●母とラーメン屋の関係

母・節子が実際に就いた職業は日本テレビのアナウンサーとCMプロデューサーと父・総一朗のプロデューサー。しかし前回でも書いたが、本当に何やっても生きていけるであろう人だった。例えば、家政婦紹介所の経営。私のシッターさんとして雇っていた家政婦さんに薦められた事があったそう。「奥さんくらいの才覚があれば電話一本で家政婦紹介所ができる。なんなら私が腕のいい家政婦を数人集めてきますよ」と。面白いですね、現役の家政婦さんからすすめられるなんて。
または前回でも書きましたが占い師でも。本屋の店主でも。

う〜ん、しかしラーメン屋は、どうでしょ。

というのもですね、『私たちの愛』に何度か出て来た、或いは、食事の時など皆で話してる最中によく聞いた、昔、まだ父との二人の関係が公にしにくい時代に〜周りの人は皆知っていたそうだが〜二人で社会からドロップアウトしたらやっていこうといっていたのが、橋の下のラーメン屋だったらしい。

が、それってラーメン屋をナメてないか。

節子は確かに何をやっても生きていける人だとは思うが、ラーメンの味は、未知だ。ま、きっと本気出せばいい味作るのかもしれないけど、実際に節子が作ったラーメン、というのは生まれてから23歳くらいの年齢まで一緒に暮らしてたこの私でさえ食べた記憶があまり無い。節子の作ったご飯はいろいろ食してきてしかもラーメン好きだったこの私でも。自分の好きなものはなんでも作ってた、と思われる節子が作っていない。つまり多分節子は元々そんなにラーメン好きではない? なのに。

なんでラーメンなんだ?

なんでダイワハウスなんだ並みによくわからない「橋の下のラーメン屋」は『私たちの愛』熟読中に私が陥った最大の「??」だ。しかも、社会からドロップアウトした二人が最後に行き着く先、つまりこの世の果て、みたいな置き所なのだが、どうしても二人でやるラーメン屋、って楽しそうに聞こえてしまう。狭いながらも楽しい我が家、みたいな。この違和感は節子本人にも何度か伝えたのだが、お互いの感じ相容れず。とにかく、なんだかラーメンだったらしい。
かーちゃん、やっぱりわかんないよ。

まあね、いざとなったら自分が何やったって、総一朗1人くらい食べさせてやれるわよ、って節子の覚悟だったって事はわかるんですよ。でもやはり。なんでラーメンなんだ? それならもうひとつ出て来た「この世の果て」タクシー運転手、の方がまだわかるのだ。二人でドロップアウトしたら、節子がタクシーの運転手になる。うん、まだこの方が納得できる。確かに東京の地理はわりと詳しいし、大胆ながら若い頃は上手な運転してたし。でも荒っぽい客とかとすぐ喧嘩しそうなんだけど…。節子は確かに食べることが大好きなんです。持ち前の「何でも知りたい」吸着力のある好奇心、貪欲なまでの生命力は大いなる食欲が源かもしれない。

「生野菜を触っているのが気持ちいいの」とトマトやきゅうりを洗いながら節子が言った。とにかく触っていたいと、節子がすすんで料理したがっていた時期があった。著書にあったのだが、最初の入院中からの大きな希望だった「大きな樹に触ってきたい」と2001年頃に熊野古道や西表島、マレーシアまでひとしきり旅をしまくった後からその感じが顕著になったらしい。普段の生活で出来る、大地との触れ合いとでもいいましょうか。それを聞いて私もあっさり影響を受けて、料理中に野菜を手にとっている時に大地の滋養を吸い取っているような感覚をおぼえるようになった。
そうするとまた、日々の料理も楽しかりけり。

ってゆうかそのくらい母や私の生活が街暮らしの人工的なものになってたって事なのでしょうかね。
そんな節子が2003年から、転移からか、抗がん剤の副作用からか、味覚をあまり感じられなくなり、例えば寿司のにぎりなど、もう美味しいとは思えないと、「ふきんを食べているようにしか感じない」と言い始めた。大好きだった秋刀魚の塩焼きも食べられなくなっていた。微妙な味かげんがわからなくなってしまったらしいのだ。
食べる事が大好きだった人が。

これは本当にかわいそうだった。がんになって、2003年以降に現れた病状はどれもなんで!?っていうものばかりだったが。それもあまり今までよそで聞いた事のない症状ばかり。大腿骨への転移で歩けなくなったり。目への転移で物が歪んで見えるようになったり。内臓は余程丈夫だったのか最後まで全く転移せずに、変なとこばっかし出た。?それでは食事も楽しくなかろうし、本人が声高に「濃い味のものが食べたい!」と言い出したこと(自分で気持ちの折り合いをつけ、どんどん希望を言ってくれるので、その点扱いやすい患者ですが。腹の探り合いにならなくていいから。この連載で何度も言ってますが我が儘ですけどね?)でそれまではあまり好きでなかったカレーを食べる事が多くなった。

麻婆豆腐、坦々麺…。ピザーラのピザを頼むのも好きだった。それまでとは少し変化した味覚にとまどいながらも、まるでその状況を楽しんでいたようにさえ見えたものです。だって、坦々麺なんて完全に味覚に異常をきたしてから食べるようになったものだが、喜々として食べてましたもの。
というより坦々麺やカレーや豚骨ラーメンだけが節子にとって「食事」になってたのでしょうね。他の、味がしない食べ物は「薬」でしかなかったのかもしれません。

そういえばこの頃雑誌「がんサポート」で対談した、あるお医者から宅配で札幌の有名店のラーメンをプレゼントしていただいた事があった。
これがまた濃い目のこってりとんこつの美味で。節子大喜びであっという間に食べきり、お礼も出した(そしたら後日またいただいた)。もしかしたらこの時に「ラーメン屋を開かなくて良かった…とてもかなわない」なんて頭をよぎったりしたでしょうか?  しないか。

このお医者は、対談中に節子に「私の今の状態は陸上でいうとどのあたりでしょうか?」と聞かれ、「第4コーナーをまわって、最後の全力疾走をしているところです」というようなことをおっしゃったらしい。(あとから思えば本当にそのあたりだった)
節子はやはりショックを受けていた。まさかそこまではと。でも感情をまき散らすでもなく、じっと自分の奥のほうで噛み締めているような様子で。やはり笑顔が減った。
この方は勿論、節子が味覚をかなり失っていることを知っていたと思われるし、ラーメンは多少、罪滅ぼし?(罪だったのかなんなのか…微妙)の意味も込められていたのかもしれない。


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