時節はすっかり春。しかも、早2007年。
始めはやはりご挨拶からでしょうか。「お久しぶりでーす、フーサンです」
「お久しぶり」と言われてもねの方々、まあちょっと休憩して下さい。始まったばかりですけど。お茶でも一服、自分で煎れて。さて、フーサンがこの栄えあるラブピーコラムのデモ鳥(あれ、変換が。。。)であることにお気付きのマイノリティなみなさま!お待たせです!このたび「エイガランラン映画乱爛」と題し、フーサンコラムを再開させていただきます。ヒャッホー!(景気付けっす。気にせずよろしく)
以前担当していた、一応おのれの健康問題に沿ったコラム「半社会的おっぱい」でも、気がつくとよく映画の話をしておりました。まあ、映画は好きです。よく観ます。友人どうしでも何かというと映画の話をします。つまらないならつまらないなりに、言いたいことはたくさんあるもの。映画の魅力、そして映画を観る時間の「怠惰」でさえ、わたしの人生に無くてはならないものとなっています。
多少世代の差があろうと、今これをお読みいただいている、つまりいっしょにここに、この時代に生きている人々は、人類始まって以来初めての罠にかかっている、と言っても過言ではありません。映像、これはわたしたちの人生を奪います。映画の始まりから終わりまで約二時間、わたしは自分の人生を束の間放りだして、同じように放りだした人々と肩を並べて、暗闇に沈むのです。そして明るい光に顔を向ける。騙されているのを知りつつも。あー、同じ夢を観ている。気持ちよい。しかし、目覚めてみると、その夢の思い出はそれぞれ違っている。わたしたちは、放り出していた自分の人生を慌てて拾い上げ、ふっふっとゴミを払って、また懐に抱えなおして、暗闇からゾロゾロ出てくる。なんという娯楽でしょう。もしも人生最期の瞬間に、神様がかな?死神がかな?わかりませんが、「映画を観ていた時間分だけ差し引いて、ペナルティタイムとして還してあげるよ。最期にシュートがきまるかもよ」とか言われても、わたしはきっと拒んでそのまま死んでゆくでしょう。映画という夢、異形の現実、共同幻想、これ無くしては、わたしの人生はまったく別のものになっていただろうと思うのです。
「映画は夢」と言いました。一方映画は、恐ろしいほど、その社会の現実を反映してもいる。数々の忘れ難いシーンの中でも、わたしの頭に永遠にこびり付いているであろう、ナンバーワン・ホラーな台詞。ホラーというよりはグロテスクと言うべきかもな。今は昔、それは、1996年のことでした。アメリカ大統領役のなにがしかが、誇らしく聴衆に向かって言い放つのです、
「今日から7月4日はアメリカ一国のためだけでなく、人類全体の独立記念日となったのだ!」―インディペンデンス・デイ−
勇ましい音楽、割れんばかり、歓喜の声、声、声。心一つとなるエンディング。。。
まじ、エビ反りました。
これを帝国主義と言わずして、なんと呼ぶ。そんな何十億ドルも使って、全世界に配信する映画つくって、人々を椅子に縛り付けて、こんな台詞を聞かせるのですか。助けて−!助けて−!助けて−!
それから5年後、9・11以降のアメリカが何をしてきたのか、あたしゃ、死ぬまで忘れませんぜ。もし、この映画と出会っていなければ、国家の意思というものがどのように発生し、どのように醸造されていくのか、知らぬままであったでしょう。世界がテロとの戦いという呪縛を自らに課したのは、単にたまたまトップの人間が悪かったのだと胸に収めていたことでしょう。あにや!アメリカン映画の聖地ハリウッドからはその後続々と、「アルマゲドン」「ディープ・インパクト」といった映画が生み出されていきました。それは、人々の心の流れであったということ。なんだろうと思います。
しかしそのまたあとあと、2005年の「宇宙戦争」になると、ヒーローは隠れたり怯えたり泣いたりもし、だいぶ情けない普通のオヤジに近付いていき(トム・クルーズなのに)、今や、大ヒーローものは影を潜めている。もよう。そんな予算も無い、もよう。ヒーロー達の衰退、なぜなのか考えるのはとても楽しそうです。
それで最近、我が国ではハリウッドものより邦画のホウガ(駄)、興行成績がいいそうです。そんなことは20何年ぶりだそうです。なぜか?いろんな人がいろいろおっしゃっています。我が国ではヒーローもの、あります。最近多いような気がします。
あっ!字数が!
もう、あっと言う間だ。
実は初回から話がズレまくっています。ここから、どうやって繋げるんだよ。って、次回は「さくらん」です。「さくらん」まっかっかっでした。一千体のお雛様ワールドとでも形容しましょうか。極東のこの地、色界は、ビードロの中でまっかに揺らいでおりました。