「ヤッター!」叫び声と同時に、天高く突き出される両腕。おお!ビクトリー!完全勝利宣言とともに、最高潮に盛り上がった興奮そのまま、突然、映画は終る。思わず椅子をけって跳び上がり、スクリーン上の彼女らに向かって歓声を送りたくなるワタシ。ブンブン腕を振り回して喜びを表現したい。しかし実際は、座った姿勢のまま両足を踏ん張り、拳を握って、誰にも聞こえないよう小さな声で「イヨッシャ!」とつぶやくワタシ。しばらく、久しぶりの快感・「頭の中真っ白」を堪能する。楽しかったなー。映画館を出ると清々しく絶好の秋晴れだった、とかいうのはうそで、その日の天気は覚えていない。まあ、そんな気分だったわけです。お久しぶりのタランティーノ、感想を一言、け、傑作だ。
「グラインドハウス」は二本の長編、ロバート・ロドリゲス監督「プラネット・テラー」と、クエンティン・タランティーノ監督「デス・プルーフ」と、間に挟まるいくつかの架空映画の予告編とで構成されている。単に映画作品というよりは、二人の映画マニアによる仮想空間、グラインドハウスの演出、ムービー・イベントというようなものだ。たまたまワタシはこれを、このイベントにぴったりの、館内にそこはかとなくトイレ用消毒剤の臭い漂う、新宿は歌舞伎町のとある映画館で鑑賞したのだが、残念なことに二本立てではなく、一本ずつの入れ替え制になっていた。興行収入が振るわなかったかららしい。けち臭いことである。
「プラネット・テラー」ももちろん観た。こちらも快作、或いは怪作。ワタシの一番ダメな映画分野はスプラッターで、次にダメなのがホラー。特にスプラッターものは、体に余計な力が入ってしまう。でも、これ「プラネット・テラー」だけは、鞭打ち症になるかと思うほど筋肉を引きつらせながらも、観てよかった!と思わせる稀有な作品だった。そういう意味でも超絶絶品映画と言わねばなるまい。だいたい、宣伝媒体をご覧になれば解る通り、かなりヤバイ感じ。セクシー美女の片足がバッツリと切断され、マシンガンがはめ込まれている。歩く姿はたどたどしく、ぐるぐる巻きの包帯も痛々しい。けれど美しく力強く赤裸々で、なんというか、オシッコをする牡犬のように片足を持ち上げてマシンガンを操る彼女を見ているだけで、倒錯的な喜びに股間がうずく。
このコラムでも度々、「女殺し」映画を批判してきた。まずは「グラインドハウス」はどうなのよ、という話。たくさん女が殺されてるじゃない。残酷シーンもてんこ盛りじゃない。その通りですが、何か?だってこれグラインドハウスだもの。足が吹っ飛んだり、キンタマ切り落とされたり、内臓飛び出たりしなくちゃ、ダメでしょ。例えば恋愛映画で恋愛を描くように、アクション映画でアクションを描くように、スプラッター映画は内臓を描く。それはテーマではなく方便、表現の目的ではなくて表現の額縁みたいなもの。
「デズ・プルーフ」は二部構成になっていて、前半では女の子グループが無惨にも快楽殺人者に全員ブチ殺されてしまう。無惨だけれど無念ではないのだこれが。女の子たちは最期まで全然恐がってないし、まさか殺人鬼に付け狙われているとはまったく思ってもみない。平凡でお気楽で楽しい女の子同士の時間を過ごしている。通常のスラッシャー映画では殺される側は散々、怯えて叫んで、殺さないでくれと嘆願する。その様を描くことこそが目的なんだろうと思う(あんまり観たこと無いけど)更に、死んでしまった彼女たちにしてみればそれは交通事故だったわけで、気の狂った男に間近で斧を振り下ろされたわけじゃない。これは決定的な違い、でしょ?
そして、さも残忍そうな「プラネット・テラー」では、結局あんまり女の子は殺されない。もっともエグイ死に方をするのは、ワタシの見たところ、チンコが溶けて腐り落ちた、クエンティン・タランティーノ演じるレイプ犯だったな。タランティーノはこの役をとっても楽しんだに違いない。自分の体が腐り落ちるなんて、考えただけで怖くてゾクゾク。それをプロの技術で作ってもらって、自分の演技力で味わえるなんて、最高。
とにかく感心するのは、この二人の監督の想像力、その範囲の広さとバラエティーの豊かさだ。「グラインドハウスなんだからおっぱい見せろ」とか子供じみたこと言ってる日本男児も多いようですが、「グラインドハウス」というタイトルでただのグラインドハウスを作る映画監督がどこにいるのか。ノスタルジーだけで新しい作品を作ることに何の意味があるのか。B級映画スタイルだからといって、B級目線で観るだけで何が面白いのか。こういう発想の人はきっと、想像力の貧困を「おっぱいが大きいのはエッチだから」とかいう妄想で補っているのであろう。(余談ですが、「秘宝館」というタイトルで秘宝館を再現した現代美術作品があったね、そう言えば。日本男児の作品だよもちろん)
「デス・プルーフ」でスタント・ウーマンのゾーイを演じているのは、本物のスタント・ウーマン、ゾーイ・ベルだ。タランティーノがこの印象的な人物を創造したのは、彼女の存在がインスピレーションを与えたということに間違いはないだろう。全体の筋書きさえ、彼女なしには有り得ない。日本映画の中でこんなふうに描かれる女にはなかなかお目にかかれない。たいてい、オカンか、美人薄命か、従順な妻か、奔放な愛人。ああ、なんて物足りないのだろうっか。この違いはどこから来るのだろう。方や実在の女にまでも妄想の女を重ねようとし、方や実在の女からこそ新しい女性像を創りだす。
どんな映画かと聞かれ、「ベーゼ・モア」と「チャーリーズ・エンジェル」を足しておバカにした感じ、と答えた。「ベーゼ・モア」の衝撃はしかし、全てを捨て善悪を超えて手に入れた解放感と、それゆえに滅び、消え去ることを選ばなければならなかったことも含めての、ツンと鼻にくる悲しい衝撃だった。それに比べて、「グラインドハウス」の衝撃はどこまでも爽快だ。これは監督のジェンダー体験の違いによるのだろうか、なんてことをついつい考えてしまう。
結びに、この際、フェミニズムって言葉を映画のジャンルにしてしまおうと思う。「ベーゼ・モア」をフェミ・バイオレンス映画と、「チャーリーズ・エンジェル」をフェミ・アクション映画と、そして「グラインド・ハウス」をフェミ・テロ映画とワタシは呼びたい。さて、いつもより長くなりました。映画二本分だし。けれど、まだまだ何も語ってないような気もします。北原と坂井と高橋、三人の「ガールズ・トーク」の方もよろしく。それでもまだまだ語り尽くせない。やはり、是非あなたの目で確かめてみて!
「グラインド・ハウス」 GRINDHOUSE 2007年 アメリカ映画
「プラネット・テラー」 PLANET TERROR
監督 ロバート・ロドリゲス Robert Rodriguez
「デス・プルーフ」 DETH PROOF
監督 クエンティン・タランティーノ Quentin Tarantino