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    <title>映画乱爛　高橋フミコ</title>
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    <updated>2009-06-23T10:24:33Z</updated>
    <subtitle>高橋フミコが実際に見て感じた映画についてのコラム</subtitle>
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    <title>最終回　「バーン・アフター・リーディング」</title>
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    <published>2009-05-22T16:36:16Z</published>
    <updated>2009-06-23T10:24:33Z</updated>

    <summary> 冒頭、衛星から見下ろす地表という映像で幕開け。これはいわゆる神の視線。あれよあ...</summary>
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        <name>minori</name>
        
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        <![CDATA[<p><br />
冒頭、衛星から見下ろす地表という映像で幕開け。これはいわゆる神の視線。あれよあれよと地面が近づき、ガクンと観客の視線の降り立つところはアメリカ中央情報局、CIAの廊下を闊歩する一人の男の靴底です。実はこの男「闊歩」できるのも今のうち、向かう先に待ち受けるのは、降格を言い渡そうと手はずを整える上司です。始めに「何か変だなこの映画」と思わせられたのは、この男が痛いところを突かれ追いつめられて取った行動。やおら立ち上がり両手を翼のように水平に広げて、何度もビンビン突き出しながら、上司を職場をCIAを汚い言葉でののしります。その格好は壁に飾った、低空飛行するステルス戦闘機の写真にそっくり。アメリカの威信を示す有名な写真、ホワイトハウスと最新鋭戦闘機。うっすらと可笑しい。でも、まだちょっと笑っていいものかどうか、世界情勢をわきまえて人類の行く末を心配しているというような、わたしの分別が邪魔をします。</p>

<p>そして、この男がつまりは逆切れして、自ら退職してしまったあと、昼日中からすることもなく、上質なシルクのガウンをはだけ長椅子に横たわる何とも惚けた姿を、真上からじっくりと眺める場面で、わたしの分別の呪縛はすーっと消えていきました。こんなにも脱力する空っぽな男、何も見ていない視線。凄い、凄く可笑しい！</p>

<p>しかしその可笑しさは一朝一夕に作られたものではありません。演じる俳優の、ジョン・マルコビッチの、老齢にさしかかった肉体そのものの可笑しさです。若い人が全身の力を抜いて横たわっていたとしたら、そこには何かまだ希望のようなもの、苦悩のようなもの、美しさのようなものが残ってしまうのじゃないかと想像します。この男はここまで生きてきて、上等な酒とガウンを手に入れて、いったい何を学んだのでしょう。本当は惚けている訳ではなく、暇に任せて自伝を書こうと沈思黙考する姿なんですが、自分自身などというものはもう何にも残っていないのだと、本人は気付かない。ちょっとドキッとさせられます。</p>

<p>監督はそれぞれのキャラクターを、演じる俳優をイメージして創っていったそうですが、それが間違いなくこの映画のキモであるとわたしは思います。彼らが築き上げてきたハリウッドのイキガミとしてのキャリアそのものが、なくてはならないファクターとして、それぞれのキャラクターの可笑しさや哀しさに深みをもたらしています。昔ならかつてのマリリン・モンローと同じように、セックス・シンボルと呼ばれたであろう二人、ブラッド・ピットとジョージ・クルーニー。見たこともないような可笑しさです。でもきっと、本人よりも本人らしいのではないかという気さえしてきます。人を脅す気で、「わたしは良きサマリア人である」と言うときの細めたブラピの目つき、「お前はいったい何者なんだ！」と叫んだときの、クルーニーの恐怖に歪んだ表情。すべてが可笑しい、可笑しいという以外言葉がないほどに、可笑しい。</p>

<p>さらに、この不思議なストーリーはいったい何なのでしょう。この映画は何を語っているのでしょうか。ミステリーであり、コメディであり、メロドラマであり、ノワールであり、そして同時にそのいずれでもない。シリアスなのか、おふざけなのか、リアルなのかシュールなのかも、解釈の分かれるところでしょう。人間の頭の中は妄想でいっぱいで、それがどんどん垂れ流れてくる。人生を変えたいから？自分に飽きたから？残り時間が少ないことを感じてジタバタしているだけ？しかし実際最もヤバいのは、妄想そのものではなく、大人を充分続けてきて、それなりに物事を遂行していく実力を身につけちゃってることじゃないでしょうか。そこらのヒヨッコとは訳が違う。それだけにその壊れっぷりが恐ろしいのです。</p>

