のやりたいことに口を出すなどとてもとても…出した所でやめる訳ないし。
更に、あんなによくしゃべるのに私のする事に言い過ぎず、手を出しすぎず、多少不満があっても母の方も「綾子が決めたことだから仕方ないか」と認めてくれるのです。私をとことん信じてくれていました。
多分、口出した方が楽だったと思うんですけど。
余談ですが、宿題もよく手伝ってくれました。「子供の、特に家庭科の宿題は親がやるものよ」とありがたい信念をお持ちだった母には、ホントにお世話になりました。教えるのに断念して、自分でやった方が早い…てな事だったのかもしれません。尤も母の学生時代の家庭科は、祖母が見てくれたそうですけど。
<例えばその5>
小学生くらいの頃から、遅く帰る母を待ち構えて(って訳でもないのですが家族で夜10時以降に起きているのは母と私だけ)夜に2人で紅茶やコーヒーを飲みつつ話をするのが常になっていきました。小学3年生で引っ越しによる転校をして不安定になっていた私は、それまでよりも更に母と接するのが意識として大事な時間になっていました。
話は、学校の事から「生きるって何だ。友達って何だ。男とは。女とは」など何でも。ひとしきり話して、オチがついた?あたりで「おやすみなさい」となるのです。これ、楽しかったです。
母はそれからまた原稿を書いたり、トイレで読書したり、友達と電話をしたり。(しかしよく喋りますわな〜)かなり夜中まで自由に活動しているのが常でした。
「綾子、コーヒーでも飲まない?」って何でテスト前日の夜に。「コーヒー飲まない?」はつまり「話でもしようよ」なのです。高校の時ですね。こっちとしては忙しいというか、普段勉強してないから、一夜漬けに近い形で試験勉強してるのに、そんなあたくしに、そんな日に限ってめちゃごきげん笑顔でお誘いをかけてくる母(日によってはすごい不機嫌顔で帰ってきて「あ、今日あの話をするのはやめとこ」と私にあきらめさせるくせに)。「テストだからだめか…」とか一応言いながら。
私は「え〜今かよ…」という気持ちと、「でも長い目で見たら多分試験の勉強(どうせただ暗記してるだけなんだし)より、母と人生論かわしてる方がなんぼも有意義なんだろな。ここで一息ついて、また後で頑張ればいいんだし」という感覚が交錯。結局、大概長い目で人生を見てしまう17、8歳の私がいました。(因みに高校1年の時は私の成績が無残で落第の危機がせまっていたので、母のお誘いもさすがに試験前はありませんでした)
ある夜、別行動をとっていて、「おやすみ」だけ言いに母のところへ行くと、何やら集中していて座禅のようなポーズをとっていた事があります。気軽に話し掛けられない空気を放っていました。後で著書にもありましたが、自分の神様に祈りをささげていたのかも。母の根っこを支える儀式だったのかもしれません。
私は立ち入ってはいけないものを「見てしまった!」という気持ちで挨拶なしにそ〜っとその場を離れ床につきました。
<例えばその6>
「綾子が3人いたら面白かったのに」。数年に1回言われてましたね、この台詞。3人いないのはこっちのせいでは無い筈なのですが、へえ、面白くなくてすみませんでしたね、と何故か返したくなるあの妙な迫力。結局、父・総一朗と結婚して、ちゃんとと言うのも変ですが娘は3人になりました。運命の巡り合わせですね。
世の中、充分刺激的な筈ですが母がいなくなってもうすぐ二年、私にとって、ある種の刺激が全くなくなってしまいました。これって私という人間の成長にいいんだか、何なんだか。