●私は母の侍女。

母・節子が乳がん、と診断をくだされてから、私は母についていよう、と決めたのです。

それは論理的につきつめて、とか、やはり実の娘だから、とか、頭で考えてそうした。という訳ではありませんでした。「がん」という名前に対する恐怖心からと、全くもって衝動的に近い気持ちで、これから自分は母についていよう、と思ったのです。後で、乳がんの中でもたちの良くない「炎症性乳がん」だ、と聞いてますますその気持ちを強く持ちました。

ジャーナリストとして、日本から世界まで広範囲なジャンルにわたって思索と取材と発表を続ける父・総一朗にもバンバン意見と指示を出す母。感情的な人かというと、その口と頭から繰り出す論理はあまりにも冷静でバランスがよくてみなぎる説得力。その母を癌なんかにみすみすやすやす連れてなんか行かれてなるものか。簡単には死なせないぜ。母がいなくなったら世の中の為にもならない。日本の、いや世界の損失だ。と、結構本気で。はい。

そうして何か役に立ちたいと、母の側をウロウロする生活が始まったのです。うるさがられながら。いきなり弟子入りしたみたいな密着度で。それが1998年10月。2004年8月に亡くなるまでの6年近く、弟子入り状態が続くのです。私は2番目の娘、「次女」なのですが、母にくっついていづこへか出向き、自己紹介する時「節子の次女・綾子です」と伝わるように心の中では「節子の侍女・綾子です」と挨拶もしてました。

この6年近くの間、何度母から「あなたは私の為に時間を使いすぎる。もっと自分の時間を大事にしなさい」といわれたことか。「側にいたらついついいろいろ頼んじゃうじゃないの」とも。でも自分で決めたんですよ、私は。母が闘っているのを遠巻きに見ていたら自分が後で後悔する! と感じたから、だからこそ弟子入り状態になったのです。で、やるからには楽しまなにゃと。笑顔でやりたいと。

私は自分が母を誇りに思ってる事を、人生のどこかで本人に伝えたいとずっと思っていました。母が病気になるより、ずっと前から。何故か母の方は微妙に勘違いしてたみたいだし。まさか親を恥じているとは思っていなかったでしょうが、誇っているとまでわかっていなかったようで、言葉の端々にまるで私が親の事でコンプレックスを持っている様な言い方をされた事もあったのです。(私が小さい頃に仕事やら何やらでかなりほおっておいた、という事で母の方がかなり気にしていたようなので)バカだねえ。私は節子さんが母親で得した、と思ってるのに。だって面白いし。母が癌、という勢いに乗じてそういう気持ちを言葉で伝える事が出来ました。私にとっての不幸中の幸い。

母が車椅子生活になってから、ある日何の話の流れだったか他の人に言っていた。
「綾子はいつも車椅子押しながらニコニコしているのよ。他の人からも嫌々やってるんじゃないってわかるわよ」
私が基本的には結構楽しんで弟子入りしてたの、わかってたよね。
そういえば、父も母の車椅子を押す時、いつもえらく嬉しそうだったなあ。(私が母を連れて外で3人で待ち合わせとかした時、父は私たちを、いや、母を見つけると満面の笑みを浮かべて「ありがとう、ありがとう」と言ってすーっと近づいてきてさっと車椅子ごと母を持ってっちゃう。その後は決して車椅子ごと母を誰にも渡さなくなっちゃう。毎日顔を見てただろうに、そんなに母と会えたのが嬉しいのね…)

私が生まれて以来、この6年ほど母と密着していた事はなかったのです。前に一度、母にもそう言ったら「そんな事ないわよ。あなたが生まれて3ヶ月位の間は」ですと。

生まれて3ヶ月って…しかも3ヶ月って…覚えてないっつーの。


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