田原節子
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ja
2008-06-05T15:11:04+09:00
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「女」をしょいこむ、ということ。
http://www.lovepiececlub.com/ayako/archives/001479.html
前回の続きです。 
前回同様、「現代性教育研究」(財団法人日本性教育協会編集)1977年12月号に載った母・節子の「女どうし」という原稿をつっつきながら。 

しかしその前に。 
節子が私に殆ど性の話はしてくれなかった話を前回しましたが、節子の意外な面をもうひとつ。 当時でも使い古された言葉をあえて使わさせていただけば、私が「適齢期」(ぐえ〜)の24歳の、ころ、節子は「結婚はしないの?」「○○(相手の名前)はなんて言ってるの?結婚する気はあるの?」とやたらうるさくなった。
いわゆる世間の母親がそういうものだと言われていたように。
くどいですが、節子が、ですよ。私も意外でしたよ。

ただ、この「結婚しないの」攻撃の裏には、自分が総一朗と早く結婚したかったという事情があったからだということが、つい最近はっきりした。 父・総一朗方の妹が私より一歳下だが、やはり同時期に総一朗から「結婚しないの」攻撃を受けていたらしいのだ。節子は、やがて業を煮やして、かどうかは知らないけど私に 「総一朗と結婚したいの。だからあなたは1人で暮らして!」 と突然ぶっ飛んだことを言われたりしたわけで。
ただ、言われた直後から風邪で寝込んだ私に、節子は 「総一朗が、『1人で暮らせなんて言われて(綾子は)ショックで風邪ひいたんだから、ちゃんとついててやらなきゃだめだ』って」 と、ちょっとしょげた顔で反省していました。 そして日本テレビを早期退職した50歳あたりから、おそらくほぼ毎日総一朗の事務所に通っていたらしい節子は(私にははっきりそうとは言ってなかったのだが。これも比較的最近知ったこと)、本当にこの時、事務所を休んで私についていてくれた。

風邪は、たまたまだけどね。私は思春期頃からしょっちゅう風邪ひいてたから。
ただ、いくら私が風邪ひいたって、昔から忙しかった節子がずっとついててくれた記憶なんてあまりないのに。この時の風邪も、ついててもらう程でもなかったと思うのだが。今回はこたえてしまったのか、ちょっとながらしょげてた節子が可哀想にもなる。

でも、結局その後も「結婚しないの」攻撃は続いたので、ある日節子に言った。 「えーい、うるさいわい。私は全!!く気にしないから、先にそっちが結婚して!しろしろ言われると落ち着いて出来ない!こっちはこっちのペースでいくんだから!!!」

で、無事に親が巣立っていったもんで、私は自立心とか関係なく、セオリー通りというか流れのままに1人暮らしをした時期もありました。でもそれで気持ち落ち着いたおかげでか、親が巣立った2年後に一応私も結婚などしまして。

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 私が女に生まれたこと、人間のメスとして生きることを丸々引き受けようという気になったのは、実に遅ればせで、二十七歳の時、娘を生んでからである。
それも女であることをすんなり享受したというわけではない。「女とは」という世の中の通念に添おうが添うまいが、人間社会の中でメスとして感知するすべての体感をのみ、実感として表出して生きる、というナミナミならぬカクゴと引き代えて、という条件つきであった。
 私はかなり長い時間、自分の性を女と認めることにこだわっていた。男も女もない。どちらかといえば男になりたかった。娘が生まれると知ったとき、逃げられないこの性をしょい込んでしまえと逆に思った。また七歳の娘が、「おかあさんの、おかあさん、そのまたおかあさんのまたまたおかあさん」といいながら、自分のおなかをなぜて、「アタシのこどもも入ってるの?」と私にうれしそうに聞いたとき、なぜかひどく自分がうしろめたかった。うろちょろしている私の性、女の性をしっかと見極めたい、と切実に感じたのもこのころだったと思う。
  (「女どうし」より) 
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節子の命題ともいえる「女」を自分でしょいこむのに、そんなに時間と手間がかかっていたとは今回初めて知った。
「男も女もない。どちらかといえば男になりたかった」 なんてこれまたあまりにも意外。それにしても今は私の方がこれを読んで全く別の意味でなんだか後ろめたい。

そしてひょっとしたらいまだに私は「女」をしょい込んでは生きていないのかもしれない。と気づかされてしまったから。長い事、女をやっては来てる筈なんだけど。 

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 いま私は遠い天体から通信を聞くように、女の月のリズムの打ち鳴らす音に耳を傾ける。おなかの底のしたたかな信じられる声に応答する。最近ようよう私は女であることに肩の力を抜くことができるようになった気がする。
 二十八歳まで、私は女で生きる方法がつかめなかった。世間にある目安はすべて疑似女ではあっても、私には女でなかった。私は女にもなれなかった。
(中略)
これからずっと、彼女は自分のからだと問答しながら、試行錯誤の道程をいくのだろう。
 (「女どうし」より) 
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 女として生きる方法って?
女になるって何?四十過ぎてもまだ試行錯誤中だ。生きてる間につかみたいモノだが。
結局自分のからだの声は自分にしか聞こえないし、自分で歩いてくしかないもんね。
そうね、きっとずっとそうして試行錯誤の道を行くのだろう。きっと節子がそうだったように。
それにしてもこうして考えてみると節子と自分で思ってた程意外に話をしてなかったのかな。もっといろんな話をしたかったな。結構よくしゃべり合う親子だと自分では思ってたけど、もっともっと沢山のテーマについていっぱい話せた筈だ、と思っちゃう。
もっともっともっと一緒に話をしたかったよ、かーちゃん。...
minori
2008-06-05T15:11:04+09:00
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性教育
http://www.lovepiececlub.com/ayako/archives/001444.html
先日、節子の荷物の中に「現代性教育研究」(財団法人日本性教育協会)という雑誌の1977年12月号を見つけた。節子が「女どうし」というタイトルの原稿を寄稿していた。読んでみると、なんと(という程でもないが)いきなり彼女の娘(=つまり私)が登場する。娘は中学1年の13歳。 節子の原稿によると、娘(しつこいが私)がやはり同級生の友人の、隣のクラスの誰それが好きになり、また更に他の仲間たちが男子も女子も話しに割り込んで、一応、友人と誰それをくっつけようと、やいのやいのやっていたと。 はい、そうですね、確かに勉強もしないでね。そんな事してた憶えがあります。うっすらと。しかし、母がまさにその頃にそれをそのまま原稿にして出していたとは・・・! ---------------------------------------------------------------------------- ともかく、わっしょい、人のみこしをかつぐのが楽しいというより、話には聞いても実物をみたことがない、「恋人同士」ができ上がるプロセスを、つぶさに知る好奇心が娘には先にたっているようだった。(村上節子「女どうし」より) ---------------------------------------------------------------------------- さすがですね、まったくもってその通り、そんな感じでした。小学高学年あたりからちらほらと色恋沙汰はやってくる人にはやってくるので、これは興味津々、当事者にはなれなくても(ならない、ではなく、なれない、のだと思い込んでいた)高みの見物はしたかった。 ---------------------------------------------------------------------------- その娘が、明日、学校で性教育の映画をみるとはりきっている。こどもがどうして生まれるのか、子宮は説明すれど、出口をぼかした私の説明では、わかりようがなかったのだろう。(「女どうし」より) ---------------------------------------------------------------------------- これまたその通り!節子が私にしてくれる性の話はオブラートにくるまれ過ぎていた。なんか節子にしてはいいにくそうに話すので、聞いたら悪いのかと私もあまり質問もしなかった。今思えばもっとこっちから質問責めにしていればきっと節子は答えてくれただろう。勿体ないことをした! ---------------------------------------------------------------------------- 「やりかたがわかったら、実験しちゃおうか、なんていったりして・・・・」と、「実験だって!」と眼をむく私を牽制するのだが、一方で私は彼女がオク手であることで恥をかくのではないかとも心配する。それでも私はまだ彼女には口をつぐんでいる。(「女どうし」より) ---------------------------------------------------------------------------- そうなのだ。意外かもしれないのだが、私は節子からちゃんと性教育を、セックスに関する具体的な話をされてないのだ。この中1の時だけでなく、その後もずっと。男と女が力を合わせて、結果、精子と卵子がああなってこうなって・・・という話はされたがほんとに「力を合わせて」と言っただけで、それもこの話は1回だけ。ざっくばらんに性について語り合ったことがないのだ。よその親子のことは知らないけれど、あの節子がですよ。 因みに私が実際にこの当時学校でみた性教育の映画は、とある男子生徒の夢精に関するもので、その子のお母さんが慌てるという話で、期待したものとはちょっと違っていた。しかし、中1の私はそんなに張り切って期待していたんだっけかなあ? それにしても、リブをやり、子宮は小宇宙であるといい、女の生き方を模索し、女の仕事、生活、セックスなどに関することを、どんどん熱く書き綴っていった節子が、たった一人だった娘と、その後も人生論はさんざん話したのに、性の事については殆ど触れなかった。なぜだったのだろう。 1982〜3年頃だったろうか、私は18〜9歳位のころ、吉武輝子さんが娘のあづささんと新聞で性に関する親子対談を掲載したことがあって、かなりざっくばらんにセックスや避妊具に関して話してる様子が出ていて、少し羨ましく思ったことをおぼえている。 吉武さんは1975年のメキシコでの国際婦人年会議の時に、節子とかなり密着して行動していて、これは小学5年だった私もついていったのだが、私のこともとても可愛がってくださった。それで勝手に身近に感じていたせいもある。 しかし、やはりですよ。私がオクテだとわかってたなら、そっち(節子)からいろいろ教えてくれたっていいじゃんよー。って、かなり今さらだけど。そーだよ。かなりオクテだったんだよ。確かにオクテが過ぎて母の推察通り恥もかきましたよ。 まだ続きますが、次回にします。 次回は、節子が「女」をしょいこむ決心をした時の話も書きます。...