<p>理解し合い協力し合っていると、言葉はちゃんと通じていると思っていたことこそが、実は妄想だったのだなどと、その孤独に気が付いちゃった大人達。壊すか壊れるかしかないのかもしれません。逸脱した個人が勝手な判断で、そして切羽詰まって、実力を発揮した結果、ミョウチキリンこんがらかってゆく出来事。それをまとめて収めようとするのは、神をも恐れぬCIAです。しかしCIAも人間です。自分たちが何をしているのか、その本質を見抜くことはありません。事件の報告を受けたCIA幹部が、現場を直接仕切った部下に尋ねます。「それで何を学んだのかね」と。部下の返事は「わかりません」です。この映画にテーマがあるとすれば、このあたりに潜んでいるのかもしれません。</p>

<p>とりわけ、この映画がわたしにとって痛快だったのは、最後に粘りに粘ったマクドーマンド演じるリンダ・リツキの望みが叶ったことです。リンダの望みは全身整形手術のための資金の調達でした。彼女は高笑いしたでしょうか？まるで親友みたいだった職場の同僚と、密かに自分を愛していた男性を失ってまで手に入れた大金です。もちろんリンダは失踪した隣人の身を案ずるでしょう。でもきっと、喜々として手術を受けるに違いありません。そしてちょっときれいになった彼女の、タフで楽しい人生はまだしばらくは続いていく、わたしはそう妄想するのです。</p>

<p>「バーン・アフター・リーディング」<br />
2008年アメリカ映画<br />
監督　コーエン兄弟<br />
出演　フランシス・マクドーマンド、ジョン・マルコビッチ、<br />
　　　ティルダ・スウィントン、ブラッド・ピット、<br />
　　　ジョージ・クルーニー、</p>

<p><br />
「映画乱爛」今回で最終回。長らくのご愛読ありがとうございました。わたしの日々を左右するわたしの妄想、そのことにシフトしてみたいと思います。もっと突っ込んでいきたいと思います。ではまた！再会！</p>]]>
        
    </content>
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    <title>「潜水服は蝶の夢を見る」</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.lovepiececlub.com/eigaranran/2009/05/post-39.html" />
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    <published>2009-05-01T11:15:03Z</published>
    <updated>2009-06-23T10:24:33Z</updated>

    <summary> 左目ひとつで生きている、体験者でなければとても言い表せないようなその世界観を、...</summary>
    <author>
        <name>minori</name>
        
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        <![CDATA[<p><br />
左目ひとつで生きている、体験者でなければとても言い表せないようなその世界観を、ジュリアン・シュナーベルは果敢にも、映像表現という限定世界において創り出そうとする、始めに引き込まれたのはそのことでした。不鮮明な映像、不安定に揺れ動くカメラワーク、バランスを欠いた構図、そして突然遮られる時間の流れ。観るものに示される映像は始めから、いつものようではありません。小説で言えば一人称の世界。主人公の見ている視界をまるで瞼の内側から撮影したかのように映し出します。その映像は見るということにおいて何とももどかしく、感じるということにおいては何とも美しい、これまでに観たこともないようなものでした。それは原作者自らが名付けたように、まるで潜水服の中に閉じ込められたまま海底をひとり漂っているかのよう。意識がはっきりしているにも関わらず、ほんの一部を除いて全身が麻痺している状態をロックトイン・シンドロームと呼ぶそうです。彼の場合は左目ひとつ、それが彼のすべて。それは世界を見つめる視線であり、本来の自由を許された幸いなる肉体であり、言葉を発する装置であり、涙を流す心の湖面でありました。</p>

