吉永小百合が初めて母親役をやる、ということのためにNHKがドキュメンタリーを作った。♪ナンデダローヲナンデダロー?ナンデダナンデダナンデダナンデダロー♪(しつこくしてスミマセン)というわけで、「映画乱爛」2008年始めの一本de賞は「母べえ」に決定!
我が国において母を語ることはフェミ的に言って、ビミョーです。それは良妻賢母というものがウワバミさながら、なんでもかんでも飲み込んでくれていてこその「美しい国」スッポン、否、ニッポン!だから。『母は美しい、母は働く、母は耐え忍ぶ、母は強い、母は朗らか、母は歌う、母は料理上手、母は賢い、母は丈夫、ちょっとくらい無理をしてもダイジョーブ!ちょっとくらい殴ってみてもダイジョーブ!母はとにかく凄いんである。文句などなーい!そんな母が一家に一人の必需品。最近はそんな母の数が足りないから、少子化だのDVだの子の虐待だの冷凍食品だのという邪悪な世相が蔓延してしまうのであーる』
母を称えることすなわち、このような良妻賢母イメージを称え、ひいては男尊女卑国ニッポンを称えることになってしまう、のではないだろうか?!というのがあたしのフェミ的ジレンマの一つです。吉永小百合が初めて演ずる母親、称えられているに決まってるじゃん。どんな映画なのか観なくてもわかるじゃん。それでもわたしは観にいきました。「吉永小百合」が知りたくて。彼女はいったい何者であるのか。人なのか、幻影なのか。女優っていったい何なんだ?
しかして、「母べえ」は反戦映画だけど、実は寸止めよろめき映画だというのがあたしの感想。ドラマの主人公はあたしの見たところ、母べえではなく、浅野忠信演じるところの母べえに恋する書生風出入りの青年、山ちゃんでした。ドラマはいつも男子にありきの山田映画。女子はいつだってサポーター。寅さんにしろ清兵衛にしろ、山田監督の描く男子をあたしは結構好きです。寅さんにはかなり感情移入しちゃいます。テーマソングをカラオケで歌うときは涙が出そうになるくらい。だけど、山田監督の描く女子には感情移入できません。なんか違う星の生き物みたいです。さくらにしろ母べえにしろ、人間としての面白みがないんです。人として真面目すぎると思います。でもきっと、山田映画の中のジェンダー・バランスこそが、この国のジェンダー・ファンタジー(なんじゃそれ?)を具現化しているのでしょう、とも思います。だからこそ人気があるんじゃないだろうかな。山田監督は理想の女性に恋してるんでしょうねきっと、理想の女性以外の女に用はないんでしょうね。
でも、よくよく考えてみるとこの映画、良妻賢母映画ではないかも。最愛の夫が突然囚われの身となり、哀れ留守宅を守るは、体重十三貫目(約48キロ)のか弱き妻。ちょちょちょちょ、こんな文句に目くらましされてはいけない。なぜなら、白百合のごとき彼女の周りには、サユリスト達が、蝶々さながらひらひらと、とっかえひっかえ舞っている。ご本人はそんなことどこ吹く風と、ひたすら夫を思い子を守り。けれどその場に存在しない夫なんて幽霊のようなもの、ドラマの設定としてはいないも同然。これは裏を返せば、言い寄る男を無碍に振りつづけるカルメンのような女ではないか?しかしながら、カルメンと決定的に違うのは、彼女自身が燃え上がることは永遠にないということ。日本男児のマドンナは永久に枯れることのない穢れなき白百合(造花?)、他人の奥さん。美しくも鈍感で貞節を守り微動だにしない。つまりお人形さんだ。オナネタだ。しかも寸止め。
「母べえ」鑑賞のツボ。主人公に感情移入するよりも、周りの男性脇役になったつもりで鑑賞しましょう。そのほうがドラマチックでステキです。みんなそれぞれオレの生き方に徹していて、時代との軋轢の中で儚い命をまっとうしている。山ちゃんは主役級ですが、鶴瓶演じるところの藤岡のおっちゃんもなかなかいい。無教養で下品だけど自分の価値観を行動の根本に据えている大したおっちゃんです。母べえはどうか?母べえは母べえの生き方をまっとうしている。夫を信じ子を守るという生き方、愛という生き方、母としての生き方、それが彼女の全身全霊、全部丸ごと母、母純度百パーセント。マジかよ。たぶん母べえに自分を重ねる観客はとても少ないでしょう。自分のお母さんを思い出したりするのでしょう。いつの間にか現実の母親と母べえのイメージが入れ替わっちゃったりして、ちょっと怖いね。
「吉永小百合」というイメージがわたし達にはあります。言葉をつくして説明する必要のない共通の認識が、サユリストでなくともあるはず。それは女優吉永小百合のたゆまぬ努力、立派なお仕事のたまものです。しかしこれほどのプロフェッショナルを、このまま「吉永小百合」を演じるだけにしておいていいのか?コン・リーだって、メリル・ストリープだって、ケイト・ブランシェットだって、イ・ヨンエだって、どれほどの多様な役柄を血肉化してきたことか。このまま「吉永小百合」幻想をもてはやすだけでは、吉永小百合の宝の持ち腐れではないのか?日本映画の女性像、ちょっと貧困すぎやしませんか。