★生きたくて、生きている人たちは美しいな。(唐突ですが)
私は、時折思い浮かべる。
母・節子とがん友・重盛さんがウキウキと水天宮や人形町のあたりをおしゃれしておしゃべりしながら闊歩していく姿を。
「今年も生き抜いたぞ」との思いで進んでいく姿を。人形町の洋食屋さんで美味しそうにメニューを平らげていく二人を。誰も二人が難しい病気・炎症性乳がんを患っているなんて思いも及ばない、元気いっぱいな姿を。このお出かけから帰宅した節子の嬉しそうなお土産話と、著書による記述とでしか知らない、この日の二人。でもまるで見て来たかのように鮮やかに浮かび上ってくる。
とてもキラキラしているその場面たち。そういえば、節子はよく、「キラキラしたい」と言っていたっけ。
まだ、がん発症前の、再婚して数年目の頃だったか、なんの話の流れだったか「キラキラしたい」そういう節子に私は何の気なしに「ギラギラ、じゃないの」というと、「・・・」と吹き出しがつきそうな顔をしていたが。
きっと、キラキラ、なんだよね。ギラギラ、ではないんだね。なりたいのはね。でもこの言葉を発した頃の節子は私から見たら本当にギラギラして見えたのだ。
2002年の年末に決行された母・節子と重盛さん、二人だけの忘年会。
重盛さんは「こんなに綺麗な人だったのか」と節子を驚かすほど、普段のパジャマだったり、気軽に点滴の為に寝っころがれるカッコとは違い、素敵におしゃれをしてきてくれたそうだ。待ち合わせて水天宮にお参り。年末の活気に満ちた街を二人で歩く。ランチに入ったお店は人形町の「芳味亭」。有名な洋食屋さんだ。食べたものは、ハンバーグ。オムライス。ビーフシチュー。エビフライ。身体に悪そうなものばかり。でも「羽目をはずしているようで愉快だった」(by『最期まで微笑を』講談社)。「とっても美味しかった。綾子もお友達と行きなさい」と後から何回も言っていた。実は私は未だに行っていない。行きたい、行きたいと思ってはいるのだが。ただどこの立派な高級レストランよりも敷居が高い、特別な店に思える。
先月18日。大盛況のうちに終了した「東京マラソン」。東京の名所をまわってフルマラソンというのも斬新な企画で。夫がこれに抽選でしっかり当たって、参加してきた。私は普通に落選し、運動会のお父さんお母さんさながらでカメラ係となり、「ど」がつく程の雨だというのに新宿都庁前のスタートから途中、東京タワー近くの増上寺前や築地本願寺前で、止まない雨の中走ってくる夫や他のランナー、この大会の雰囲気を下手なりにカメラに収めた。(よその家族は走る人と撮る人とで携帯で連絡を取り合ったりしていた。走る方の人も携帯持ったまんまの人、多かった。ワンセグでテレビ見ながら走った人もいたらしいが。すごい時代になったものだ)
数日前、テレビの東京マラソン紹介コーナーで重盛さんのお店が映ったところを偶然見た。
重盛さんの家は、水天宮の真ん前というか、真横というか、そんな目立つ所で営まれている老舗の人形焼屋さん。重盛さんはそこを切り盛りするおかみさんだった。節子がよくいただいてきたものだ。元気と人形焼き。
テレビによると重盛さんのお店では、東京マラソンで、ランナーに食べさせる給食(!)の一種として6000個の人形焼を用意したとのこと。
重盛さんの配偶者の方だろうか、店主と肩書きのついた「重盛」姓の熟年という感じの男性がてきぱきと前出のテレビの中でレポーターのインタビューに応えていた。
夫にはお土産に一個くらい、くすねて持って帰ってきて欲しかったのだが、人形焼は早々に品切れになり、後方の走者にはまるで届かなかったらしい。(ランナーは3万人と言われていたが、6000個…でもしょうがないですね)夫は自分の分さえ手に入らなかった。
重盛さんとの馴れ初め?は確か、雑誌「がんサポート」かその前の「がん治療最前線」でいつも「がん友の皆様、ご連絡下さい」とがん友募集を掲げていた節子のもとに、重盛さんがお手紙をくださったんだったような・・。年齢も商売も違うし、同じ炎症性乳がんを持っている、という共通点だけの二人。(それは、探しても簡単には会えない共通点でもあった。しいて言えばおかみさん気質、のようなものは似ていたのかもしれない)、どんなに普段身近にいる家族よりも、がん患者同士でなければ分かり合えない、分かち合えない感覚や思いがある。らしい。