minori
2008-05-01T12:08:40+09:00
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母親の恋
http://www.lovepiececlub.com/ayako/archives/001412.html
そういえば、私が初めて母・節子が本当に恋をしていたのだとわかった時、正直なところあまり気持ちの良いものじゃなかった。すぐ認めたけど、嬉しいものではなかった。子どもにとって、母親には「女」であって欲しくないものなのかな。 節子は松山千春の「恋」を好きだと言っていた。 同じ頃に流行っていた沢田研二の「憎みきれないろくでなし」を嫌いだと言っていた。 「恋」(作詞・松山千春)はこんな歌詞。 男はいつも待たせるだけで 女はいつも待ちくたびれて それでもいいとなぐさめていた それでも 恋は恋(略) 今度生れてくるとしたなら やっぱり女で生れてみたい だけど二度と へマはしない あなたになんかつまづかないわ 「憎みきれないろくでなし」 (作詞・阿久悠)とは陽気なイントロと曲調でこんな歌。 傷つけ合うのが嫌いだからとずるずるみんなをひきずって 最後にあなたはあなたはどうするどうするつもり 恋に埋もれ死ぬ気でいるの 憎みきれないろくでなし。 「恋」も「憎みきれないろくでなし」も、1977〜8年の、私が中学生の時に流行った歌。歌詞を深くかみしめながら聴いていた時代。節子はといえば私が覚えている限り、音楽は基本的に嫌いで「音楽が流れると考えがまとまらなくなるのよ!」とはいつも言われてたが、あの歌がいい、この歌はいやだ、などと殆ど口にした事のなかった節子がこの頃、この2曲に限ってとみにそんな事を言い出していたので妙に覚えている。 「恋」を好きという節子が、私は嫌だった。「恋」に出て来るような女であって欲しくないと思ったのかもしれない。やはり子供として自分の親には生々しい所を見せて欲しくないものだったのか。あのころは、「なんでこんなメソメソな曲をいつも強そうなママが好きとかいふ?」と弱冠こんがらがってもいた。 今、思うと、あのころの節子は、恋の悩みが深くなってきた頃なのかもしれない。例の裁判の後(※容貌が衰えたとテレビ局にに退職勧告を受け、裁判をおこした)アナウンサーからCM制作部に異動してまだ1〜2年、神経を遣い、より心が敏感になっていた頃だったかもしれない。やたら切なかったのかもしれない。 家で私と二人の時にそっと、「友達が癌なのよ」と独り言の様に呟いた事があった。 「その人には綾子と同じ位の年齢のお嬢さんが二人いるの」 さすがにというか、その時、その友達というのが自分の恋人の奥さんだなどとは言わなかったが、寂しいとも悲しいともつかない、軽く魂の抜けたような、心もとない目で。私は勝手に確信している。私と同じ位の年齢のお嬢さんとは、今の私の一つ上の姉(総一朗の長女)と一つ下の妹(総一朗の次女)のことだった、と。 ...................................... いつかどこかで会うだろう、と思っていました。私が言い出すことは絶対にないにしても、末子さんが私の前に現れたとき、それが六十歳なのか、七十歳なのか、あるいは八十歳なのかはわからないけれど、いつかどこかでかならず会う日がくるだろう、という気持ちをずっと抱いていたのです。病気はそれだけでハンディキャップとなりますから、末子さんが元気でなければ話をするわけにはいきません。病気と聞いたとき、あわてました。待ってよ、黙って病気にならないで。みんなで生きていこうよ。 だから、絶対に治ってほしかった。どう表現すればいいのか、末子さんは、ある意味で同志でもあったのです。そして、末子さんは私を含めて、みんなに守られるべき人、大事にされるべき人だったのです。 『私たちの愛』(講談社)より ...................................... 実に勝手でわけのわからない論理のようで、無理があるけどでも偽らざる心境だったのだと思う。 当時の節子のところに行って話を聞いてやりたくなってきた。...
minori
2008-04-03T11:39:55+09:00
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我が母ストーリー第28回 幸せについて
http://www.lovepiececlub.com/ayako/archives/001367.html
ひとつの原稿の持ち歩き期間が長くなってしまった(つまりなかなか完成しない・・・)2007年。2008年はちゃんときちんとコンスタントに原稿提出せねば。やはり人間として! 先日、節子の荷物を整理していて(まだ終わってません)、雑誌「新しい女性」(吉川書房の昭和52年12月1日号)を発見した。昭和52年って1977年だから30年前だ。節子39歳。元・美貌アナとして配置転換を迫った会社にモノ申した、あの裁判があった年だ。 雑誌そのものは保存も悪くて、やや黒ずんでもいたのだけど、中身は生き生きと元気のいいものだった。カビくさいページをめくっていくと、節子の文章が載っていた。 「生きるって難しいね・・・・・」と友達がポツリというのを聞いて、「生きるって面倒くさいね」と私が答える。なにやら深刻で自殺の相談みたいだが、実は死んじまえば考えこむこともなくラクといえなくもないのだけれど、(中略)おもしろく生きる、あるいは自分をおもしろがらせて生きるにはどうすりゃいいのか。自分をどのような設定におけばおもしろいのか、おもしろがれるのか、これがいつもの私と友だちのおしゃべりの中身である。人間商売、おもしろがって生きなくちゃ、が生きるための私の鉄則なのだが、人生の入り口の十代、二十代と違って年をくうにつれ、最近とみにおもしろがれる選択肢の幅が少なくなった。世のしがらみをいろいろ引きずるから、突然商売変えをして画家になるとか、船にのるとか、こどもを作らないとか白紙に思いのまま絵筆で塗りたくるように設定をするわけにはいかないのである。余白の多かった二十代よ、われにかえれである。にもかかわらず、いま、私は生きることは難しい、面倒くさいといいながら、生きてきた今までのどの時代よりもおもしろがって生きている。 おもしろく生きる、これは私にとってずっと生きていく上で指標だ。私が子供の頃の夜、人生論的なものをいっぱい交わした節子と二人のコーヒータイムにそんな話をしてたのかもしれない。 しかしおもしろいってなんだろう。 ピンチな事態になると、頭の中でなにやら「しっかりしなきゃアドレナリン」みたいのがとびまくって、妙に冷静になったりする。心のどこかで「さあ、おもしろくなって来ちゃいましたよ」とつぶやいてる。その度合いは5%位で消費税程度だけど、確かにどこかサディスティック的にそう思っている自分がいる。(逆にチャンスの時には、なんかひいてしまう自分がいる・・・) あるとき、なにがそんなにハッピーなのですか? 五つ六つ私より若い女がややとがめる口調でいった。この世の中で女がハッピーであるはずがないという結論を彼女はしっかと腹に据えている様子だった。(中略)?夫とうまくいっている?こどもはいい子に育っている?仕事はいい仕事をまわしてもらえる?買いたいものが買える?食べたいものを食べ、遊びたいように遊べる?お金も時間もある?あなたに不自由はないの?実はこたえはすべてノーだ。そんなにうまくいくわけがないじゃないか。 すべてノーなんだ・・・いい子に育ってなかったこどもとしては、複雑。しかし確かに節子のこどもは特に義務教育の時代は勉強も好きじゃないし、身体を動かすこともかったるい・・・。自分から努力なんて思いもしない。出来ればずーっと好きなマンガとかビデオだけ繰り返して見ていたい・・・そんな奴。向上心もなんもなかった。強気ややる気は皆、節子の子宮の中に置いて来てしまってた。 問題はいくらでもある。彼女の質問にない事柄で私が背負いこんでいるくじゃくじゃした沢山の問題たち。それを数え上げていけば彼女に安心してもらえるのだろうか。そんなことはあるまい。全てが実に不自由だ。だが不自由だからこそ、いいかえれば不自由を感知する皮膚が健在だからこそ生きることがおもしろいといえないだろうか。問題山積、さあどこから手をつけようか、という自問自答のできることが実はハッピーでおもしろく、かつ自由なことなのだから。( 中略) そういえば、節子ががんを発症したとき、私が他のいろいろなものよりも節子を優先させて、節子の側にひっついている事を選んだのは、私にとっては、自由でおもしろくてハッピーなことだったといえるな。自分自身で納得して決める事が出来たのだから。 一度仕事の場に身をさらした女はよかれあしかれ自分の姿を他人の眼のさめた視線が届かぬ所でする作業、家事、育児は女が自分自身、よほどさめた視線をもたぬ限り自己撞着の落とし穴に落ちこみかねない。女にしろ、男にしろ、それが苦痛をともなうものであろうとなかろうと、労働する場ではじめて自分の人間社会の中の位置を知覚すること、つまり自分を他人の眼で見ることができるのだ。それなしでどうして自分を知ることができるだろうか。自分を信じることができるだろうか。子どもを見守る自信が生まれるだろうか。生きる難しさを知ることができるだろうか。生きることをおもしろがることができるだろうか。(中略)働くのはまず食うためである。食わせてもらわないためである。食うために人間がどのように血まなこになるか、たてまえ、ほんねをつかいわけ修羅場をくぐりぬけるかを見知るためである。(中略)けれど、働くことはよろこび、楽しさより、苦痛であることも少なくないのだけれど、それをあえておもしろがるエネルギーをお腹の底に貯えてほしい。(略) なんでも知っていたいと思う。それが自分にとって知りたくないような事実だったとしても、知らないでのほほんとしてるより、知ってしまって苦虫をぎりぎり噛み潰しながらそれでもくいしばって進んでいけることが、やはり自由でおもしろくてハッピーなことのような気がするんだ。 「酸いも甘いも噛み分ける」というような言葉がありますが、私は勝手に「酸いも甘いも吸い尽くす」と、それがモットーだと友人に言い放っている。親友からは「違うでしょー!」と怒られるけど。分けたりしないで、何でもござれでいたい。 働くのは生きる事、と最初に言ったのは誰だったんだろう。あまりにもうまい言葉だ。一番最近聞いたのは、ドラマの台詞だった気がするけど。 ラブピースの原稿はこれでも楽しんで、おもしろがって書かせていただいてる。仕事だとあまり思っていない(思えよって)。じゃあ通常はおもしろくない仕事をしてるのかっつう事になって、あれれ、書けば書くほど首が締まっていくような・・・。今。一応私は。人のフリ見て我がフリなおすよう努力しているつもりだけど。今、何をなすべきか考えているつもりだけど。先人の知恵に学び後進を導きたいと思うのだけ・・・。 「そんなうまく行くわけがないじゃないか」。 でも、あがき続けるとしよう。今より良くなるよう、おもしろくなるよう。何もしなかったら今より悪くなっていく。そこだけはわかるんだから。生きてくのって多分「動く歩道」の上を逆向きに歩いていってるようなものだから。前に行こうとしないと、流されるように後退してしまうのさ。必死に前進していきたい。?そのハッピーさを、おもしろさを、自由さを、ペロペロしゃぶりつくし続けながら。...
