●さと子さんと節子その1

さと子さんが亡くなったのは結構突然だった。長いこと身体を壊していて、この時も入院はしていたものの、すぐにどうこう、という事はなかった筈だった。だから誰も間に合わなかったのだ。急変したのは、その日病院に見舞っていた末の妹・園子さんでさえ、帰宅した後のことだった。1996年5月25日。享年55歳。
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確か亡くなる3週間前のことだった。江古田の実家に一時帰っていたさと子から電話をもらった。
「きのう、節子ちゃんの夢を見た。入院した夢だった。大丈夫?」
ちょっと弱々しい感じだけど、やわらかくて、透明感のあるさと子の声だった。
「大丈夫だよ。ぴんぴんしてる。さと子ちゃん、心配してくれたの?」
「そう、とっても心配で・・・・・・」
(田原節子・著『最期まで微笑みを』講談社刊より)
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さと子さんと園子さんは母・節子の妹で、だから私にとっては叔母にあたる。節子の上にも一歳違いの姉・照子さんがいたのだが中学2年の春に病気で他界している。ずっと長い事、節子たちは3人姉妹だった。さと子さんは小学生の頃から、第二次大戦後の、混乱期というか復興期と言われる時期に、童謡歌手として名前の知られた人だった。(私が小さい頃は、知らない大人、例えば担任の先生などに「古賀さと子って知ってますか?」と聞くとほぼ100%知られていた程だ。単純に「すごいな」と思った)

さと子さんの死に、節子はかなりショックを受け、それは妹が亡くなったのだから、逆縁のような辛さがあったのだろうが「もっと会いに行ってやれば良かった」「もっと話をしてやれば」後に残された者は皆そうだと思うのだけれど、最善を尽くせなかった、との後悔が尽きなかったようだ。

節子は、とにかくなんせ、みのりさんがおっしゃってくださったように、ずっと動き続けていた人だ。いつだってやりたい事、やるべき事がいっぱいなのだ。さと子さんが亡くなった頃は、もう父・総一朗と結婚して7年ほどたっている。私が見ていた限り、父と結婚してからの節子のしゃかりきな動き方は、凄まじかった。さと子さんのことを勿論ずっと心配していたけれど、その事だけを考えてはいられなかったのだ。さと子さんが亡くなってからも、節子は園子さんと時折二人でさと子さんの話をしてはよく二人して涙していた。

節子は亡くなる2004年に入ってから、急坂を転げ落ちるように体調の崩れ方がひどかった。腰を自力では長く支えていられなくなり、本来すごい活字中毒、本の虫なのに、本を読むのは腕も目も疲れると行って、寝室で横になってばかり。
「余計な気つかうな」と普段は怒られてばかりの私も、節子がこんな寝てばかりで、身体より先に頭がボケちゃったりしたら、こっちも悲しいし大変だし、第一あれじゃ本人がつまらなかろうと、
「じゃあラジオ聞いてみる?」とCDラジカセを寝室に持ち込んだ。
一応、節子はそれにノッたのだが、つまらない番組ばかりで(たまたまその時間帯がそうだったのか?私自身はラジオ好きだが)、すぐに飽きてしまった。節子サマにご満足いただくのは容易ではない。

「じゃあさと子姉ちゃま(私は小さい頃から叔母たちにこういう呼び方をしている)のCD聞く?」とまるで業者さんのようにすかさず聞く私に、節子は意外な程素早く「うん」とのお返事。家にあったさと子さんのCDやらテープやらを片っ端からかけた。かけ終わると節子は「もう一度」という。「砂山」が聞きたい。「ふるさと」はある?リクエストももらった。いいぞ、いいぞ。節子の興味をひいたぞ。はーい、では次の曲は…。それこそラジオのDJさながらに曲を選んでかけたりした。

私の記憶では、節子は昔から音楽に殆ど関心を示さなかった。私が子供の頃など、家で音楽を流していると、「(自分の)考えがバラバラになる」といって嫌がった。それでも私は「ごめんね?」みたいな軽いスタンスで。音楽を聴く事自体は辞め(られ)なかったんだけど。節子が「もっと聞きたい」気持ちになる音楽はさと子さんの歌だけだった。

考えてみれば、調律師夫婦の子供で、音楽に囲まれて育ったであろう筈なのに、見事な程にのちのち微塵もそんな雰囲気を醸し出さない? 節子であったことよ。

照子さんも、相当な優秀な人で、将来をとても楽しみにされていたそうな。小学2年の時に作って投稿した俳句が新聞に載ったこともあったとか。
「満月や若いすすきが穂をひらく」
確かに小2が書いたとはにわかに信じられませんねー。童話らしきものもせっせと書いて、小学5年の時には小説家になりたい、という希望があったそうだ。

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姉は、私などよりはるかに優秀な頭脳を持っていた。
文学少女の長女の照子と、童謡歌手の三女のさと子の間に挟まれて、健康だけがとりえの「普通っ子」の私もそれなりに大変だった。でも、落ち込んだりしなかったのは、姉妹仲がすごくよかったからだろう。
(『最期まで微笑みを』より)
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しかし、とんだ「普通っ子」もあったものだ。


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