最近、突然気がついた事がある。母・節子って人は、常に動き続け、とどまることを知らない人ではあったけど、基本的にせっかちでだけはなかったなあと。意外とね。かといって、のんびり屋という訳でも決して! なかったけど。そのせいか、その子供である私には、かなり成長するまで「急ぐ」という概念はあまり備わらなかった。(今も結構怪しいが・・)
あまりにも日常的な例えだが、私の食事の速度が節子さん(節子さんはかなり早く平らげる。例えば、私が前菜を食べ終わる頃にもうデザートに行っている、くらいの違い)に似ず、人より遅かったりするのはそんな所に案外原因があるのかも....。偏食が激しかった幼児の頃の私は今では考えられない程のガリガリな細身で、周囲から身体をとても心配されていた。そのせいか「残さず食べなさい」とは言われたけど急いで食べろとか片付かないから早くしろとか言われた事はあんまりなかったと思う。(まあ、平日に母と一緒に食事した事は私の子供の頃はほぼ皆無に近かったのですが)
一人っ子だったせいもあるだろうし、時間かけてでも全部食べろ、という方向での躾だったのかもしれない。
おかげで食事を残すのは心苦しく、多少無理してでも平らげる人間となったが....。ただしいろんな場面で超のんびり屋となり、人様に迷惑をかけることもある...。
節子さんにとって教育は「根気強くやること」だったのだろうか。
私に何かを教えるのに、途中で手を出して、私のやる気を萎えさせるようなことも殆どなかった。
また、外で毛虫を発見した際のことなのですが、節子は毛虫など大嫌いで実は見たら悲鳴をあげたいくらいだったらしいのだが、自分の子供に虫を見て「キャ〜」なんて叫ぶような女にはなって欲しくないと、子供=私の前では必死で悲鳴をこらえたのだと後年、自慢?してました。私はといえば、毛虫を見つけると「かわいいっ」と近寄っていく子供と相成ったのでした。いまでも毛虫には愛くるしさをおぼえます。この件に関しては節子、作戦成功。
信念、ですかね。我慢強かったんですね、そういう所は。
節子の質問に、私が答えを探して考えこんでいても、こちらの反応をじっと待っていた。「友達って何だと思う?」と聞いてきて、私が自分なりの友達と言う概念と言葉を捜していると、催促したり空気を取り上げたりせずにこちらの言葉をじっと待っていた。
ところで最近どこぞの人かが言っていたのだが、芸術家はせっかちでいいんだと。
でなければ作品を沢山残すことが出来ないと。なるほど、締め切りが決まっていないと取り掛からないようなタイプは、これはなかなかひとつの作品すら仕上げるの大変かも。
父・総一朗は、どちらかといえばせっかちさんだ。
おかげで仕事は早い。とりかかると後は早いのだ。しかもよく新しい企画も出すし、妥協もしない。それが形となり、出版された本は数多い。年間で5〜6冊出している。週刊或いは月刊、隔週、様々な雑誌で連載を出しているが、締め切りはほぼ守られている。(あっ耳が、じゃなくて目が痛い。このページを毎週ちゃんと更新できてない私としましては)
仕事大好き人間の父だから、というのもあるが、次へ、次へと急ぐ性格も幸いしているのだろう。
節子がもっとせっかちさんだったら、書きたいと言っていた小説や描きたかった絵、その他、女についてのエッセイなどもっともっと残す事が出来たかもしれない。がんの本だけじゃなくて。それは思い切り残念だ。
田原事務所の仕事だけはせっかちにやってましたがね。
物ごとに興味があり過ぎたんでしょう。目に付くもの、片っ端から骨のずいまでかじって行きたくなっちゃう人だから。ゴールにまっすぐ行かないで回り道しちゃう。でもそれも楽しんでいるし実になるから、回り道って訳じゃないのかもしれませんが。
なんとか出した『私たちの愛』(2003年)や『がんだから上手に生きる』(2004年)の執筆の時だって、なかなか取り掛からない。
(『がんだから----』に至っては、企画自体は、『私たちの愛』よりずっと前からだったのに、特に締め切りを決めなかったことから、ずるずるずると、完成が延びてしまったのだ。締め切りが決まっていなかったのは、病気を抱えた節子に対する、担当の藤波さんの暖かいご配慮だったと思われるのだが)
あの本も読んで、この人に電話して、その新聞読んで、あっ総一朗の原稿が出来てきた、チェックするわよ...