<p>監督のジュリアン・シュナーベルは1980年代、現代絵画の寵児でした。大きなキャンバスに大皿の割れたのを山ほど貼りつけ、その上にがんがん筆を運んでいました。なんで皿なのか？　わたしには解りませんでしたが、その勢いと言い、質感の危うさと言い、これぞ世紀末というようなもの哀しい感じや終わった感じや描くことへの半ば自動的な衝動みたいなものや、そんなものをわたしは観ていたように思います。その後新世紀直前、今度は彼は映画を創り始めます。これまでに撮った映画は3本。若くしてあっという間にアートシーンを駆け抜けて逝ってしまったニューヨークの画家の半生を描いた「バスキア」。ゲイであるためにキューバから亡命せざるを得なかった作家レイナルド・アレスの自伝を映画化した「夜になる前に」。そしてこの「潜水服は蝶の夢を見る」は、ファッション誌ELLEの編集長であったジャン＝ドミニク・ボビーが突然の病に倒れ、身体の自由を失いながらも、まばたきによる伝達で書き上げたエッセイを元にしています。どれもこれも人生のきらめきと背中合わせの裏腹な死の匂い、生きることのもどかしさやはかなさや。なんだかやっぱり、割れた皿が気になります。</p>

<p>3本とも好きな映画ですが、「潜水服は蝶の夢を見る」の映像がもっとも印象的です。にじんだ場面、揺れ動く人物、執拗な人の顔のアップ、ぶれて重なる事物や、それと対照的に鮮やかな風に舞う女の髪の一本一本、ざわめく草木の一本一本。切り取られた風景の広さ明るさ。監督は主人公の左目という存在に深く思い馳せたに違いなく、だからこそ世界を観る生き物であるところの画家の魂が格別に発揮されたのでしょうと思います。中でも繰り返しわたしの脳裏に再現される気になる映像があって、それは氷河の先端の崩落を撮影したもので、美しいピアノ曲が静かに流れ、主人公の独白が重なる短いシーン。「僕の人生はまるで失敗の連続だったように思う」と。映画の最後、エンディングロールに再びこの氷河の映像が使われています。ただし今度は逆回しで。巨大な氷の固まりが崩れ落ち、海面に叩き付けられ水しぶきを上げる、それが反対に海面から上へと持ち上がり、滝の流れのような氷河の崩落は上へ上へとさかのぼり続ける。見ているとだんだん不思議な感覚におそわれてきます。時の流れという概念自体がまったくのマボロシであるかのような、なにかから置いてけぼりにされたような、不安な気持ちです。前によく似た気持ちになった映画ありました。そうあれはバランスを失った世界、文明崩壊の黙示禄的映像詩などと言われている「コヤニスカッティ」。そしてわたしの思考はふらふらとまたシュナーベルの割れた皿へと行き着きます。破壊された表面、その瞬間、爆発する風景、流れ落ちる時間、画面に固定された皿の破片、逆行する動き、戻れない場所、二度と蘇らない記憶、孤立、一瞬、肉体、人生、まばたき、そして彼の左目、皿のように見開かれた彼のすべて。</p>

<p>「潜水服は蝶の夢を見る」はわたしにとって映像詩といっていい作品です。とても好きです。ただ、プロモーションのおかげで内容を勘違いし、ロードショウに行かずに今頃DVDで鑑賞したことが悔やまれます。宣伝されていたのはいわゆる「男らしい余命宣告映画」的なしろものでした。有名雑誌の編集長、家族愛人高級車、名声自由体力知力、すべてを所有し華麗なる人生真っ盛り、それなのに突然の悲劇、そして奇跡、という内容に思えました。わたしは不遜にも「またかよ」と考え、一顧だにしませんでした。確かにストーリーだけかいつまんでしまえばそういうことになるかもしれません。心に響く映画を正しく選ぶのは至難の技です。そんなことあんなことに文句を言わず端からばんばん観ていくしかないのかもしれません。と言っても時間には限りがありますから、人と同じで、出会いってことになるのでしょう。この映画に出会えてまずは良かった。</p>

<p><em><strong>「潜水服は蝶の夢を見る」<br />
2007年フランス映画<br />
原作：ジャン＝ドミニク・ボビー<br />
監督：ジュリアン・シュナーベル</strong></em><br />
撮影：ヤヌス・カミンスキー</p>]]>
        