minori
2008-02-07T17:05:04+09:00
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江川綾子から高橋フミコさんへ
http://www.lovepiececlub.com/ayako/archives/001335.html
坂戸さんへ。 お初にご挨拶申し上げます。坂戸さんのコラムは、「今」の多くの大人と呼ばれる女性たちのリアルを浮かび上がらせていて、読んでいて気持ちいいです。ありがとうございます。(お礼が言いたくなりました) ゆったりとした時間を持つことがなくなり、その分、本を読みたい!と切実に思う今日この頃です。坂戸さんの今回の文章を読んでその気持ちがますます強くなりました。時間は作るもの。なんとかして読書の時間を作らないと、今のまんま死んでしまう!と焦っております。 今回、「よく読まれるエッセイストは誰ですか?」「このエッセイがすごい!」という題で!とのお題を頂戴いたしました。 パッと浮かぶのは橋本治氏です。氏の作品を全て読破しているとか、熱烈なファンであるとかいう訳ではないのですが、20代の頃から(およそ20年前です)、雑誌で氏の文章を目にするようになり、飛ばし読みしようにも、目がその文章に吸い寄せられて離れなくなっていくのです。 橋本氏は、最近でも「広告批評」や「一冊の本」で(他にも書いているかもしれませんが、その二誌のエッセイしか最近は読んでません!)エッセイを連載中です。 テーマは、もうその時々。政治が動いている時は政治の話。最近の人の言葉づかいの話(言葉が乱れていることを嘆くというのではなく、その不思議さ、味な部分を検証していくというような)。自分の仕事の話など、とにかくその時気になった事を書いていく、というものが多いようですね(私が読んでいる二本はそんな感じ)。どの時のエッセイが良かった!というのは一つに絞れないのですが。 読んでいて気持ちの良い文章が好きなのです。どういうものが気持ち良いかというとその着眼点・・・冷静さ、中立なものの見方(と私には思える)、物事を突き放して見られる力、それでいて「なんちゃって!」とか言い出しそうな軽やかな空気。だらだらと妙に長いようにも見えますが、それは氏の感覚をなるべく正確にお客さん(読者ですね)に伝える為に、言葉の上で、身振り手振りに右往左往しながら説明してくれてるのです。いっぺん読んだだけで理解できない文章も出てきますが、橋本氏がこんな一生懸命説明してくれるんだから・・・と、理解できるまで繰り返し読んでしまったりするのです。私ゃ惹きつけられてやまないのです。 そもそも、エッセイって、様々な角度からの視点がないと面白くないですしね。 さくらももこ氏も以前、「本当はエッセイストになりたかった」とどこかでおっしゃっていました。『ちびまる子ちゃん』がアニメにもなり大流行していた直後だったと思います(これも20年近く前ですね)。エッセイを書く人になるための道として漫画家にまずなったのだ、というようなことも綴られていました。さくら氏ならではのユーモアで。 でもすごく共感できる話で、実は私もなんとかエッセイストになれないかなー、と。私の場合は、何にも努力せずにボーっと思っていた事が思い起こされまして。 いきなりエッセイストになる、ってなかなか難しくて、やはりその前にライターであったり、作家であったり、パフォーマーであったり、何かを極めなければ、まあ自分のエッセイまでは到達できないと思われますね。「うーんどうにもならないや」で何もしなかったぐうたらな私。 だから、今みたいな時間、こうして一応文章なんか書いて、自分の親戚・友人以外の方に読んでいただいている状況自体が、まさに「棚ボタ」なのであります。 橋本氏の著書は様々ありますが、『桃尻娘』などの小説や『桃尻語訳枕草子』、『窯変 源氏物語』などの古典を現代流に、というより橋本治流に訳したものなど、精力的に(ゆっくりめかもしれませんが)書き続けておられますが、源氏好きの私は『窯変 源氏物語』に挑戦しましたが、まー、面白いのだけど、面白すぎて長すぎて? (だって『源氏物語』って五十四帖ありますが橋本氏が書くひとつの章がもう長いし登場人物すごく企みまくってる感じで)途中で挫折してしまいました。面白いことは間違いなさそうなので、死ぬまでには読破したいものです。 余談ですが、橋本氏の文を読み始めた頃、当時流行っていた光GENJIの「ガラスの十代」の替え歌で ♪くさりやすいものばかり集めてしまうよ 輝きは飾りじゃないガラスの四十代♪ というのを書かれておられましたが、私は四十代になったらこの歌を歌おう・・・と心に決め、今、憧れの?四十代となり、時折カラオケでこの歌を歌うのですが、この部分、サビのラストの部分なので、聞いてる人は誰も気づいちゃくれませんが。 さて、高橋フミコさん!少し前のことになりますが、『ぽっかり穴のあいた胸で考えた』を読ませていただきました。節子の事いっぱい書いていただいてありがとうございました。母・節子がいろいろ申し上げたようですみません。でもそんな母をまっすぐに受け止めてくださって嬉しいことこの上ないです。 因みに私はマンガの『NANA』ファンです。9巻からの大人買いをしました。 さてようやっと私・江川綾子から高橋フミコさんへの質問です! 初めて心にガツーーーンときた映画ってなんですか? 私も数は見てないものの、映画好きです。フミコさんのシャープな目線で、人生にまず一発目にやられた映画を是非聞いて見たいと思いました!...
minori
2008-01-07T22:51:33+09:00
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我が母ストーリー第27回 なぜ「父」と呼ぶか2
http://www.lovepiececlub.com/ayako/archives/001244.html
前回の続きです。 なんで私は、母・節子の夫・総一朗を「父」と呼んでいるか。 いきなり余談です。 そもそも私は、自分自身からは、特に何もどこにも踏み出さない、ボーっとした人間だ。 ただ目の前のことをやれるよう頑張るだけ。なのに周りの人たちがいろいろやり放題して(節子とか)、勝手に波乱万丈みたいな状態に置かれている。ある意味、お得な人生。 自分は別に、ここではないどこかに行きたい、なんて旅立ったことはないのに、周りの景色が勝手に変わっていく(節子とか)のだ。ディズニーランドにそんなアトラクションあった気がする。なんてお手軽なんだ。初めて1人暮らしした時だって、親が結婚するから(節子とか)1人になっただけで。私自身は独立心もなにもあったもんじゃなかった。 そういえば、乳母車(今はベビーカーっていうのかな)に乗った赤ん坊も、自分は乗ってるだけで、周りの景色が勝手に変わっていくものだ。 今でも結局私は節子に乳母車に乗っけられてる続きなのかも。 閑話休題。 総一朗氏は節子がまだまるで元気だった頃から満面の笑みで私によく言った。 「僕はね、お母さん(節子)が大好きなんだ」 その言葉を聞くのが私は好きだった。両親が離婚して、母親の再婚相手から聞くその一言はいつも私を安心させてくれた。不思議なほどに。 そして。総一朗氏は節子がいた時もいなくなってしまった後も、かなり私のことを気にかけてくれる。どういう暮らしをして、毎日を幸せにしているか、声をかけてくれる。この心遣いもありがたい。 元々、私は血の繋がりをあまり信じていないのだ。 だから尚更、私には本当に人の情けは身にしみる。 そんな人が「お父さん」。悪くないじゃないか。 それから結婚前後の頃は節子からの、何かといえば始まる「総一朗はこういう人なのよ」アプローチもなかなかすごかった。 とにかく仕事第一人間であること。ちゃんと納得いく仕事をする為には妥協を許さないこと。意外に物事がうまく行きさえすれば、自分の手柄は二の次だということ。そしていろんな方向から物事を見られるということ。「サンプロ」や「朝まで生テレビ」でもたまに何となく議論がまとまってきて、めでたしめでたし・・・になりそうになっても、ひょいと、逆方向からの意見を投げてまた、全体をかきまわす(オウムの時とかそうだった)。 節子の、のろけだ。でも多少私に対するプレゼンがまじってたかもしれない。 (それまで内緒で言えなかった分、たまりに溜まっていたのかな) この激しいアプローチは、やはり二人の結婚直後がピークだったと思う。 節子のプレゼン、なかなかに効果的だった。私は総一朗氏にますます好感をもっていったから。のせられた? 親たちが結婚する、と言ったとき。まず、あったのは田原家とうまくやっていきたい気持ち。それは、親達夫婦の為、田原の姉や妹、自分の為でもある。うまくやって行かなくちゃという気持ち。会ってみて、思った以上の好印象。付き合っていて、嬉しいほど、分かり合える時がある。だがそれだけじゃ何か割り切れない複雑な気持ちもほんの少し、あった。 いろんな思いがないまぜになって、でもそれは田原姉妹の方が複雑な思いはずっと強かった筈だ。 彼女たちのお母さんが生きているうちから、そしておそらくは知っているうちからずっと長い事、総一朗と節子は恋人同士だったというのだから。 でも彼女たちはごく自然な風で節子を「お母さん」と呼び、接してくれる。 姉は、私たち三人姉妹の中で一番節子に似ていると言われる、穏やかな中にも激しさを持つ、凛としたカッコいい女。 妹には、姉よりもほんの少し後で出会った。 彼女は3人の中で何故か節子に一番顔が似てると言われている。 見た目ほんわかだけど、熱い情熱とこまやかな気配りを合わせもつ、可愛い女。 節子の闘病中、妹は私とほぼ同じ頻度で、節子の世話をしてくれたし、姉も仕事に妊娠そして子育て(節子が亡くなる約3ヶ月前に姉は双子の男の子を出産)にと大忙しだったにも関わらず、時間を見て会いに来てくれたり、料理を作ってくれたり。 二人とも節子の娘になってくれていた。ありがたかった。姉も妹も、確かに私の姉と妹なのだ。 昔、私の子供時代、節子との夜のコーヒータイムで話した中にこんな話題があった。 中国の残留孤児の方々が帰国するたび、メディアを騒がせていたが、何故あの人たちは、わざわざ日本に来るのだろう?養父母を置いて来てまで。と不思議に思っていた。 繰り返しになるが小さい頃から私は血の繋がりを信じていなかった。血が繋がっているから絆が強い、なんて露ほども思えない。 子供の頃から節子の事を母としてとても慕い、信頼していたけれども、それは私の自覚の限りにおいて、節子が血の繋がっている母だからというより、それまでの長い時間によって育まれた信頼、安心感によると思う。かなり強く思う。 さて、残留孤児の方々のこと。 今まで育ててくれた養父母がいるにも関わらず、ましてやその人達を捨ててまで、本当の親を探したい、と思うのだろうか?と。 節子は同意した。「そうよね、私も人に、同じ様に言ったことがあるわ。そしたら”(会いたいと思うのが)当たり前じゃない!”だって」。...