随分年齢を重ねてからの出会いだったが、とにかくすごく友達だった。
二人は同じ病院で、同じ曜日の同じ時間に抗がん剤の点滴を受けていた。示し合わせて、というよりも必要にせまられて。抗がん剤の点滴は5時間ほどかかり、しかもベッドの数は限られてるから、病人なのにここでも早い者勝ち。競争に破れたらベッドが空くのを待たねばならない。二人とも比較的病院の近所に住んでいて、朝早く出て来れば、ベッド取り競争には強かった。ナースさん達も心得てくださって、二人を隣同士にならべてくれて、そんな時の点滴中の時間はいつもおしゃべりに花が咲いたらしい。
同じ病気で、同じような薬を飲み、いってみれば同じ釜の飯を食う戦友だという。よく電話でも話をしていた。いくらでも話が尽きないらしい。病状、薬、家族の事。普通に歩いていると「お元気になられて」「治られて良かったですね」と声をかけられて、でも「治ってないもんね」「まだ病人だもんね」と首をすくめる。そんな気持ちを共有できる友達だったのだ。
重盛さんが亡くなったのは、それから半年ほど経った頃だった。(同じ病気の友人が先に亡くなる。私が実はもっとも恐れていたことでもあった) 節子の憔悴は見ていられないほどだった。かけがえの無い友を失った重い悲しみ、苦しみ。そして「自分もやがて…」という恐怖ものしかかっていただろう。何もかける言葉が見つからなかった。
丁度その一ヵ月後に、もう一人の大変仲のよかったがん友・中田さんも先に逝ってしまった。立て続けだ。(節子の闘病期はこの二人なしには語れない。私にとっても重盛さんも中田さんも忘れられない方々だ)節子が、笑えなくなった。
「私が彼女たちを支えていると思っていたが、支えられていたのは私の方だった」(『最期まで微笑を』より)父も一生懸命、「他にも友達いるじゃないか」「また友達作ればいいじゃないか」と言葉をかけたそうだが(そうとしか言いようがなかったのだと思う)、やはりそれでは埋められない、節子の心にぽっかりと空洞が出来てしまった。
みのりさんが大勢のお仲間と一緒に節子を訪ねてきてくださったのは丁度そんな頃。重盛さんのいなくなった穴は埋められなくとも、節子はまた新しい縁をたぐることができた。本当にありがたくて、私には、みのりさん達は羽が生えた天使のようにさえ思えたものです。しかも節子のリブの頃を知って、来てくださったと。父の妻、それもがん患者の、という枕詞で言われる事の多かった節子の、本当の「核」とも思える部分について知りたい、と来てくださった。みのりさんが間に合ってくださって、節子もどんなに嬉しく思ったかしれないけれど私もまためちゃめちゃ嬉しかった。
講談社の岡部ひとみさんから『最期まで微笑を』出版の話をいただいたのもこの頃だったと思う。新しい出会い、新しい仕事を経て、歩けなくなり始めた時期ではあったけれど、また節子が笑顔を取り戻せた。人と人とのコミュニケーションって大切。いやもしかしたら「人」とも限らないのかもしれないけど。
節子も重盛さんや中田さんという、大切な「がん友」とおしゃべりして励まし合ったり笑い合ったりしてた頃は元気だった。お二人が相次いで亡くなった時の落ち込みようは、私が知ってるどんな時よりも激しいもので、そしてなかなか立ち直れなかった。
父・総一朗が「お母さん(節子)は挫折なんて一回もしたことないんじゃない?」と、今でもよく言う。人間として67年も生きててまさかそんな筈は、とも思うのだが、父が言うには、自分は野球をやろうとして上手く行かなくて、作家になろうとして大江健三郎や石原慎太郎の小説を読んで諦めて、就職試験にいっぱい落ちて…でもお母さんにはそんな経験はない。何をやっても上手くいってた。僕とは全然違う、と。
確かに節子は受験も失敗したことないし、就職試験もコネなしで入ったと本人イバッてたし、裁判しても勝っちゃうし、癌になってもそれを逆手にとって?友達増やすは仕事も増やすわ。転んでもただでは起きないというか、ピンチをチャンスにかえるタイプ。節子の挫折は、共に病気と闘ってきた戦友を立て続けに失ったこと。そして亡くなる数ヶ月前から声が出せなくなった事かもしれない、と思う。