♪誰かが言ってたぜ俺は人間として自然に生きてるのさ
自然に生きてるってわかるなんて なんて不自然なんだろう♪
(吉田拓郎「イメージの詩」)
突然ですが、何故か吉田拓郎からスタートした今回。私は思春期にこの曲を聴いてから、「自然に生きる」、という観念をきくとこのフレーズを思い出す。「自然」なんて死語になっちまったような気もするのに。
また、母・節子の掲載誌を見つけた。ちゃんと虫干しとかしないから、すごくカビくさくなってしまっていた。
「現代法ジャーナル」1973年1月号(勁草書房より)に原稿を載せていた。
タイトルは「女にとっての社会と法」。書いた節子は36歳くらいだと思う。
節子は、昔から自分から私に自分の発表された後の原稿(掲載誌)を「こんなの書いてたのよ」と見せてくれることも多かったのだが、今回の「女にとって−」は、聞いた事のないものだった。私の知らない節子の文章に今更ながら出会えるのは、やはりなんだか嬉しいこと。残念ながらこれから新しい話を聞けることは決して、ないのだから。
この当時の節子が、仕事や自分の心のあり方に相当ハードに悩んでいた様子が垣間見える。
もしかしたら、節子もあまり出来に納得していなかったのかもしれない(「そんなことないわよ!」て怒られるかな?)。節子にしては随分まわりくどくて、七転八倒して書いているのが見えるような文章なのだ。
内容は、というと…。あまりにも人工的になりすぎた世の中の「男」にとって、「女」とは自然につながる道しるべ、或いは自然そのもの、という風潮、考え方が存在するが、女張本人の節子としてはあまりそうは思えないし、今さら正気のまま自然であることには無理がある。女が自然である為には法律や社会との制約がネックだ、でも自然であることには憧れる、というような内容。これが全編、熱い節子節(せつこぶし)で語られる。
節子の、今まで私が読んだことのある他の文章に比べて、なんだか長く感じるのだけど。小難しそーなんだけど。少し読み進めていくと文章の端々から、本人のこのテーマに対する、並々ならぬというか、不健康なまでの喰いつき具合が見えて、気になって仕方が無いシロモノとなった。
「女にとっての社会と法」の節子によると、書かれた当時おそらく1972年頃、「女は自然そのもの(で、あって欲しい)」との風潮があり、映画監督フェリーニ氏や作家ノーマン・メイラー氏もそういったものが根底に流れている映画や論文を発表していると。
男が女に求めてやまないのは、性、人間(男)が自然(女)に回帰する時間と、フェリーニ氏はいいたいのだろうか。自然には翳りや屈折はない。
(中略)
身の内に子宮という小宇宙を抱えた女は、月の運行に従って、自然の流れのままに、食べて笑って眠る。これは大昔から今にいたるまで、変ることはない。
(村上節子「女にとっての社会と法」)
そりゃまあ男よりも女の方が、身体と心のつながり、身体が周囲の様子で変化していく様子は感じやすい構造になっているわけで。
でも。自然。って何だろ。
心のままに振る舞う状態か。体の声に心を研ぎ澄まし、いつでもその声に従い動くこと?
無理だよ。
人間だもの。(相田みつを!?)
ハイ、私は自然。未来へのパスポート。永劫への道しるべ、どなたでもご一緒しましょう、と口をあけて待っていたら、一体どんなおいしいものを食べさせてくれるというのだろうか。
(中略)
女はそうやすやすと自然にはかえらない。たとえ「自然であること」に憧れても、身のうちの小宇宙=子宮をかかえ込んだまま、(中略)そこに両足をふみ入れることはないだろう。自然であることは所詮人間であることではないのだから、どだい絶望あるのみだ。
(「女にとっての社会と法」)
どう考えても、私・えがわは欲望のままには生きてない。やりたいことだけやって、ではなかなか生きられない。上司や同僚や部下や客や業者や親や子、兄弟姉妹。友人。敵も味方も。きっと大抵どちらも皆さん、道々折り合いをつけながら、ぶつかりながら道をこなしながら生きてく訳で。それでもやりたい事の何%をこなせているのだろう。ん?!欲望と自然、はまた違うのかな。
だが、メイラー氏のいうように、たしかに女は男より自然への至近距離にある。とすれば、生む性である女は、ヒトとしてもっとも自然に近いところにまで近づくことはできるかも知れない。それが多分新しい女の創造になるのだろう。しかし、それは男のいう、あるいは期待する女=自然とは似て非なるものになるはずである。
(「女にとっての社会と法」)
この原稿が書かれた当時より15年ほど経っている訳だが、今も女たちは、ヒトとして自然というか、幸せを感じられる方向を模索し続けている。それは到達する日がくるにしろ来ないにしろ、死ぬまで続く道程なのだろう。いづれにしても男のためではありませんわな。女じしんのため。
ところで。
私は、訳知り顔で一歩ひいて、達観した傍観者でありたいと、ついこの間まで思っていた気がする。人間同士のドロドロの当事者になるのは避けたいと。
感情的になるなんてかっこ悪い。みたいな感覚。
なんて、ええかっこしい。
やなやつだな。
そんな私のひきこもりぶりに、ガツーんとパンチをくらわせる、節子の思いの続きを、また次回に続いて書かせていただきたいと思います。
だって、長くなっちゃったから