minori
2007-11-10T23:27:58+09:00
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我が母ストーリー第26回 なぜ「父」なのか。
http://www.lovepiececlub.com/ayako/archives/001175.html
母・節子の夫である総一朗氏を私は対外的にも「父」と呼んでいる。もはや不自然さは感じてない。 私のこのページを読んで下さってる稀少な方から、「何故、総一朗氏を父と呼ぶのか」こんな疑問の声が上ったと少し前に、こちらのサイトの親分である(ですよね?)北原みのりさんからメールをいただきました。 なんだそんなこと。それならすぐに書ける。瞬間、本当にそう思った。 しかし、いざ書き始めてみると、しばしば手が止まる。我ながらあぜんとするほどだ。 今までもさんざん原稿提出が遅れて来た私だが、遅延新記録(二か月・・・)が出る程、のたうちまわることと、なった。 何故、総一朗氏が「父」になったのか。 (そういえば親たちが結婚する前、節子が私に向かって総一朗氏の話をする時、必ず「田原氏」って呼んでました。日本史の「藤原氏」じゃあるまいに) 節子の夫だからといって即私の父、という訳ではない。私が特に反抗的だったつもりも決して、ない。二人が結婚するまでに何度か私は総一朗氏と会っていたし、二人の結婚には賛成だった。もん。 ・・・だって節子が「総一朗と結婚したいの」(きっぱり)ってゆうんだもんね。言い出したら聞かないんだし。節子のやりたい事に反対しようなんて空恐ろしいこと考えたこともございません。いつも節子のやりたいようにさせてまいりましたもので。 始めは、父と呼ぶつもりは全くと言って良いほどなかった。自然に任せるつもりだった。 以前私が勤めていた会社の先輩で、私と同じく、自分の母親が父親以外の別の男性と再婚したという人とこの話で意気投合した事がある。 「そういうもんだよね」「親の配偶者という所はちゃんと認めて仲良くやってるもんね」「お父さん、なんて呼ばなくてもねえ」「ね、ね」(ひょっとして二人共ちょっと後ろめたかったのか?)。 そんな私が、やがて総一朗氏を「お父さん」と呼ぶようになる。何故か。まだ幼い子供ならいざ知らず。何故か。 幼い子供だったら、納得するも何も有無をいわさず「お父さん」と呼びなさい、とか言われるのかなー?そんな立場は嫌だな。私に言ったときみたいに20歳超えた女子にではなく、幼い子相手だったら節子はどう言っただろう。 私が総一朗氏を父、と呼ぶようになったこと。 それには理由となりゆき?があった。節子よりも総一朗氏と先に結婚していた奥様との間に生まれた二人の娘さんの存在もその理由の一つ。 一人は私より一歳上。もう一人は私より一歳下。完璧同年代。 まだ私ら子供達は皆幼稚園以下だったと思われる頃、一緒に出かけた事があった。 それぞれの母親に連れられて、皆でケロヨン(当時子供にすごい人気だったキャラクター)のイベントを見によみうりランドに行ったのだ。私はうっすらとしか覚えていないが姉は結構しっかり覚えているらしい。私は姉の説明を受けてそういえば、そういえば、と紐解いていって思い出した。 この日の帰り、節子が運転する車に皆で乗り込んだのだが、まだ小さかった姉が助手席に座りたい、と言い、私が節子の隣の席を譲ったのだった。「座っていいよ」などと上から目線で言ったかどうかは定かではないが。私は強い希望を持っている人がいたら、大体「どうぞ」と譲っちゃう。ただしこちらにもなみなみならぬ希望がある場合は勿論、別なんだけど。 かくしてこの時、姉は運転席の節子の隣に。私は、後部座席に(おさまっちゃってから、口には出さなかったけど、あ、ちょっと惜しかったかな、やっぱり自分のママの隣が良かったかな、とすぐに思ったのは覚えている)。おそらくまだ更に小さかった妹も自分のお母さんの膝かどこかにいただろう、そんな席順になったのだった。 節子の著書の中で、この時のことに触れたこんな文章があった。姉妹のお母さんからこんな言葉があったらしい。 「アナウンサーがつきあってくれるはずがないって言ったのよ」という話も出ました。 『私たちの愛』(講談社 刊) この言葉は、おそらく奥様が総一朗氏に、ということなのだろうけれど。この日、母親二人はどんな気持ちだったのか。なんで皆で行く事になったんだろう。 総一朗と節子の関係がどうなっていたのかも微妙な所は分からない。 再び姉や妹や私が出会ったのは、皆もう20歳をとうに超えた年頃になってからだった。総一朗氏の奥様、つまり彼女達の母上がやはり乳がんを患い、既にお亡くなりになり、数年が経っていただろう。節子は私の実父と離婚していた。 でもまだ双方の親たちが結婚はする前、「姉」が節子に電話をかけてきた事があった。 初めに出たのは私だった。私たちは親たちが結婚しそうなことをもう分かっていて(姉はケロヨンの時の事もよく覚えていた訳だが)お互い「どうもいつもお世話になってますー」みたいな、ちょいと営業的?でも元気なスマイルを感じられる挨拶をひとしきりしたように思う。ちょっとドキドキしながら。 でも初めて認識しながら聞く姉の声には「これから、よろしく!」といったいい感じの親愛の色が入っていた。と私は勝手に信じている。 私達は少し立ち位置は違うかもしれないけど、シンパシイを感じられる間柄だとお互い感じていた、とこれまた良いように解釈している。 余談だが、今は携帯なんて便利なモノがあるおかげで、予想外の人が出るというパターンはあまり想定しないでかける事が多くなった。 これってある意味つまらない。出会いのチャンスがひとつ閉ざされている感じ。昔は、友達のお母さんの声とか、お姉さんや弟とかの声も、ちゃんと知ってたもんなあ。そんな機会に(そういえばこういう時父親さんはあまり登場しませんわな)「いつも○○さんにはお世話になってます」とか挨拶出来たもんな。 その友達の暮らしている背景みたいなものが、ほんのちょっとかいま見えて、安心したり心配したりしたものだ。 因みにであるが、田原の姉と妹は、節子の事を確か親たちの結婚当初から「お母さん」と呼んでくれていた。なんで「くれていた」かといえば、節子がそれに対して、とても嬉しそうだったから。 姉も妹も、節子に対して、私に対して、とても仲良く接してくれた。節子は元々、年下の女は皆可愛いという人でもあるし(年上からは生意気だから疎まれていたとも言われているが)、ましてこんなに縁の深い二人のこと。私にとってもラッキーな事に姉妹は刺激をくれ、尊敬できる人。 私はといえばしばらくは、「田原さん」とか、名前を呼ばずに話し掛けたりしていたが、 姉と妹が日々「お母さん」と自然に節子に呼びかけているのを聞くにつれ「バスに乗り遅れた・・・」感を持ちつつ。 だから、一番初めは皆を心配させない為。乗り遅れたバスに飛び乗る為に「お父さん」と呼び始めたような気もする。 今回のテーマ、もうちょっと書かせてください。また次回に。...
minori
2007-09-29T14:12:11+09:00
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節子さんの黒子。
http://www.lovepiececlub.com/ayako/archives/001132.html
がん専門誌「がんサポート」(エビデンス社)、またその前身ともいえる「がん治療最前線」の連載時から母・節子の担当編集者だったお一人に、志治美世子さんという方がいらっしゃる。その志治さんが「医療の光と影?隠ぺいとの闘い」(仮題)で今年2007年の開高健ノンフィクション賞を受賞された。 この場を借りて、あらためまして。本当におめでとうございます。すごいことです。 志治さんはわざわざ私にまで受賞の事をメールで報告して下さった。 「節子さんが護ってくれたおかげです。ありがとうございました」とあった。 私はなんだかしみじみ。 時折、節子に挨拶をと志治さんはご連絡を下さる(今も節子の骨は父・総一朗の元にある)のに、うちの都合等でなかなか実現出来ずにいる。 対談連載以外でもお世話になった。2003年の「がんサポート」主催のよみうりホールで行われたシンポジウム。2004年の2月に行った高知のがん患者会「一喜会」でのシンポジウム。2004年6月、最期の入院後二週間後に俵萌子さんの「1、2の3で温泉に入ろう」主催の江戸東京博物館で俵さんと絵門ゆう子さんと鼎談をしたイベント。多分他にもたっくさん。 志治さんは、節子のただ、担当というだけでなく、節子自身をとっても慕ってくださり、細やかに気をつかってくださり、愛するように深く思いやり、見つめ続けてくださった方だ。まっすぐで熱くて健気な方だと思う。そして貪るように二人は、よく話をしていた。 _____________ 4月には私たちは京都の円山公園に、しだれ桜を観に行く約束をしていた。たまたま節子さんの体調が悪かった前年春からの、2年越しの約束だった。そしてその約束は、果たされないままに3年越しのものとなった。 (中略)座位さえ不可能となり、寝たきりとなってもストレッチャーに乗り、クッションで全身を支えながら、1時間半もの患者会のトークショーにゲスト出演した。死の45日前のことだった。あまつさえさらにその後、テレビの生放送にも出演している。教科書どおりのように進んでいく病状。次々に現れるモグラたたきのような転移。 (中略)「まったく、もう!」お見舞いの病室で呆れる私に、節子さんは苦しそうな息のなかから言った。「ねえ、私、変じゃなかった? しっかりしていた?」「大丈夫、とってもきれいだったよ」 本当に、なんという美しい人だったことだろう。 彼女が逝き、そして私は「田原節子」というかけがえのない世界をひとつ、失ったのだった。 (志治美世子「節子さんがくれたもの」(京都・妙心寺の機関誌「花園」)より) _______________________ 志治さんは今も「節子さんと桜を見る約束をしていた春」(この約束はついに叶えられなかった)と「節子さんが逝った夏」には便りにメールをくださる。いつもとってもありがたい、と思う。節子ってほんとに美しいというか、濃い人だったんだなあ、忘れられてなくて娘としちゃあ嬉しいなあ。あらためてしみじみ。 炎症性乳がんを発症した節子の身体が少しずつ弱っていく過程の中で、節子の後ろからちらりほらりと顔をだしながら節子の活動に手を貸している私のことも、志治さんはよく気にかけてくださった。 ___________________ (中略)彼女のそばにいるだけで、自分は強く生きることが出来る人間なのだ、と信じることが出来た。 彼女が時折ふと私に見せてくれる、私への信頼感が、そう信じさせてくれた。 そして、だからこそそんな彼女が時折、本当に時折、垣間見せてくれる人間としての弱さや、苦悩のかけらが胸に響いた。 生きていてくれたら、もし今でも生きていてくれてさえいれば、と思う。 「まだまだ、あなたから欲しいものは山ほどあったのだ」 と、貪欲に思う。 あなたが乗り越え、築いてきた時代を、私も実感したかった。 あなたと過ごしたほんのささやかな時間が、今でも私の涙を溢れさせる。 (志治美世子ブログ「天にいたる波」2005/6/26より) ___________________ 繰り返しになるが、節子が最期の入院をしたのが2004年6月。志治さんはよくお見舞いに来てくださった。あと、目もあまりよく見えず、本を読むために本を支える為の手の力も失われていった節子に、ご自分で朗読した『博士の愛した数式』(小川洋子 著)のカセットテープをくださった。丁度この本が話題になっていた頃でもあった。朗読ってなかなか体力仕事だ。咽もカラカラになるだろう。しかも小説1本分。病室で節子と一緒に私も聞いた。(誰かがいないと節子にはラジカセのボタンを押す力もなかったから) 「志治さん、(読むの)上手ね」 節子は言葉づかいとか発音に非常に厳しい。他のことにも厳しいが、元アナウンサーだったからなのか、言葉にはとにかくうるさい。その節子が誉めた上に面白がって聞いていた。 このテープをとても喜んでいたのだが、「ただ、聞く」ことにも体力が必要だったようで、結局節子は半分ほどしか聞く事は出来なかったけれども。 (2004年に入ってからの、まして最後の入院をしてからの節子の衰えはすさまじい程早かったから) 志治さんと節子が本当に親しくなったのは、やはり最期の1年ほどだったそうだ。もうちょっと長く付き合ってなかったっけかなあ、というくらい、二人は仲良しだったけど。 みのりさんと節子の付き合いも、実際には1年くらいだった。節子の短いながらもいっぱいつまったと思われる人生の中で、また更に最後の数年は、このページでも何度も触れて来たけれど、友達も増え、その分、先に逝った人もあり、節子もまた逝って、沢山の別れがあった。出会いと別れ。でもそれは悲しいだけの事では決してない。 節子の友達になってくださった皆さんが、今でも節子の話をしてくださるたび、あああの人のところにも節子がいる、こちらの人のところにも節子がいる。それぞれの方が内に節子を住まわせてくださる。節子はあまり子供を生まなかったけど、医学的には子供は私1人なのだけど、なんだか、ひろ?い意味では私には姉妹(ときどき兄弟も)がたっくさんいるなあ、と思えてしまう。 志治さんが私を「節子の黒子」と表現してくれた事がある。私は節子が発症してからは、それは密着して節子にくっついていたから、そう言われる事は全く嫌ではなかった。とにかく節子が少しでも豊かに活きるように、役立ちたいと動き回っていたから。(それは以前にも書いたが、そうすれば愛される、というような感覚に近い、幼稚かもしれない、幼稚かな、幼稚だよなあ、な子供心も多分にずっとあって) それにしても、黒子は黒子でも、人形浄瑠璃とかパペットマペットなどの黒子ではなくて、歌舞伎とか、人間がちゃんと衣装つけて出る方の、黒子なんだよな。私の動きは、節子の意志ありき、だから。 節子は湯たんぽのようにくっつく私に「あんたはもっと自分の為に時間を使いなさい」と母親らしく大概は言っていたけど、一度だけ、私が自分の周りで常にうろちょろするのを 「便利じゃん!」...
