●我が母ストーリー   さと子さんと節子その2

母・節子の葬儀で出棺のときにさと子さんの「ふるさと」が流れた。姉・敦子の発案だと思う。
♪うさぎおいしあの山 こぶなつりしかの川♪
である。
節子がさと子さんの曲の中でも、とりわけ好きだった歌だ。

私は、さと子さん全盛期である子供の頃の歌を本当には知らない。生で聞いた事がない。年齢的に仕方ないのだが、これが非常に残念。私がさと子さんの子供時代の声を聞けるのは1974年頃に出したと思われるベスト盤や後に「懐かしの童謡大全集」のような企画もの的CDなどで聴くだけだ。

といっても、これがなかなかいい。74年のベストが出た時、10歳でフィンガー5に夢中だった私だが何度も何度もさと子さんの歌も繰り返し聞いていた。ファンになった。

有名どころの「子鹿のバンビ」。他に「ピーコポン」「ぺたこ」(すごいノリのいい曲で私はこれが大好き)、「砂山」(ほんの少し大人びた声になったさと子さんがさも楽しそうに歌っている。メロディが結構難しくてこれをこなすのはさぞ快感だろうな)いいんですよ、これら!

お腹から張り上げる、といっても無駄な力みのない、リズム感の豊かな、まっすぐに響いてくる感じの声。
「童謡集」のようなCDでは他の子供歌手の歌も入っているが、録音が古いせいも多分あるのだろうが、舌ったらすなペチャペチャした歌い方の人が多く、とてもさと子さんのとは比べものにならない。一目瞭然。「一耳」か。身びいきだけではないぞよ。
父親(私にとっては祖父)がそれこそ手取り足取り指導でさと子さんに歌の練習をさせたのだという。

祖父も歌手になりたくて15の年になんと佐賀から!上京してきた人だ。
1992年に亡くなった祖父のお通夜の時に、調律師時代の同僚だった方が弔辞で「良ちゃん(祖父の名前は良三)は、妬み嫉みのない人で…」といった言葉を贈ってくださり、遺された家族はそれでまた涙、涙だった。気持ちのまっすぐな、非常に真面目な、そして誠実な人だった、と祖母も節子も末の妹・園子さんもそう言っていた。

第二次大戦中、疎開していく人たちが残していくピアノを次々に買取り、またいろいろなピアノの部品、銅線を買い集め、戦後に買い占めていたピアノを塗りなおしたり調律し直したりして売ったそうだ。このアイディア自体は、おそらく商才ある祖母のものと思われるが、焼け残ったピアノを解体して日なたの庭に並べて作業をしていた祖父は幸せそうだったそうです。

私は祖父ときちんと1対1で話したこともないけれど、とっても生真面目な人であったことは憶えている。
うまく立ち回る、とかとても考えもせず、出来そうもない人。いろいろなエピソードを聞いても、純粋に「音」を愛していた人だと思われる。
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父親は、苗を育てるように大事に(さと子の歌を)育てた。歌手を育てよう、というのでなくて、彼女がいい声で歌を歌っていればそれでよかったのです。
(『私たちの愛』講談社刊より)
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さと子さんも、父親に言われたからだけじゃなくて、きっと心から歌が好きだったんだろう。まだ本格的に歌を始める前、家の出窓に身を乗り出して、よく童謡を歌っていたそうだ。道行く人が、立ち止まり、見上げ、拍手もわきおこったっという。
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「外に向かって大きな声で歌ってるとみんなに聞かれちゃうじゃない。さと子、恥ずかしくないの」
「ううん。たくさんの人に私の歌を聞いてもらうと、すごくうれしい」
子供心にもこの子と私は違うのだ、とはっきり思ったのを憶えている。
(『最期まで微笑みを』より)
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そういえば、これも私の子供の頃だが、私も小さい頃から歌好きで、適当に鼻歌よりももう少し大きな声で流行歌などを家の中でも歌っていたのだが、そうすると節子から
「もっとお腹から声を出して」とか「言葉をはっきりと発声して」とか、注意を受けたことが何度かあった。別に発表会で歌うとか、そんな予定はまるでなく、ただ家の中で歌ってただけなんですけど。

さと子さんの子供時代の、特にデビューしてから2?3年、小学4年頃までの歌声は、もう歌が好きで好きで、歌うのが楽しくて仕方ない感じが良く伝わってくる。それが成長と共にややテクニックに走るきらいが出始め、大人になり、声がわりをした後の歌声も少し残っているのだが、もう仕事だから仕方なく歌ってるのよ風にさえ聞こえてしまう。
「ワク」って窮屈なものだ。
でも「ワク」があるからこそ、それを飛び越える為のパワーが溜まっていくって事もあると思うんだが。しかし、それがきつ過ぎると…? さと子さんにとっていつしか「童謡」はきゅうきゅうなワクでしかなくなってしまったのかもしれない。

1970年代頃、さと子さんも30代に入る頃だが、次第に童謡を歌うことを拒否するようになったそうだ。
全共闘の時代、学生たちがさかんにコンサートをやっていて、彼らに童謡は一種の癒しのように受け取られていたらしいのだが、呼ばれたさと子さんは、やはり童謡は拒否し、歌ったのはジョーン・バエズの「花はどこへいった」などの反戦歌。
シャンソンを歌ったこともあったという。

私もさと子さんが身体を壊すまでの、大人になってからの歌声を聞いたことがある。まだ小学1?2年で、歌の味わいだなんて考えない頃だった。今、聞いてみたいな、と切実に思う。どんな歌だったんだっけ。やはり職業だから、みたいな歌い方になっていたんだろうか? それとも楽しそうに歌っていただろうか。

2004年 8月6日。節子は集中治療室に入った。入ったベッドの側に何故かラジカセが設置してあり、使ってもいいんですよ、と言われた。
もう意識があるのかないのか、見た目には殆ど分からない節子。聞こえるかどうかもわからないけど、「聞こえるかもしれない」そこにかけて、またさと子さんの歌を流し続けた。
気のせいかもしれないけど、歌を流している時は、心持ち表情がなごんで見える。あまりにもしつこい程にエンドレスで流し続けるので、ナースさんから「お孫さんの歌ですか?」と聞かれたりした。
「いいえ、節子の妹の子供の頃の歌なんです」とだけ答えた。
集中治療室の中で、家族の誰かが付き添う時には、必ずといって良い程、かけ続けた。

先にも書いたが、節子出棺のときに流れた「ふるさと」。とくに最期の頃、ず?っと、ず?っとさと子さんの歌を聞き続けていた節子の旅立ちにふさわしかったな、と今、改めて思う。


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