    </content>
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    <title>「チェンジリング」</title>
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    <published>2009-03-20T07:24:43Z</published>
    <updated>2009-06-23T10:24:33Z</updated>

    <summary> 以下、パンフレットからの抜粋。 インタビュアー：あなたの作品は重く暗いテーマを...</summary>
    <author>
        <name>minori</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.lovepiececlub.com/eigaranran/">
        <![CDATA[<!--StartFragment-->

<p class="MsoNormal"><span class="Apple-style-span" style="font-family: 'ＭＳ 明朝'; ">以下、パンフレットからの抜粋。</span></p>

<p class="MsoNormal"><span style="font-family:&quot;ＭＳ 明朝&quot;"><span class="Apple-style-span" style="font-style: italic;">インタビュアー：あなたの作品は重く暗いテーマを持つものがほとんどです。今回もまさにそうですね。</span></span></p>

<p class="MsoNormal"><span style="font-family:&quot;ＭＳ 明朝&quot;"><span class="Apple-style-span" style="font-style: italic;">クリント・イーストウッド：もっと簡単で気楽な映画を作れば、確かにわたしの人生はもっと楽になるのかもしれないね（笑）。でも、私が興味を持つのは、中身がぎっしりつまった、ダークな話なんだよ。いいドラマが成り立つためには葛藤が必要。それは自分の中での葛藤かもしれないし、他人との葛藤かもしれない。また、感情的な葛藤であったり、肉体的な葛藤であったりする。そこから人々の関心をそそるものが生まれる。</span></span></p>

<p class="MsoNormal"><span style="font-family:&quot;ＭＳ 明朝&quot;">「ぎっしりつまったダークな話」まったくその通り。あまりにもダークでヘビーで、どうしてこれが一本の映画として成り立っているのか解らなくなってしまいました。何がわたしを惑わせたのでしょう。例えば、「息子を捜して」と通報する母親に「明日まで捜しません」と言い放つ警察。それは欺瞞ですか？　怠慢ですか？　それとも職務に忠実なだけですか？　この一言で、アイヒマンのそれを思い起こしました。また例えば、精神病院の電気ショック療法。つい最近まで行われていた、患者に苦痛を与えるだけのでたらめな療法です。弱者や異端者というものをどう扱ってきたかという、わたしたちの暗い歴史を思い起こさせます。もちろんこのストーリーのキモを見逃してしまったわけではありません。母親の身に起きた悲劇、警察の腐敗、権力の乱用、殺人鬼に囚われた少年たちのその最期、殺人を手伝わされていた少年の内心、口封じのために精神病院に軟禁されていた女性たち。それに、ラフレシアそっくりのアンジーのくちびる、泣くたび真っ黒に流れ落ちるアンジーのアイメイク、肩から鎖骨の飛び出るほどに精悍な、鍛え上げられたアンジーの「美」というもの。そして最大の謎、嘘つき少年の不屈の精神力。すべてが充分すぎます。いっぱいいっぱいです。</span></p>

<p class="MsoNormal"><span style="font-family:&quot;ＭＳ 明朝&quot;">最もわたしがハマったダークネスとは、人生最後の階段を踏みしめる死刑囚と、その姿をじっと見つめる立ち会いの人々。ここがクライマックスなのか？　と思ったほど繊細で力のこもったシーンです。</span><span lang="EN-US">13</span><span style="font-family:&quot;ＭＳ 明朝&quot;">段の階段をゆっくり上がる一歩一歩を丁寧に追っています。死刑囚は叫びます「祈ってくれ！　俺のために祈ってくれ！」誰一人賛同の意を表さないことを知ると、死刑囚は自ら賛美歌を歌いだします。そしてそのまま、ガタン。いったい何のためにこれほどこのシーンは印象的なのでしょう？　憎むべき殺人者に正義の懲罰を与えていらっしゃるのですか？　それとも、人と生まれてきたものを人は人の手によって孤独の果てに追いやり、そして殺害するのだという人間社会の空しさから目を逸らすなという教えでしょうか？　それとも、わたし自身の中にある残酷さを見つけよというミッションでしょうか？　この映画、何に感動し何を考えるべきなのでしたっけ！？</span></p>