minori
2007-08-03T01:38:25+09:00
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節子さんの「霊力」?
http://www.lovepiececlub.com/ayako/archives/001107.html
このページを読んで下さってる方はご存知でしょうが、私、原稿に煮詰まってまして、結構ずっとジタバタしてる。週一回の筈の更新が月1回出来てるか、否、出来てない今日この頃。 これが大した計画もたてずに、指の向くまま気の向くままにキーボードを叩いてきた報いというやつなのだな(無責任)。 こんな気分をかかえてつい先日、自宅にいた私は自分の部屋に向かって歩きながら 「あー!!おかあちゃん、どーしたらいいだろ?」 声こそ出さなかったものの、心から叫んだ。心から救済を求めた。 次の瞬間、上の方から懐かしい感触に一瞬、全身が包まれた気がした。ふわ。 服の感触、袖にくるまれた腕の柔らかさや母のちょっとした体臭、もとい、香りまで感じられた。男性からのものとは違う、母親に抱きしめられた、小さい頃に何度も味わったあの感じだ、これ。 かーちゃん、いる…? じーっとあたりを見回す。映画とかみたいに、もしわずかに薄ーく見えるんだとしても決して見逃すまいとよく見る。目をこらす、ってこういう事なんだな。何か物が動いたりしていないかも。でもカーテンが風に揺れているくらいで。 やはりというか、どこにも節子の姿は見えなかった。 別に夏向けにオカルト話を持ち込んだ訳ではありません。わたし的には本当のお話。ネタをくれる為に来てくれたのかな?ただ、こんな心の叫びは初めてではなかったのだが。 どなたが信じようと信じまいと、節子は、いた。それがわかってしまった。 いつもいるのか、普段はあちらの世界と行ったり来たりして、さっきたまたま居合わせたのか、或いは普段は父・総一朗の側とかにいて、たまたま呼んだから来てくれたのか。 いつも見られてるんだとしたら、恥ずかしいマネは出来まい。と言いたい所だが、トイレいってるとことかは見ないで欲しいが…。 そういえば、やはり同じ部屋で、もう父・総一朗と結婚していた、でもまだ癌を発症する前の節子と電話していて、風邪をひいた私が確か「咽がすごく痛くて…」という話をした時。 節子が「じゃあちょっとやるわ」。って何をやるかというと、私の咽に向かって、念というか気を送ってきたのだった。電話だというのに、お互い口をきかずに、気を送る方、受け止める方にしばらく集中した。(受け流さないように!) 「どう?」 「うん。上のほうから撫で付けられてる感じ」 「あんた敏感なのね。そうよ上の方からやってるのよ」 あの部屋、なんかの入り口なのかちら?? てな感じで、母の不思議なパワーは体験済みではある私だが。 そんな節子なので、死んだ後でも、この世に下りてきて、やりたい放題なんてお茶の子さいさい、という気がどうもするのだけど、この世で想像するほど、自由気ままにはおりてこられないのかもしれないな。 因みに、電話線をつたって、節子に咽を撫でてもらった時の私だが、それで風邪が治るところまではいかず、その後しっかり医者の世話にもなった。 余談だが私も、節子にすすめられて気功をやっていた時期があり、多少は気の感覚というものが、わかる。節子が癌になったばかりの頃もダメモトながらよく節子に気を送ってみたりした。当然ながら、病状にはまったく影響はなかったが…。 不思議なパワーといえば父との共著『私たちの愛』の中で節子が書いた部分で、ずっと昔、節子が父と初めて結ばれた事を書いた文章で下記のようなものがあった。出版当時、下記の文章より前に出て来る、「私にとって最高の絶頂感は総一朗でした」という部分は、各方面から話題になり、ワイドショーなどでも何度か取り上げられてました。私としては、自分の母親が言ってることとてやはり頬染まる気分…。 その文章の後半が興味深いものだったので、長いですが引用します。 ------------------------------------------------------------------------ (略)絶頂感というものも知ってはいました。でも、違う世界へ飛んで行っちゃうような、絢爛豪華な性の世界を経験したのは初めてでした。いっさいの邪念から切り離されて体ごとのめり込んでいく、コントロールのきかない世界。才能がなくても味わえる創造の世界。なんて人間は平等につくられているのかと思っていました。 そして、その瞬間、全部が真っ白になります。天なる宇宙と子宮が一体化する瞬間で、それは祈りを捧げるときに、あるいは、座禅を組むときに、恍惚とした別宇宙に入り込む、その瞬間と同じ感覚です。それはまた、オカルトの世界とも一種通じる世界でもありました。 (略) どうも、男と女の間には大脳生理学上の違いがあって、男女の性感の違いもそこから発生しているのではないか。横浜市立大学の大脳生理学の川上正澄先生に対談をお願いしたことがありました。 「女には二十八日の月経周期があり、その周期にしたがって大脳の働きも変わってくる。 前半の二週間では百二十パーセントもの能力を発揮して、三週めは六十パーセントに下がって、四週めには八十パーセントに戻る。セックスは大部分が大脳の働きだから、この変化につれて女の生活にも、また性感にも、山もあれば谷もあることになる。つまり、女の大脳の働きにもメリハリがある。でも、ずっと男は平板で、だから、男はものすごくつまらないんだ」と先生はほんとうにつまらなそうに言いました。 周期性があるということは、だめの次には再生ができるということです。だから、海の底まで沈み込んでも、女は次の再生の時期になると立ち上がってきます。つまり、女は簡単に生まれ変われるのだ、と理解しました。二十八日周期とは子宮の周期、月の満ち干の周期と同じです。すると、女はおのれの体内に子宮という小宇宙を抱え込んでいることになる。絶頂感の瞬間に、子宮が天なる宇宙と連動しているような宗教的な感覚にとらわれるのは、そういうことだ、とこれも、彼とのセックスを通じての発見でした。 あの頃、ちょうどオカルトに興味を持ったのも、その続きでした。性感を通じて自分にもそのような力がそなわっているような気がして、いろいろな小実験をするようになりました。たとえば、彼と会いたいと思っても、うまく連絡がつかないことがあります。そして夜になる。彼の自宅に電話をかけることはできない。なにか合図を送れるのではないかと思いたちました。オカルトでは念力を飛ばして、遠方で音を立てることができるとされています。それには丑三つ時がいいのです。ほんとうに笑っちゃうし、あまり信じてはいないけれど、とにかく試しに丑三つ時を待ってそれをいたずら半分でやってみたのです。念をかけるのは本気です。 (中略) 彼とのセックスで自分のオカルトの能力に目覚めた、と言ったら笑われるでしょうね。 (『私たちの愛』2003年 講談社刊) ------------------------------------------------------------------------ (先日私にふわっとハグしてくれたのも、節子が近くにいたんじゃなくて、遠くからの念だったのかもな)...
minori
2007-07-08T17:54:07+09:00
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我が母ストーリー さと子さんと節子その2
http://www.lovepiececlub.com/ayako/archives/001077.html
母・節子の葬儀で出棺のときにさと子さんの「ふるさと」が流れた。姉・敦子の発案だと思う。 ♪うさぎおいしあの山 こぶなつりしかの川♪ である。 節子がさと子さんの曲の中でも、とりわけ好きだった歌だ。 私は、さと子さん全盛期である子供の頃の歌を本当には知らない。生で聞いた事がない。年齢的に仕方ないのだが、これが非常に残念。私がさと子さんの子供時代の声を聞けるのは1974年頃に出したと思われるベスト盤や後に「懐かしの童謡大全集」のような企画もの的CDなどで聴くだけだ。 といっても、これがなかなかいい。74年のベストが出た時、10歳でフィンガー5に夢中だった私だが何度も何度もさと子さんの歌も繰り返し聞いていた。ファンになった。 有名どころの「子鹿のバンビ」。他に「ピーコポン」「ぺたこ」(すごいノリのいい曲で私はこれが大好き)、「砂山」(ほんの少し大人びた声になったさと子さんがさも楽しそうに歌っている。メロディが結構難しくてこれをこなすのはさぞ快感だろうな)いいんですよ、これら! お腹から張り上げる、といっても無駄な力みのない、リズム感の豊かな、まっすぐに響いてくる感じの声。 「童謡集」のようなCDでは他の子供歌手の歌も入っているが、録音が古いせいも多分あるのだろうが、舌ったらすなペチャペチャした歌い方の人が多く、とてもさと子さんのとは比べものにならない。一目瞭然。「一耳」か。身びいきだけではないぞよ。 父親(私にとっては祖父)がそれこそ手取り足取り指導でさと子さんに歌の練習をさせたのだという。 祖父も歌手になりたくて15の年になんと佐賀から!上京してきた人だ。 1992年に亡くなった祖父のお通夜の時に、調律師時代の同僚だった方が弔辞で「良ちゃん(祖父の名前は良三)は、妬み嫉みのない人で…」といった言葉を贈ってくださり、遺された家族はそれでまた涙、涙だった。気持ちのまっすぐな、非常に真面目な、そして誠実な人だった、と祖母も節子も末の妹・園子さんもそう言っていた。 第二次大戦中、疎開していく人たちが残していくピアノを次々に買取り、またいろいろなピアノの部品、銅線を買い集め、戦後に買い占めていたピアノを塗りなおしたり調律し直したりして売ったそうだ。このアイディア自体は、おそらく商才ある祖母のものと思われるが、焼け残ったピアノを解体して日なたの庭に並べて作業をしていた祖父は幸せそうだったそうです。 私は祖父ときちんと1対1で話したこともないけれど、とっても生真面目な人であったことは憶えている。 うまく立ち回る、とかとても考えもせず、出来そうもない人。いろいろなエピソードを聞いても、純粋に「音」を愛していた人だと思われる。 ________________________________ 父親は、苗を育てるように大事に(さと子の歌を)育てた。歌手を育てよう、というのでなくて、彼女がいい声で歌を歌っていればそれでよかったのです。 (『私たちの愛』講談社刊より) ________________________________ さと子さんも、父親に言われたからだけじゃなくて、きっと心から歌が好きだったんだろう。まだ本格的に歌を始める前、家の出窓に身を乗り出して、よく童謡を歌っていたそうだ。道行く人が、立ち止まり、見上げ、拍手もわきおこったっという。 ________________________________ 「外に向かって大きな声で歌ってるとみんなに聞かれちゃうじゃない。さと子、恥ずかしくないの」 「ううん。たくさんの人に私の歌を聞いてもらうと、すごくうれしい」 子供心にもこの子と私は違うのだ、とはっきり思ったのを憶えている。 (『最期まで微笑みを』より) ________________________________ そういえば、これも私の子供の頃だが、私も小さい頃から歌好きで、適当に鼻歌よりももう少し大きな声で流行歌などを家の中でも歌っていたのだが、そうすると節子から 「もっとお腹から声を出して」とか「言葉をはっきりと発声して」とか、注意を受けたことが何度かあった。別に発表会で歌うとか、そんな予定はまるでなく、ただ家の中で歌ってただけなんですけど。 さと子さんの子供時代の、特にデビューしてから2?3年、小学4年頃までの歌声は、もう歌が好きで好きで、歌うのが楽しくて仕方ない感じが良く伝わってくる。それが成長と共にややテクニックに走るきらいが出始め、大人になり、声がわりをした後の歌声も少し残っているのだが、もう仕事だから仕方なく歌ってるのよ風にさえ聞こえてしまう。 「ワク」って窮屈なものだ。 でも「ワク」があるからこそ、それを飛び越える為のパワーが溜まっていくって事もあると思うんだが。しかし、それがきつ過ぎると…? さと子さんにとっていつしか「童謡」はきゅうきゅうなワクでしかなくなってしまったのかもしれない。 1970年代頃、さと子さんも30代に入る頃だが、次第に童謡を歌うことを拒否するようになったそうだ。 全共闘の時代、学生たちがさかんにコンサートをやっていて、彼らに童謡は一種の癒しのように受け取られていたらしいのだが、呼ばれたさと子さんは、やはり童謡は拒否し、歌ったのはジョーン・バエズの「花はどこへいった」などの反戦歌。 シャンソンを歌ったこともあったという。 私もさと子さんが身体を壊すまでの、大人になってからの歌声を聞いたことがある。まだ小学1?2年で、歌の味わいだなんて考えない頃だった。今、聞いてみたいな、と切実に思う。どんな歌だったんだっけ。やはり職業だから、みたいな歌い方になっていたんだろうか? それとも楽しそうに歌っていただろうか。 2004年 8月6日。節子は集中治療室に入った。入ったベッドの側に何故かラジカセが設置してあり、使ってもいいんですよ、と言われた。 もう意識があるのかないのか、見た目には殆ど分からない節子。聞こえるかどうかもわからないけど、「聞こえるかもしれない」そこにかけて、またさと子さんの歌を流し続けた。...
