夏がくれば思い出す。
昔、まだ節子も病気になる前のこと。猛暑なのに、真っ昼間、全くエアコンをつけないで節約、と思いながら「1人我慢大会」を家でしていた私。その最中、たまたま母・節子から電話がかかってきたので、私はエアコンをつけないといかに暑くいかに汗が流れ、いかにモノが考えられなくなるかをそれこそ熱く語ったら
「やあねえ、冷房つけなさいよ」とあっさり言われたことを、思い出す。
さて今回も。
節子が私にその存在すら知らせてくれてなかった原稿「女にとっての社会と法」
(1973年刊行の勁草書房「現代法ジャーナル」より)。
前回に続いて、またこの作品に食いついてみたいと思います。
この原稿の中に、自然に生きたい節子の嗚咽が聞こえてくるような文章が、あった。
この部分は、どことして外せず、お目にかけたいので長いけど、一気に引用させていただきます。
数年前、私は「気狂いこけしになりたい」と思っていた。女が「自然のまま」に生きる方便は狂気であるしかなさそうだった。まさしく自然なる狂気に憧れた。女がエゴイスティックに仕事を続ける姿勢のしんどさに何度目かの弱音を吐いた時分、日記にはこう書いた。
疑いもなく童女のように全面降伏をして、ただあなただけとすがる女が美しいし、かわいい。理屈女の中途半端のあいまいさ。女に自分なんてあるものか。好きで好きでということにすがりつくだけで他になにができるものか。自分にできることを小賢しく説いてみたところで女にできることはみな、途中までだ。
それでもなぜか仕事を持つ姿勢を変えられず、仕事の形式の方をねしまげたがった。
私はふと彼と桜を観にいきたいと考えた。なにをするでなく、いつまでに帰るというのでもなく桜を観にいき、桜が若葉になる頃、桜が終ったから、帰って仕事を始めるかというような旅をしてみたい。吉野の山でもいい。十和田湖でもいい。遠くの桜。白い大きな木の下で、バカみたいに笑っている二人。
気狂いになったら彼は引きとってくれるといった。気狂いになった彼を私は引きとれないといった。なぜ私は引きとれないと思うんだろう。他人にまかせておけるものでもないのに。気狂いの私は、にこにこ笑ってますますふとっていく。きれいな気狂いでなかったら引きとり役の方がいい。きれいになれるのだったら静かに彼の側で、秘蔵のきたないこけしみたいに坐っていよう。
気狂いになることでしか、今も私は、自然に「自然」でありることはできないと思っている。だが浮世に未練のある女の正気はごく健康である。今さら、狂気を気取ってなにになろう。
(村上節子「女にとっての社会と法」)
「理屈女の中途半端のあいまいさ。女に自分なんてあるものか」どうした節子。
「好きで好きでということにすがりつくだけで他になにができるものか」何があった母上!
「自分にできることを小賢しく説いてみたところで女にできることはみな、途中までだ」しっかりしろ、傷は浅いぞー!!いや、かなり深いのか。
相当強く壁にぶち当たっているな。
この節子の物凄い自虐的な愚痴に、今の私はこの時の節子(多分36歳頃)よりだいぶ年上になっているし、この時の節子のもとへかけつけて、両肩つかんでぐらぐらぐらと揺らしてやりたい気分。でも強く振り払われるんだろうけど。
「彼」と遠くへ桜を観に行って、桜の下でバカみたいに二人で笑って、桜が終ったら帰る。
(やはり「彼」は父・総一朗のことだろうか)まあもうその行動が「狂気」とは言わないまでも「常識」的ではないでしょ。でもそうしてみたい。そうするのが、節子にとって「自然」なことだったのだ。
そうしたいのを押し殺して、生きていかなければならなかった節子。
その「自然」な気持ちを前面に出すことなど考えられないが、もしするとしたら、それは狂った時だ――。狂ってしまえば出来るかもしれない。許されるかもしれない。
気狂いになったら引きとる、とはロマンチックな言葉だ。いかにも男の言葉だ、という気がする。
でも「引きとる」とはまさに何もかも請け負う、ということで相当な覚悟が必要な筈だ。多分、それで節子は「引きとる」と言い切ってしまうことを躊躇して「引きとれない」と咄嗟に口に出たのではないか。それは女の考え方なのだろうか。
自分にも「彼」にも配偶者と娘がいて。(特に自分には丈夫だけどおばかな娘がいて)自分にも「彼」にもゆずれない仕事があって。いろいろぶつかることも多い日常。やりたいこと。やるべきこと。やれないこと。せめぎあい。
節子はこけしが好きだった。何体(という言い方でいいのだろうか)も集めて持っていた。節子が住む家には昔も最近も、今の都会の高層ビル群のように、いろいろなサイズのこけしが並びそびえ立っていた。みんな昔ながらの、「和」な顔のこけし。
狂気とこけしを一緒にして「気狂いこけし」。手も足もない「気狂いこけし」。それが節子の憧れる姿だったのか。そんな自分を夢想することで、ほんの一時、苦しさから逃れ得たのか。逃れる時間は絶対必要だったのだろうけど。たいして長い時間ではなかったにしろ。
それでも次の瞬間、ふっと前を向くのだ。
「だが浮世に未練のある女の正気はごく健康である。今さら、狂気を気取ってなにになろう」と――。
・・・スペース的に辛くなってまいりました。すみません、節子の「自然」に対するこだわりを次回もまだ引き続き紹介させていただきます。