ミス、です。ミセスではなく。男性の敬称はミスターひとつですが、皆さんよくご存知のように、女性には未婚か既婚かをはっきりさせるため、二つの敬称が使われます。この映画は、今からおよそ百年余り前の英国の、ピーターラビットの作者として名高い、ビアトリクス・ポターの半生記。絵本作家のというよりはむしろ、自由に生きたい独身女性の自立物語という趣きでした。そう考えるとこの表題、短いけれど意外と多くを語っています。
映画全体はほのぼのテイスト。ビアトリクスの描く精緻でかわいらしい動物たち、イングランド有数の景勝地、湖水地方の美しい風景、そして幸せの思い出だけを残して儚くも逝ってしまう恋人。うーん、すべてが爽やか。その中に、ときどきフェミ的に「うむ」と頷ける台詞やエピソード。こ、これは、この監督はただ者ではないのでは!?しかし、前作は11年前の「ベイブ」、仔豚の話だ。ヒット作ですけど、その後11年間も映画を撮っていない。なんでどうして?「ベイブ」と「ミス・ポター」の共通点は、穏やかな農村暮らしと愉快な動物仲間たち。きっといい人なんだろう、ということで。
例えば、親友のミリー。ある意味、主人公より印象的。なにせあの「奇跡の海」のエミリー・ワトソン。目が、狂ってます。そしていつも髪が乱れてます。(アカデミー賞受賞の写真も同じように乱れてましたが、そういう髪質なんでしょうか)ミリーもまた裕福な家庭の子女でありながら独身主義で、男に交じってカードゲームをするくらいなんとも思わないような、恥じらいのない生意気な女です。ウエストを絞ったフレアースカートをはいてはいますが、上半身はブラウスではなくシャツにネクタイ。ミリーはビアトリクスに会ったとたんに、「覚悟はいいわね、わたしはあなたを好きになるわよ」と宣言します。「人生に一番必要なのは、夫でも子供でもなく、話のわかる友達。わたしはあなたに出会った」と言って、肩を並べて歩くビアトリクスの腕をとります。ああ、このレズビアニティあふれる女はいったいどんな人生を送ったのでしょうか。
それから例えば、お嬢様から片時も目を離さないお付きの老婦人ミス・ウィギン。かなり年配です。彼女はいったい何者でしょうか?当時、良家の女子は学校へは行かず家庭の中で、ガヴァネスと呼ばれる住み込みの女家庭教師に養育されたそうですが、ミス・ウィギンはガヴァネスなのか?お嬢様が三十路過ぎても結婚しないので、引退できずにこんなに年老いてしまった、とかいうことですか?ガヴァネスは未婚女性がレディとしての体面を保てる唯一の職業だったそうです。しかし給料はメイド職と変わらず、男性家庭教師の10分の1だったとか。もしミリーやビアトリクスの家が経済的に困窮していたら、彼女らはガヴァネスとなり、他人の家に住み込み、出過ぎないように、憎まれないように気を使い、他に仕事仲間もなく、肩身の狭い思いをし、誰からも将来を期待されず、主人の無体な要求から身を守る必要もあったかも。これはもう名実ともに負け犬全開。一度間違って「ミセス・ウィギン」と呼ばれ、語気強く「ミス!」と言い返したとき、彼女の内心はいったいどんなだったのでしょうか。
また或いは、母親のヘレン。女はみんな結婚するものと、ビアトリクスの生き方ことごとくにブレーキをかける存在です。ヘレンの生き方は典型的なアッパークラスの奥様そのもの。ヨーロッパの母と呼ばれた子だくさんのヴィクトリア女王の影響でしょうか、奥様というものに求められるのは、ただ子供を産むことだけだったとか。家事や子供の世話はメイドが行い、養育はガヴァネスが担当。奥様にはすることが何もない。日々の退屈にどう耐えるか、それが奥様の生きる道だったらしい。パーティドレスに身を包み、首から肩から耳からどっさり真珠を下げた奥様たちの姿には圧倒されます。対照的に未婚女性は一つのアクセサリーも身につけていない。つまり、妻たちは丸ごと夫の所有物で、夫の財産の展示場で、夫の動くアクセサリーなのだということでしょう。
ピーターラビットの初版が上梓された1902年の翌年、婦人参政権を求めて「女性社会政治同盟」が結成されました。ハンガーストライキ、街頭デモ、リーダーの逮捕、裁判、メンバーの一人がレース中、王室の競走馬に身投げして殉死などなど、テロまがいの行為もあった過激な運動組織だったそうです。映画の中ではまったく語られないけれど、実際のビアトリクスの妥協のない生き方には、こうした時代背景も影響を与えただろうと思うのです。彼女は、地衣類や菌類の研究をしたり、絶滅寸前の羊の原種を繁殖させたりと、称号も肩書きも持たないけれど、実践的な生物学者でした。著作権事業を整えた最初の作家であり、ナショナルトラスト運動の先駆者でもありました。あの窮屈な時代によくぞそこまで、と思うけれど、彼女には才能と意思の強さの両方があったのだろうけれど、何よりも、彼女が彼女であったのは、自分の幸福には何が必要なのかよくよく考え、いつもまっすぐ選んできたということの結果でしょうと思います。
「わたしもこれからがんばろーっと!」励まされ、素直な気持ちで、明るい明日のためにその夜は安眠。そんな気分にさせられる後味の良い一本でした。オススメです。
「ミス・ポター」
2006年 アメリカ、イギリス
監督 クリス・ヌーナン
出演
ビアトリクス・ポター レネー・ゼルウィガー
ノーマン・ウォーン ユアン・マクレガー
ミリー・ウォーン エミリー・ワトソン