minori
2007-06-14T11:54:22+09:00
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さと子さんと節子その1
http://www.lovepiececlub.com/ayako/archives/001069.html
さと子さんが亡くなったのは結構突然だった。長いこと身体を壊していて、この時も入院はしていたものの、すぐにどうこう、という事はなかった筈だった。だから誰も間に合わなかったのだ。急変したのは、その日病院に見舞っていた末の妹・園子さんでさえ、帰宅した後のことだった。1996年5月25日。享年55歳。 ________________________________________ 確か亡くなる3週間前のことだった。江古田の実家に一時帰っていたさと子から電話をもらった。 「きのう、節子ちゃんの夢を見た。入院した夢だった。大丈夫?」 ちょっと弱々しい感じだけど、やわらかくて、透明感のあるさと子の声だった。 「大丈夫だよ。ぴんぴんしてる。さと子ちゃん、心配してくれたの?」 「そう、とっても心配で・・・・・・」 (田原節子・著『最期まで微笑みを』講談社刊より) ________________________________________ さと子さんと園子さんは母・節子の妹で、だから私にとっては叔母にあたる。節子の上にも一歳違いの姉・照子さんがいたのだが中学2年の春に病気で他界している。ずっと長い事、節子たちは3人姉妹だった。さと子さんは小学生の頃から、第二次大戦後の、混乱期というか復興期と言われる時期に、童謡歌手として名前の知られた人だった。(私が小さい頃は、知らない大人、例えば担任の先生などに「古賀さと子って知ってますか?」と聞くとほぼ100%知られていた程だ。単純に「すごいな」と思った) さと子さんの死に、節子はかなりショックを受け、それは妹が亡くなったのだから、逆縁のような辛さがあったのだろうが「もっと会いに行ってやれば良かった」「もっと話をしてやれば」後に残された者は皆そうだと思うのだけれど、最善を尽くせなかった、との後悔が尽きなかったようだ。 節子は、とにかくなんせ、みのりさんがおっしゃってくださったように、ずっと動き続けていた人だ。いつだってやりたい事、やるべき事がいっぱいなのだ。さと子さんが亡くなった頃は、もう父・総一朗と結婚して7年ほどたっている。私が見ていた限り、父と結婚してからの節子のしゃかりきな動き方は、凄まじかった。さと子さんのことを勿論ずっと心配していたけれど、その事だけを考えてはいられなかったのだ。さと子さんが亡くなってからも、節子は園子さんと時折二人でさと子さんの話をしてはよく二人して涙していた。 節子は亡くなる2004年に入ってから、急坂を転げ落ちるように体調の崩れ方がひどかった。腰を自力では長く支えていられなくなり、本来すごい活字中毒、本の虫なのに、本を読むのは腕も目も疲れると行って、寝室で横になってばかり。 「余計な気つかうな」と普段は怒られてばかりの私も、節子がこんな寝てばかりで、身体より先に頭がボケちゃったりしたら、こっちも悲しいし大変だし、第一あれじゃ本人がつまらなかろうと、 「じゃあラジオ聞いてみる?」とCDラジカセを寝室に持ち込んだ。 一応、節子はそれにノッたのだが、つまらない番組ばかりで(たまたまその時間帯がそうだったのか?私自身はラジオ好きだが)、すぐに飽きてしまった。節子サマにご満足いただくのは容易ではない。 「じゃあさと子姉ちゃま(私は小さい頃から叔母たちにこういう呼び方をしている)のCD聞く?」とまるで業者さんのようにすかさず聞く私に、節子は意外な程素早く「うん」とのお返事。家にあったさと子さんのCDやらテープやらを片っ端からかけた。かけ終わると節子は「もう一度」という。「砂山」が聞きたい。「ふるさと」はある?リクエストももらった。いいぞ、いいぞ。節子の興味をひいたぞ。はーい、では次の曲は…。それこそラジオのDJさながらに曲を選んでかけたりした。 私の記憶では、節子は昔から音楽に殆ど関心を示さなかった。私が子供の頃など、家で音楽を流していると、「(自分の)考えがバラバラになる」といって嫌がった。それでも私は「ごめんね?」みたいな軽いスタンスで。音楽を聴く事自体は辞め(られ)なかったんだけど。節子が「もっと聞きたい」気持ちになる音楽はさと子さんの歌だけだった。 考えてみれば、調律師夫婦の子供で、音楽に囲まれて育ったであろう筈なのに、見事な程にのちのち微塵もそんな雰囲気を醸し出さない? 節子であったことよ。 照子さんも、相当な優秀な人で、将来をとても楽しみにされていたそうな。小学2年の時に作って投稿した俳句が新聞に載ったこともあったとか。 「満月や若いすすきが穂をひらく」 確かに小2が書いたとはにわかに信じられませんねー。童話らしきものもせっせと書いて、小学5年の時には小説家になりたい、という希望があったそうだ。 ________________________________________ 姉は、私などよりはるかに優秀な頭脳を持っていた。 文学少女の長女の照子と、童謡歌手の三女のさと子の間に挟まれて、健康だけがとりえの「普通っ子」の私もそれなりに大変だった。でも、落ち込んだりしなかったのは、姉妹仲がすごくよかったからだろう。 (『最期まで微笑みを』より) ________________________________________ しかし、とんだ「普通っ子」もあったものだ。...
minori
2007-06-07T11:50:45+09:00
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母の挫折その2
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父・総一朗は以前から、節子の生前から「お母さん(節子。父は私に対して節子の話をするとき、必ず「お母さん」と呼ぶ)は挫折なんて知らないんじゃない?」とよく口にしていた。それに対して節子は全く肯定もしないかわりに反論もせず、何故か満更でもないような、表情をしていたっけ。私はいつも「謙遜は?」と心の中で突っ込んでいた。お笑いの南海キャンディーズの山ちゃんみたいに。 おしゃべりセツコが静かになるのは、面と向かって褒められた時と本を読んでる時くらいだったな。 節子の最後の入院は、亡くなる丁度二か月前の6月からだったが、それからの体力の衰えは本当に早かった。まるで、袋に穴が空いて中の砂がこぼれ落ちてしまうように。腰が立てられなくなり、声もどんどんかすれていき、少し話すのも疲れるようになった。そうすると、どうしてもコミュニケーションが困難になってゆく。「がんサポート」での最後の対談は、病室の中で行われたのだが、節子の体力がなくなっているのは明らかだった。それでも、こんな状態では無理だろう、と思われた状況の中で節子は何度も奇跡を起こしてきた。ストレッチャーで駆け付けた、2004年(この年の8月に節子逝去)6月27日の俵萌子さん、絵門ゆう子さんとのシンポジウム(俵さんが主宰されている乳がん患者会「1,2の3で温泉に入る会」の大会)しかり、7月8日NHK「ほっとモーニング」生出演しかりだ。もしかしたら今度も、と。編集者も、そして私もどこかで期待したのだ。 「敗北なんていうと、殴られたようで、希望がなくなっちゃう。がん患者はちょっとでも希望を持てる何かがほしい。どんなふうになっても、どんな細い道でも、何か方法がある、一つは残されている、ということを説明してくれる医者がいてほしい。 がんという病気は、私は気力だと思っている。生きる希望というか、1日でも生きてて、物を考えられる状態を確保したい。それがなくなるということは夢にも思いたくない」 (節子がNHK「ほっとモーニング」で話した言葉から) だが、やはり初対面の方と、そしてあまりにも体力を失ってしまった節子には最後の奇跡はおこらなかった。この対談は7月22日。この2日前から、血小板が少なくなり、頻繁に輸血を必要とするようになっていた。いつもの対談なら、初対面のゲストの方でも話をして、どの対談の時も、よく盛り上がるらしく、すっかり仲良くなった後でツーショットを撮る。仲の良い雰囲気が伝わる良い写真が出来上がる。連載時、必ずツーショットは掲載されていた。 しかしこの最後の対談のとき、節子は対談の後まで体力は持たないだろうからと、初めにツーショット撮影を希望した。全く初対面のお相手。そして節子は、声を出そうとしても5秒も6秒もたってやっと一言、という、とても対談なんて出来る状態じゃなかった。ツーショットもやっとの事で撮ったものの、節子の表情は明らかに辛いのに無理をして笑っているといった顔だったし、相手の方もとまどいを隠せないままだった。初めて、あまり良いとは言えない写真が出来てしまった。(やはりこのツーショットは掲載されなかった)対談そのものも、節子が本来とはあまりにもかけ離れたペースでしか、声を出せないでいた為、きちんと本来あるべき形では成り立たなかった。もっともっと言いたい事があっただろうと思う。あまりにも衰弱した身体ではあったが、節子の目だけは、仕事をしたい!と輝いていたのだから。 終わった後の節子の機嫌は、あまり良くなかった。 俵さんの時も、NHKの時も、スタッフのみなさんや他の出演者の方々が非常に節子に気を遣ってくださり、節子の様子をみながら話をしたそうな時は促して下さったり、話を途中で折ったりせず、話終わるまで待っていただいた。分かってはいたが、俵さんの時にしてもNHKにしても周りの方々の暖かい理解があってこそ成り立った仕事だった事が痛感させられる。そして、俵さんの時よりもNHKの時のほうが、明らかに弱っていた。 NHKの時よりも、「がんサポート」の最後の対談の時が多いに弱っていたのだ。以前も取り上げたが、母が亡くなった直後みのりさんがここのコラムで書いてくれたように、「私の言葉をまず聞いてくれ」「私の意思を尊重してくれ」という気持ちの非常に強い人だったので、意思が人にわかるように示せなくなった時の絶望感は一体いかほどだったのだろう。まもなく節子は殆ど声を発する事がなくなっていった。 節子の初めての挫折は、この死の直前の、コミュニケーションを結ぶ術を断たれた時だったかもしれない、と思う。...
