前回、1回抜けましたが、また引き続き「現代法ジャーナル」(勁草書房)の1973年1月号に掲載された、母・節子の原稿「女にとっての社会と法」についてです。
今頃なんですが、この原稿について書いた時(7月アップの分)に、「この原稿が書かれた15年前」というような記述があったかと思われますが、「35年前」の間違いです。そんな最近の話ではありません。すみません。えらいさばのよみようで。
私(えがわ)は、前にもかきましたが、感情的になるなんてかっこ悪いと思っている、ええかっこしいでやなやつ。闘う側でない方に。多分、いや絶対、楽だから。でも。例えばサッカー観戦だって、どっち側かにつかなくっちゃ面白くないのだ。
なぜ、生身の女でありながら、男にとりこまれた発言が出るのだろうか。なぜ男と女の仲裁役を買ってでて高見の見物をしたがるのだろう。
(村上節子「女にとっての社会と法」より)
また節子に怒られた。そんな感じで心の芯がピッと固くなる。
節子がこの原稿の中で取り上げた映画「フェリーニのローマ」で売春宿のシーンがあり、群がる男と娼婦の女を、ある時間が来ると上手に仕切って右と左に分けてしまう、訳知り顔の女管理人がいる。女でありながら「女」側につこうとしない女。節子が言う所の「男と女の仲裁役の女」はこのイメージが強いらしい。
おくさんという名の女も例外ではない。
(村上節子「女にとっての社会と法」)
キターッと心で叫んだ。私自身が人から「奥さん」と呼ばれる事が多いから、気になるぞ。しつこいが私も気を抜くと訳知り顔女だ。傷つきたくないから。そんな自分を最近は必死で律する。いや待て、訳なんか本当は知らないぞ私。私だっていつ何をしでかすかわからない、いつ自分の子供(産んだことも殺したことも無いけど)を公園のトイレで殺すようなことになるかもしらんのだぞ。
ちと気になったのは節子自身「おくさん」側には全くいないような視線。節子だって戸籍には「妻」と書かれてたと思うが。「おくさん」は自分とはむしろ対極な存在であるかのような空気。「おくさん」はいわゆる専業主婦をさしているようにも思えるが、そりゃー対極かもだが、やはりそういうこと?
永田洋子や自分の赤ちゃんを石膏詰めにして殺してしまう女(後日書きます)にすらシンパシーをおぼえる節子が「おくさん」には軽い敵意まであるように感じてしまうのは私の気のせい?でありそななさそな。
私はあるひとつの思いつきにぎょっとした。もしかすると、管理されることに馴れた男たちの肉体は、被管理のメカニズムに波調が合わされていて、ついに、管理のエネルギーにしか対応できなくなってしまったのではないだろうか。もし、この通りだとすると、不幸なことに、妻という女は、管理のスイッチを押すパートナー。単に家庭という箱を管理する管理人で、女ではない。管理人という役割で、男と同調する歯車仲間。男にとりこまれたか、文明にとりこまれたか、どこから加害の矢がとんできたのかすらさだかでなく、しかも確実に夫という男への加害者でさえある。男が男でなく、女が女でない家庭という箱。
(村上節子「女にとっての社会と法」)
家庭の中では、男でも、女でもないなんて、なんか淋しいヒビキ。
出来上がったメカニズム(この場合家庭という歯車、かな)に乗ってしまうのはある意味楽だけど、ある意味凄い苦痛もあったりして。自分たちにこのシステムは当てはまっているのか。別の形を作り上げるのか。これでいいのか。「これでいいのだ!」といえるまで、結構なエネルギーを使わないと。
宇多田ヒカルさんによれば「生きるって堪え難いこと」(USENのインタビュー記事で)だし、映画「八月の鯨」では登場人物(女性)が笑いながら「人生の半分は面倒。後はそれに伴う苦労」と言ってたし。その中で幸せベクトルの方向へ努力するのが人生ってやつなんだし。ん?ここ何のページでしたっけ?
思考停止と不感症にだけはならないように気をつけたい。
私なんか将来は絶対ボケるタイプだし。
脱線しましたかね。
節子は、「おくさん」とは男と同調する歯車仲間であり、家庭という箱の管理人だ、と断定した上でそれでも女にはやっぱり優しいまなざしも向ける。
女はそれでも元気なもんだ。なにしろ子宮のエネルギーを持っている。
まだ、この話続きます。今回で終るつもりだったのに〜。