一体いつになったら書き始めるんだい。自分の原稿。
ある日いよいよ厳しい顔して「原稿書いてくる」ってパソコンの方にいくから、そっとしといたのに1時間たって覗きに言ったら、なんでパソコンのトランプゲームしてるんじゃ。
決まり悪そうに笑う節子。
あらまあ、な私。
受験生の親と子みたいな図。しかも立場は逆。
これと全く同じ場面がデジャヴのようにこの後4〜5回ありました。
その代わりといってはなんですが、節子がひとつの事に集中し始めると、話し掛けることはおろか、目のまん前の15cmくらいのとこで手をパタパタ振ってみても気付かないくらい。(よく父の原稿チェックの時にそんな事ありました)しかしなんで気付かないんでしょうね。
女は----(中略)捨てるときのひるみも強がりもいらない。いつもハダカの人間でゴーだ。(72年「流動」----女がラディカルな理由---より)
今思えば、70年代にリブの原稿を書いていたと思われる時期もそうでした。毎夜、10時か11時ごろ帰ってきて、新聞読んで、あの人に電話して、その本読んで、別の人から電話がきて、えんえん寝やしない。でもきっとあの原稿たちは締め切りがある程度きっちりしてたんでしょうかね。ずーっとずーっと後にちゃんと書き始めるのです。日付が変わって1時か2時頃くらいから。家族が皆寝静まった夜中の11時から3時ごろまでは母の自由なパラダイスタイムだったのかもしれません。楽しそうだったもの。今思うと。(私だけは小3くらいから夜更かしになりちょこちょこ母のパラダイスタイムを邪魔するのですが)
私ももう寝た後にふと目が覚めて、居間の電気がまだついている(母はいつも家では居間で活動していました)と、ちょうど母が集中して執筆中だったことが何度かありました。怖い顔して書いてるんです、これが。ちょっとの夜更かし位では、なかなかこの集中顔を拝めないのです。なかなか書き始めないんだもん。
でも今ならそれもちょっとわかります。まず他人(この場合、子供である私)が側をちょろちょろしてたらそれだけで集中できない。それと原稿に向かうためにはいろいろ儀式が必要。発散。頭の整理。自分自身の内面と向き合うために。
それに私も大人になってから、この頃に母が書いていたものを読んでおりますが、節子の文章は殆ど全て内面の「核」のような所から発していて、自分の、或いは他者の内なるエネルギーの成分ひとつひとつを丁寧に表現していくようなこの作業は、とっても穏やかな顔で出来よう筈もありません。
私はよく知人であろうとなかろうと目の前にすわる人の表情をよむ。と同時に自分の表情を計る。そして顔の中の枯渇した細胞の数をかぞえる。なんと多くの細胞が死にかけていることか。なにもわるい薬をのまなくても、公害にさらされなくとも、細胞が膠着するものであるらしい。例えば人さまに迷惑をかけぬようにするとか、世の中からはみ出さぬ自己規制をすると、とたんに石膏細工の細胞になる。男はだまって....のスタイルは大方、細胞膠着化の前身だ。
(73年リブ論第二集『告げる明日』---今、わたしは.....----より)
あっちへぶつかり、こっちへぶつかり、私は無器用にしか生きられないのだけれど、多分、明日もおもしろいよ、で生きている。
(76年「婦人公論」----手記 容色が理由で配転される私----より)
「基本的にせっかちじゃなかったんだねえ。ずっとパワフルに動き回っていたかーちゃん(最後の5年ほどはこう呼んでました)なら、もっとせっかちであっても良さそうなのに。なんでせっかちじゃないんだろうね?」
と、本人に直に聞いてみたかったな。
今の私にとって、母は肉体を持たぬ、母が遺した文章そのものになったかもしれない。
写真だけじゃない。思い出だけじゃない。確かな、母の思いが綴られた文章が遺されている(特にリブの時代のものは、みのりさんをはじめ、人からいただいたコピーが殆どですが)。母の言霊がぎっしり詰まった原稿たちが、ある。
言葉が好きです。言葉によって癒される。殴られる。勇気をもらえる。傷つけられる。救われる。表に出した途端に風に消えていってしまうのが言葉だけど、綴ることで、残される。そうして後世の人にも力をくれる。ような気がする。