minori
2007-04-12T19:19:32+09:00
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言葉を交わせるからこそ・・・
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動物が、普通。 普通に可愛い、と思う。ただ世の多くの皆さんのように、犬が大好きっ。とか猫のいない生活なんてっ。て程は特別な動物に対してのめり込まない。 母・節子はそんな人でもあった。 ここだけは私も節子に似ているんだ。後は殆ど似てない親子だったけれど。特定の動物に思い入れはなくて、犬派も猫派もありゃしない。だからといって、犬好き、猫好きを否定する気持ちはさらさらないのですよ。犬も猫も可愛いと思う。犬や猫が可愛いのとほぼ同じように牛や豚も可愛い、と思う。外で牛や豚や馬を見つけると、キャーキャー騒ぐような奴だ。で、食料としても、牛も豚も(あれば馬だって)食べるし、肉はわりと好きな方。因みに私が一番好きなのは鶏肉ですが! だから、犬肉を食す国があると聞いても、そりゃあ自分は日本生まれの日本育ちだから違和感は多いに持ちますけど、ま、そんなこともあろうかと、ちょいとは納得出来ちゃう。 そういえば何度か節子と二人でこんな会話をした事があります。 「別に嫌いな訳じゃないんだけど、犬や猫、それほどじゃないよねえ」 「可愛い、とは思っているんだけどね」 「そんな事言ったら牛とか豚だって結構可愛い顔してるもんね」 「なんでこんなに動物によって扱いが違うんだろうね。身体の大きさかな」 「友達とか他の家族たちとか、世の中の人大概が犬猫をすごく好きだよね」 「犬(猫でも)好きの人と道を歩いていて、前から可愛い犬(或いは猫)がやってきたりしたときのあの犬(または猫)好きの天にも上りそうな幸せそうなリアクション!同じノリになれなくて悪いような気がするときがあるよ」 「でも、ヒトのほうがいい…と思っちゃうんだなあ!」 「話ができるもんね」 どっちがどっちという事もなく、こんなやりとりを何回かしました。 そう。やはり節子も私も動物に与えうる慈愛は適量しか持たないらしい。その分、人が好きなようなのです。人と話す事が。?(いやー、ひょっとしたらただ冷たいだけかもしれませんが…)?勿論、言葉というものを介さなくても、動物とだってコミュニケーションがとれることも分かってます。?それでも人と話をしてて分かり合えた(分かり合えなかったとしても)時のあの快感に勝るとは思えないんですものさ。でも、赤ちゃんとコミュニケーションするのなら、大人の人と話してるのと負けず劣らず好きなので、もしかしたら好きな動物が人間ってだけの事かもしれませんな。 節子以外でこういう人と出会った事がないので、節子がいない今の私は(とりあえず見える範疇では)この世でただ1人の変人でございます。 でも本当に、犬も猫も、普通に可愛いとは思っているんです!ただ他の皆ほど我を忘れる事が出来ないだけなんです! 話は変わって昔々。母がテレビ局のアナウンサー。父・総一朗がドキュメンタリーを作っていた頃。父がドキュメンタリーを作りながら(また父のドキュメンタリーの作り方が、対象の人とそれは密接に係わり合い、心の内側へ、内側へ、まだ奥まで行っちゃうの? ってくらい入って行くやり方をするそうだから)関わって、いわば父が惚れられた女性が何人もいたそうなのだが、彼女たちに父は「僕には村上節子さんという好きな人がいますから」とか言ったそうで。 それで節子の職場まで訪ねて会いに来た女性たちとも一人一人と節子は話したという。仕事の話や女の生き方の話。殆どの人は別に父の話を持ち出す訳でもなく、ある人はただじっと節子を睨みつけて。ひとしきり話すと相手の女性たちは納得したように(なにを?)帰って行ったそうな(こいつは敵に回せない、とか思わせたんだろうか?)。 これは父から母への一種の口説きというかアプローチだったとも言われているのだが、何と言うか、複雑な(いや、単純か?)ことをいたしますなあ。 節子は、初めて会った人でも十年来の親友のようになれる、とどこかに書いてたっけ。実際そうだったし。そして初めて会う人であっても、相手の話をとても丁寧に聞いて短い時間でもしっかりと噛み締めて、確固たる意思のもと、自分の考えを相手になるべくそのまま伝わるよう(人はとかく誤解しやすいものなので)優しく優しく話していたように思う。(母の癌がかなり進行して特に歩行が困難になってからは、私は母の付き人のようになり、どなたかと1対1の話をしてるときも同席させてもらう機会が幾度かあったもので、そんな様子を見る事が出来た)また相手の言葉もなるべく正確に把握できるように、じっくりと聞いていた。どなたに対しても。とても誠実に話す。自分に対しても相手に対しても。だから節子はいろんな方たちと心から寄り添える「特別な関係」になれた。私は節子をひそかに「平成の光源氏」と呼んでいる。父の同意も得た(だから何?)。いろんな女性としっかりと深く話をして、それぞれと絆を深めて。?節子は多くの方と「特別」を紡ぐ事が出来たのだと思う。豊かな人生ですね。(余談だが私は本当は光源氏は嫌い。登場する女性達は好きだが) どの人も節子にとって大切な方々。これってやはり光源氏ではないですかね?...
minori
2007-04-06T14:04:19+09:00
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母の挫折
http://www.lovepiececlub.com/ayako/archives/000973.html
★生きたくて、生きている人たちは美しいな。(唐突ですが) 私は、時折思い浮かべる。 母・節子とがん友・重盛さんがウキウキと水天宮や人形町のあたりをおしゃれしておしゃべりしながら闊歩していく姿を。 「今年も生き抜いたぞ」との思いで進んでいく姿を。人形町の洋食屋さんで美味しそうにメニューを平らげていく二人を。誰も二人が難しい病気・炎症性乳がんを患っているなんて思いも及ばない、元気いっぱいな姿を。このお出かけから帰宅した節子の嬉しそうなお土産話と、著書による記述とでしか知らない、この日の二人。でもまるで見て来たかのように鮮やかに浮かび上ってくる。 とてもキラキラしているその場面たち。そういえば、節子はよく、「キラキラしたい」と言っていたっけ。 まだ、がん発症前の、再婚して数年目の頃だったか、なんの話の流れだったか「キラキラしたい」そういう節子に私は何の気なしに「ギラギラ、じゃないの」というと、「・・・」と吹き出しがつきそうな顔をしていたが。 きっと、キラキラ、なんだよね。ギラギラ、ではないんだね。なりたいのはね。でもこの言葉を発した頃の節子は私から見たら本当にギラギラして見えたのだ。 2002年の年末に決行された母・節子と重盛さん、二人だけの忘年会。 重盛さんは「こんなに綺麗な人だったのか」と節子を驚かすほど、普段のパジャマだったり、気軽に点滴の為に寝っころがれるカッコとは違い、素敵におしゃれをしてきてくれたそうだ。待ち合わせて水天宮にお参り。年末の活気に満ちた街を二人で歩く。ランチに入ったお店は人形町の「芳味亭」。有名な洋食屋さんだ。食べたものは、ハンバーグ。オムライス。ビーフシチュー。エビフライ。身体に悪そうなものばかり。でも「羽目をはずしているようで愉快だった」(by『最期まで微笑を』講談社)。「とっても美味しかった。綾子もお友達と行きなさい」と後から何回も言っていた。実は私は未だに行っていない。行きたい、行きたいと思ってはいるのだが。ただどこの立派な高級レストランよりも敷居が高い、特別な店に思える。 先月18日。大盛況のうちに終了した「東京マラソン」。東京の名所をまわってフルマラソンというのも斬新な企画で。夫がこれに抽選でしっかり当たって、参加してきた。私は普通に落選し、運動会のお父さんお母さんさながらでカメラ係となり、「ど」がつく程の雨だというのに新宿都庁前のスタートから途中、東京タワー近くの増上寺前や築地本願寺前で、止まない雨の中走ってくる夫や他のランナー、この大会の雰囲気を下手なりにカメラに収めた。(よその家族は走る人と撮る人とで携帯で連絡を取り合ったりしていた。走る方の人も携帯持ったまんまの人、多かった。ワンセグでテレビ見ながら走った人もいたらしいが。すごい時代になったものだ) 数日前、テレビの東京マラソン紹介コーナーで重盛さんのお店が映ったところを偶然見た。 重盛さんの家は、水天宮の真ん前というか、真横というか、そんな目立つ所で営まれている老舗の人形焼屋さん。重盛さんはそこを切り盛りするおかみさんだった。節子がよくいただいてきたものだ。元気と人形焼き。 テレビによると重盛さんのお店では、東京マラソンで、ランナーに食べさせる給食(!)の一種として6000個の人形焼を用意したとのこと。 重盛さんの配偶者の方だろうか、店主と肩書きのついた「重盛」姓の熟年という感じの男性がてきぱきと前出のテレビの中でレポーターのインタビューに応えていた。 夫にはお土産に一個くらい、くすねて持って帰ってきて欲しかったのだが、人形焼は早々に品切れになり、後方の走者にはまるで届かなかったらしい。(ランナーは3万人と言われていたが、6000個…でもしょうがないですね)夫は自分の分さえ手に入らなかった。 重盛さんとの馴れ初め?は確か、雑誌「がんサポート」かその前の「がん治療最前線」でいつも「がん友の皆様、ご連絡下さい」とがん友募集を掲げていた節子のもとに、重盛さんがお手紙をくださったんだったような・・。年齢も商売も違うし、同じ炎症性乳がんを持っている、という共通点だけの二人。(それは、探しても簡単には会えない共通点でもあった。しいて言えばおかみさん気質、のようなものは似ていたのかもしれない)、どんなに普段身近にいる家族よりも、がん患者同士でなければ分かり合えない、分かち合えない感覚や思いがある。らしい。 随分年齢を重ねてからの出会いだったが、とにかくすごく友達だった。 二人は同じ病院で、同じ曜日の同じ時間に抗がん剤の点滴を受けていた。示し合わせて、というよりも必要にせまられて。抗がん剤の点滴は5時間ほどかかり、しかもベッドの数は限られてるから、病人なのにここでも早い者勝ち。競争に破れたらベッドが空くのを待たねばならない。二人とも比較的病院の近所に住んでいて、朝早く出て来れば、ベッド取り競争には強かった。