●母親の恋

そういえば、私が初めて母・節子が本当に恋をしていたのだとわかった時、正直なところあまり気持ちの良いものじゃなかった。すぐ認めたけど、嬉しいものではなかった。子どもにとって、母親には「女」であって欲しくないものなのかな。

節子は松山千春の「恋」を好きだと言っていた。
同じ頃に流行っていた沢田研二の「憎みきれないろくでなし」を嫌いだと言っていた。

「恋」(作詞・松山千春)はこんな歌詞。

男はいつも待たせるだけで 女はいつも待ちくたびれて それでもいいとなぐさめていた
それでも 恋は恋(略)
今度生れてくるとしたなら やっぱり女で生れてみたい
だけど二度と へマはしない あなたになんかつまづかないわ

「憎みきれないろくでなし」 (作詞・阿久悠)とは陽気なイントロと曲調でこんな歌。

傷つけ合うのが嫌いだからとずるずるみんなをひきずって
最後にあなたはあなたはどうするどうするつもり
恋に埋もれ死ぬ気でいるの 憎みきれないろくでなし。

「恋」も「憎みきれないろくでなし」も、1977〜8年の、私が中学生の時に流行った歌。歌詞を深くかみしめながら聴いていた時代。節子はといえば私が覚えている限り、音楽は基本的に嫌いで「音楽が流れると考えがまとまらなくなるのよ!」とはいつも言われてたが、あの歌がいい、この歌はいやだ、などと殆ど口にした事のなかった節子がこの頃、この2曲に限ってとみにそんな事を言い出していたので妙に覚えている。

「恋」を好きという節子が、私は嫌だった。「恋」に出て来るような女であって欲しくないと思ったのかもしれない。やはり子供として自分の親には生々しい所を見せて欲しくないものだったのか。あのころは、「なんでこんなメソメソな曲をいつも強そうなママが好きとかいふ?」と弱冠こんがらがってもいた。

今、思うと、あのころの節子は、恋の悩みが深くなってきた頃なのかもしれない。例の裁判の後(※容貌が衰えたとテレビ局にに退職勧告を受け、裁判をおこした)アナウンサーからCM制作部に異動してまだ1〜2年、神経を遣い、より心が敏感になっていた頃だったかもしれない。やたら切なかったのかもしれない。

家で私と二人の時にそっと、「友達が癌なのよ」と独り言の様に呟いた事があった。
「その人には綾子と同じ位の年齢のお嬢さんが二人いるの」
さすがにというか、その時、その友達というのが自分の恋人の奥さんだなどとは言わなかったが、寂しいとも悲しいともつかない、軽く魂の抜けたような、心もとない目で。私は勝手に確信している。私と同じ位の年齢のお嬢さんとは、今の私の一つ上の姉(総一朗の長女)と一つ下の妹(総一朗の次女)のことだった、と。

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いつかどこかで会うだろう、と思っていました。私が言い出すことは絶対にないにしても、末子さんが私の前に現れたとき、それが六十歳なのか、七十歳なのか、あるいは八十歳なのかはわからないけれど、いつかどこかでかならず会う日がくるだろう、という気持ちをずっと抱いていたのです。病気はそれだけでハンディキャップとなりますから、末子さんが元気でなければ話をするわけにはいきません。病気と聞いたとき、あわてました。待ってよ、黙って病気にならないで。みんなで生きていこうよ。
だから、絶対に治ってほしかった。どう表現すればいいのか、末子さんは、ある意味で同志でもあったのです。そして、末子さんは私を含めて、みんなに守られるべき人、大事にされるべき人だったのです。     『私たちの愛』(講談社)より

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実に勝手でわけのわからない論理のようで、無理があるけどでも偽らざる心境だったのだと思う。

当時の節子のところに行って話を聞いてやりたくなってきた。


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