がん専門誌「がんサポート」(エビデンス社)、またその前身ともいえる「がん治療最前線」の連載時から母・節子の担当編集者だったお一人に、志治美世子さんという方がいらっしゃる。その志治さんが「医療の光と影?隠ぺいとの闘い」(仮題)で今年2007年の開高健ノンフィクション賞を受賞された。
この場を借りて、あらためまして。本当におめでとうございます。すごいことです。
志治さんはわざわざ私にまで受賞の事をメールで報告して下さった。
「節子さんが護ってくれたおかげです。ありがとうございました」とあった。
私はなんだかしみじみ。
時折、節子に挨拶をと志治さんはご連絡を下さる(今も節子の骨は父・総一朗の元にある)のに、うちの都合等でなかなか実現出来ずにいる。
対談連載以外でもお世話になった。2003年の「がんサポート」主催のよみうりホールで行われたシンポジウム。2004年の2月に行った高知のがん患者会「一喜会」でのシンポジウム。2004年6月、最期の入院後二週間後に俵萌子さんの「1、2の3で温泉に入ろう」主催の江戸東京博物館で俵さんと絵門ゆう子さんと鼎談をしたイベント。多分他にもたっくさん。
志治さんは、節子のただ、担当というだけでなく、節子自身をとっても慕ってくださり、細やかに気をつかってくださり、愛するように深く思いやり、見つめ続けてくださった方だ。まっすぐで熱くて健気な方だと思う。そして貪るように二人は、よく話をしていた。
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4月には私たちは京都の円山公園に、しだれ桜を観に行く約束をしていた。たまたま節子さんの体調が悪かった前年春からの、2年越しの約束だった。そしてその約束は、果たされないままに3年越しのものとなった。
(中略)座位さえ不可能となり、寝たきりとなってもストレッチャーに乗り、クッションで全身を支えながら、1時間半もの患者会のトークショーにゲスト出演した。死の45日前のことだった。あまつさえさらにその後、テレビの生放送にも出演している。教科書どおりのように進んでいく病状。次々に現れるモグラたたきのような転移。
(中略)「まったく、もう!」お見舞いの病室で呆れる私に、節子さんは苦しそうな息のなかから言った。「ねえ、私、変じゃなかった? しっかりしていた?」「大丈夫、とってもきれいだったよ」
本当に、なんという美しい人だったことだろう。
彼女が逝き、そして私は「田原節子」というかけがえのない世界をひとつ、失ったのだった。
(志治美世子「節子さんがくれたもの」(京都・妙心寺の機関誌「花園」)より)
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志治さんは今も「節子さんと桜を見る約束をしていた春」(この約束はついに叶えられなかった)と「節子さんが逝った夏」には便りにメールをくださる。いつもとってもありがたい、と思う。節子ってほんとに美しいというか、濃い人だったんだなあ、忘れられてなくて娘としちゃあ嬉しいなあ。あらためてしみじみ。
炎症性乳がんを発症した節子の身体が少しずつ弱っていく過程の中で、節子の後ろからちらりほらりと顔をだしながら節子の活動に手を貸している私のことも、志治さんはよく気にかけてくださった。
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(中略)彼女のそばにいるだけで、自分は強く生きることが出来る人間なのだ、と信じることが出来た。
彼女が時折ふと私に見せてくれる、私への信頼感が、そう信じさせてくれた。
そして、だからこそそんな彼女が時折、本当に時折、垣間見せてくれる人間としての弱さや、苦悩のかけらが胸に響いた。
生きていてくれたら、もし今でも生きていてくれてさえいれば、と思う。
「まだまだ、あなたから欲しいものは山ほどあったのだ」 と、貪欲に思う。
あなたが乗り越え、築いてきた時代を、私も実感したかった。
あなたと過ごしたほんのささやかな時間が、今でも私の涙を溢れさせる。
(志治美世子ブログ「天にいたる波」2005/6/26より)
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繰り返しになるが、節子が最期の入院をしたのが2004年6月。志治さんはよくお見舞いに来てくださった。あと、目もあまりよく見えず、本を読むために本を支える為の手の力も失われていった節子に、ご自分で朗読した『博士の愛した数式』(小川洋子 著)のカセットテープをくださった。丁度この本が話題になっていた頃でもあった。朗読ってなかなか体力仕事だ。咽もカラカラになるだろう。しかも小説1本分。病室で節子と一緒に私も聞いた。(誰かがいないと節子にはラジカセのボタンを押す力もなかったから)
「志治さん、(読むの)上手ね」
節子は言葉づかいとか発音に非常に厳しい。他のことにも厳しいが、元アナウンサーだったからなのか、言葉にはとにかくうるさい。その節子が誉めた上に面白がって聞いていた。
このテープをとても喜んでいたのだが、「ただ、聞く」ことにも体力が必要だったようで、結局節子は半分ほどしか聞く事は出来なかったけれども。
(2004年に入ってからの、まして最後の入院をしてからの節子の衰えはすさまじい程早かったから)
志治さんと節子が本当に親しくなったのは、やはり最期の1年ほどだったそうだ。もうちょっと長く付き合ってなかったっけかなあ、というくらい、二人は仲良しだったけど。
みのりさんと節子の付き合いも、実際には1年くらいだった。節子の短いながらもいっぱいつまったと思われる人生の中で、また更に最後の数年は、このページでも何度も触れて来たけれど、友達も増え、その分、先に逝った人もあり、節子もまた逝って、沢山の別れがあった。出会いと別れ。でもそれは悲しいだけの事では決してない。
節子の友達になってくださった皆さんが、今でも節子の話をしてくださるたび、あああの人のところにも節子がいる、こちらの人のところにも節子がいる。それぞれの方が内に節子を住まわせてくださる。節子はあまり子供を生まなかったけど、医学的には子供は私1人なのだけど、なんだか、ひろ?い意味では私には姉妹(ときどき兄弟も)がたっくさんいるなあ、と思えてしまう。
志治さんが私を「節子の黒子」と表現してくれた事がある。私は節子が発症してからは、それは密着して節子にくっついていたから、そう言われる事は全く嫌ではなかった。とにかく節子が少しでも豊かに活きるように、役立ちたいと動き回っていたから。(それは以前にも書いたが、そうすれば愛される、というような感覚に近い、幼稚かもしれない、幼稚かな、幼稚だよなあ、な子供心も多分にずっとあって)
それにしても、黒子は黒子でも、人形浄瑠璃とかパペットマペットなどの黒子ではなくて、歌舞伎とか、人間がちゃんと衣装つけて出る方の、黒子なんだよな。私の動きは、節子の意志ありき、だから。
節子は湯たんぽのようにくっつく私に「あんたはもっと自分の為に時間を使いなさい」と母親らしく大概は言っていたけど、一度だけ、私が自分の周りで常にうろちょろするのを
「便利じゃん!」
と元気に言い放ちおった事がある。私の目の前で。聞いていた父・総一朗が「そんな、露骨な・・・」と多少ひきぎみだったのがなんか今思い出すと笑える。
次回は、何故、私が総一朗を「父」と呼んでいるか、母・節子の夫でなあるけれど、節子と総一朗が結婚したのは私が20歳もとうに過ぎた頃で、別に「父」という訳でなくてもいいのですが、そこをまたあえて何故・・・という部分についてお話させていただきたいと思っております。