ナースさん達も心得てくださって、二人を隣同士にならべてくれて、そんな時の点滴中の時間はいつもおしゃべりに花が咲いたらしい。 同じ病気で、同じような薬を飲み、いってみれば同じ釜の飯を食う戦友だという。よく電話でも話をしていた。いくらでも話が尽きないらしい。病状、薬、家族の事。普通に歩いていると「お元気になられて」「治られて良かったですね」と声をかけられて、でも「治ってないもんね」「まだ病人だもんね」と首をすくめる。そんな気持ちを共有できる友達だったのだ。 重盛さんが亡くなったのは、それから半年ほど経った頃だった。(同じ病気の友人が先に亡くなる。私が実はもっとも恐れていたことでもあった) 節子の憔悴は見ていられないほどだった。かけがえの無い友を失った重い悲しみ、苦しみ。そして「自分もやがて…」という恐怖ものしかかっていただろう。何もかける言葉が見つからなかった。 丁度その一ヵ月後に、もう一人の大変仲のよかったがん友・中田さんも先に逝ってしまった。立て続けだ。(節子の闘病期はこの二人なしには語れない。私にとっても重盛さんも中田さんも忘れられない方々だ)節子が、笑えなくなった。 「私が彼女たちを支えていると思っていたが、支えられていたのは私の方だった」(『最期まで微笑を』より)父も一生懸命、「他にも友達いるじゃないか」「また友達作ればいいじゃないか」と言葉をかけたそうだが(そうとしか言いようがなかったのだと思う)、やはりそれでは埋められない、節子の心にぽっかりと空洞が出来てしまった。 みのりさんが大勢のお仲間と一緒に節子を訪ねてきてくださったのは丁度そんな頃。重盛さんのいなくなった穴は埋められなくとも、節子はまた新しい縁をたぐることができた。本当にありがたくて、私には、みのりさん達は羽が生えた天使のようにさえ思えたものです。しかも節子のリブの頃を知って、来てくださったと。父の妻、それもがん患者の、という枕詞で言われる事の多かった節子の、本当の「核」とも思える部分について知りたい、と来てくださった。みのりさんが間に合ってくださって、節子もどんなに嬉しく思ったかしれないけれど私もまためちゃめちゃ嬉しかった。 講談社の岡部ひとみさんから『最期まで微笑を』出版の話をいただいたのもこの頃だったと思う。新しい出会い、新しい仕事を経て、歩けなくなり始めた時期ではあったけれど、また節子が笑顔を取り戻せた。人と人とのコミュニケーションって大切。いやもしかしたら「人」とも限らないのかもしれないけど。 節子も重盛さんや中田さんという、大切な「がん友」とおしゃべりして励まし合ったり笑い合ったりしてた頃は元気だった。お二人が相次いで亡くなった時の落ち込みようは、私が知ってるどんな時よりも激しいもので、そしてなかなか立ち直れなかった。 父・総一朗が「お母さん(節子)は挫折なんて一回もしたことないんじゃない?」と、今でもよく言う。人間として67年も生きててまさかそんな筈は、とも思うのだが、父が言うには、自分は野球をやろうとして上手く行かなくて、作家になろうとして大江健三郎や石原慎太郎の小説を読んで諦めて、就職試験にいっぱい落ちて…でもお母さんにはそんな経験はない。何をやっても上手くいってた。僕とは全然違う、と。 確かに節子は受験も失敗したことないし、就職試験もコネなしで入ったと本人イバッてたし、裁判しても勝っちゃうし、癌になってもそれを逆手にとって?友達増やすは仕事も増やすわ。転んでもただでは起きないというか、ピンチをチャンスにかえるタイプ。節子の挫折は、共に病気と闘ってきた戦友を立て続けに失ったこと。そして亡くなる数ヶ月前から声が出せなくなった事かもしれない、と思う。...
minori
2007-03-03T14:41:30+09:00
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母とラーメン屋の関係
http://www.lovepiececlub.com/ayako/archives/000940.html
母・節子が実際に就いた職業は日本テレビのアナウンサーとCMプロデューサーと父・総一朗のプロデューサー。しかし前回でも書いたが、本当に何やっても生きていけるであろう人だった。例えば、家政婦紹介所の経営。私のシッターさんとして雇っていた家政婦さんに薦められた事があったそう。「奥さんくらいの才覚があれば電話一本で家政婦紹介所ができる。なんなら私が腕のいい家政婦を数人集めてきますよ」と。面白いですね、現役の家政婦さんからすすめられるなんて。 または前回でも書きましたが占い師でも。本屋の店主でも。 う〜ん、しかしラーメン屋は、どうでしょ。 というのもですね、『私たちの愛』に何度か出て来た、或いは、食事の時など皆で話してる最中によく聞いた、昔、まだ父との二人の関係が公にしにくい時代に〜周りの人は皆知っていたそうだが〜二人で社会からドロップアウトしたらやっていこうといっていたのが、橋の下のラーメン屋だったらしい。 が、それってラーメン屋をナメてないか。 節子は確かに何をやっても生きていける人だとは思うが、ラーメンの味は、未知だ。ま、きっと本気出せばいい味作るのかもしれないけど、実際に節子が作ったラーメン、というのは生まれてから23歳くらいの年齢まで一緒に暮らしてたこの私でさえ食べた記憶があまり無い。節子の作ったご飯はいろいろ食してきてしかもラーメン好きだったこの私でも。自分の好きなものはなんでも作ってた、と思われる節子が作っていない。つまり多分節子は元々そんなにラーメン好きではない? なのに。 なんでラーメンなんだ? なんでダイワハウスなんだ並みによくわからない「橋の下のラーメン屋」は『私たちの愛』熟読中に私が陥った最大の「??」だ。しかも、社会からドロップアウトした二人が最後に行き着く先、つまりこの世の果て、みたいな置き所なのだが、どうしても二人でやるラーメン屋、って楽しそうに聞こえてしまう。狭いながらも楽しい我が家、みたいな。この違和感は節子本人にも何度か伝えたのだが、お互いの感じ相容れず。とにかく、なんだかラーメンだったらしい。 かーちゃん、やっぱりわかんないよ。 まあね、いざとなったら自分が何やったって、総一朗1人くらい食べさせてやれるわよ、って節子の覚悟だったって事はわかるんですよ。でもやはり。なんでラーメンなんだ? それならもうひとつ出て来た「この世の果て」タクシー運転手、の方がまだわかるのだ。二人でドロップアウトしたら、節子がタクシーの運転手になる。うん、まだこの方が納得できる。確かに東京の地理はわりと詳しいし、大胆ながら若い頃は上手な運転してたし。でも荒っぽい客とかとすぐ喧嘩しそうなんだけど…。節子は確かに食べることが大好きなんです。持ち前の「何でも知りたい」吸着力のある好奇心、貪欲なまでの生命力は大いなる食欲が源かもしれない。 「生野菜を触っているのが気持ちいいの」とトマトやきゅうりを洗いながら節子が言った。とにかく触っていたいと、節子がすすんで料理したがっていた時期があった。著書にあったのだが、最初の入院中からの大きな希望だった「大きな樹に触ってきたい」と2001年頃に熊野古道や西表島、マレーシアまでひとしきり旅をしまくった後からその感じが顕著になったらしい。普段の生活で出来る、大地との触れ合いとでもいいましょうか。それを聞いて私もあっさり影響を受けて、料理中に野菜を手にとっている時に大地の滋養を吸い取っているような感覚をおぼえるようになった。 そうするとまた、日々の料理も楽しかりけり。 ってゆうかそのくらい母や私の生活が街暮らしの人工的なものになってたって事なのでしょうかね。 そんな節子が2003年から、転移からか、抗がん剤の副作用からか、味覚をあまり感じられなくなり、例えば寿司のにぎりなど、もう美味しいとは思えないと、「ふきんを食べているようにしか感じない」と言い始めた。大好きだった秋刀魚の塩焼きも食べられなくなっていた。微妙な味かげんがわからなくなってしまったらしいのだ。 食べる事が大好きだった人が。 これは本当にかわいそうだった。がんになって、2003年以降に現れた病状はどれもなんで!?っていうものばかりだったが。それもあまり今までよそで聞いた事のない症状ばかり。大腿骨への転移で歩けなくなったり。目への転移で物が歪んで見えるようになったり。内臓は余程丈夫だったのか最後まで全く転移せずに、変なとこばっかし出た。?それでは食事も楽しくなかろうし、本人が声高に「濃い味のものが食べたい!」と言い出したこと(自分で気持ちの折り合いをつけ、どんどん希望を言ってくれるので、その点扱いやすい患者ですが。腹の探り合いにならなくていいから。この連載で何度も言ってますが我が儘ですけどね?)でそれまではあまり好きでなかったカレーを食べる事が多くなった。 麻婆豆腐、坦々麺…。ピザーラのピザを頼むのも好きだった。それまでとは少し変化した味覚にとまどいながらも、まるでその状況を楽しんでいたようにさえ見えたものです。だって、坦々麺なんて完全に味覚に異常をきたしてから食べるようになったものだが、喜々として食べてましたもの。 というより坦々麺やカレーや豚骨ラーメンだけが節子にとって「食事」になってたのでしょうね。他の、味がしない食べ物は「薬」でしかなかったのかもしれません。 そういえばこの頃雑誌「がんサポート」で対談した、あるお医者から宅配で札幌の有名店のラーメンをプレゼントしていただいた事があった。 これがまた濃い目のこってりとんこつの美味で。節子大喜びであっという間に食べきり、お礼も出した(そしたら後日またいただいた)。もしかしたらこの時に「ラーメン屋を開かなくて良かった…とてもかなわない」なんて頭をよぎったりしたでしょうか? しないか。 このお医者は、対談中に節子に「私の今の状態は陸上でいうとどのあたりでしょうか?」と聞かれ、「第4コーナーをまわって、最後の全力疾走をしているところです」というようなことをおっしゃったらしい。(あとから思えば本当にそのあたりだった) 節子はやはりショックを受けていた。まさかそこまではと。でも感情をまき散らすでもなく、じっと自分の奥のほうで噛み締めているような様子で。やはり笑顔が減った。 この方は勿論、節子が味覚をかなり失っていることを知っていたと思われるし、ラーメンは多少、罪滅ぼし?(罪だったのかなんなのか…微妙)の意味も込められていたのかもしれない。...
minori
2007-02-02T10:03:55+09:00