<p class="MsoNormal"><span style="font-family:&quot;ＭＳ 明朝&quot;">「それは求める人の強さです。真実を求める強さが社会の腐敗を暴き告発し、人々を正義の実行へ踏み込ませる原動力となった。か弱き女性と言えども、諦めてはいけない、時として弱さは最大の強さに転じるのであります」ということをクリント爺さんは言いたかったのでしょうか？　そうであるなら死刑のシーンは正義の姿であり、そこでの複雑な感情はすなわち社会人として乗り越えるべきものとして提示されるわけです。ふー、そうなの？</span></p>

<p class="MsoNormal"><span style="font-family:&quot;ＭＳ 明朝&quot;">ストーリーは脚色されたり省略されたりしていますが、ほぼ史実に沿っているそうです。その中で、ぎっしり詰まったダークネスから、そっと外されていた者があります。ぎっしり詰まった</span><span lang="EN-US">11</span><span style="font-family:&quot;ＭＳ 明朝&quot;">人乗りのエレベーターに乗れなかった</span><span lang="EN-US">12</span><span style="font-family:&quot;ＭＳ 明朝&quot;">人目の人物とは、それはもう一人の母親です。この物語は二つの大事件で紡がれています。一つは警察が母親に別人を押しつけたウォルター・コリンズ失踪事件、もう一つは</span><span lang="EN-US">20</span><span style="font-family:&quot;ＭＳ 明朝&quot;">人とも言われる少年を連続監禁殺害したノースコット事件。前者の母がアンジー演ずるところの主人公でした。実際は後者の事件の中にも母はいたのです。殺人者の母、そして共犯者。母の勇気を讃える物語の中から抹殺された邪悪なる母。この映画はこの人物をダークなあまり目に見えない、まるでブラックホールのような存在にしてしまいました。イーストウッド監督の作品からは、弱者の視点に立とうとしているふうが読み取れもします。そのことが彼のメッセージを複雑にしているのでしょう。死刑のシーンを克明に描くことに、人間社会の成り立ちを鋭く問うというような意気込みを感じもします。しかし片や、語るべきものと語らざるべきものとの選択が、いかにも映画人だなと思わないでもありません。イーストウッド監督の言う「ぎっしり詰まった葛藤」が、映画「ダイハード」にぎっしり詰まった次々と襲ってくる危機に、何だか似ているような気がしてきました。</span></p>

<p class="MsoNormal"><span lang="EN-US">&#160;<span class="Apple-style-span" style="font-family: 'ＭＳ 明朝'; "><span class="Apple-style-span" style="font-style: italic;"><span class="Apple-style-span" style="font-weight: bold;">「チェンジリング」</span></span></span></span></p>

<p class="MsoNormal"><span lang="EN-US"><span class="Apple-style-span" style="font-style: italic;">2008</span></span><span style="font-family:&quot;ＭＳ 明朝&quot;"><span class="Apple-style-span" style="font-style: italic;">年アメリカ映画</span></span></p>

<p class="MsoNormal"><span style="font-family:&quot;ＭＳ 明朝&quot;"><span class="Apple-style-span" style="font-style: italic;">クリント・イーストウッド監督</span></span></p>

<p class="MsoNormal"><span style="font-family:&quot;ＭＳ 明朝&quot;"><span class="Apple-style-span" style="font-style: italic;">アンジェリーナ・ジョリー主演</span></span></p>

<p class="MsoNormal"><span style="font-family:&quot;ＭＳ 明朝&quot;"><span class="Apple-style-span" style="font-style: italic;">ジョン・マルコビッチ共演</span></span></p>

<p class="MsoNormal"><span lang="EN-US">&#160;<o:p></o:p></span></p>

<p class="MsoNormal"><span lang="EN-US">&#160;<o:p></o:p></span></p>

<p class="MsoNormal"><span lang="EN-US">&#160;<o:p></o:p></span></p>

<p class="MsoNormal"><span lang="EN-US">&#160;<o:p></o:p></span></p>

<p class="MsoNormal"><span lang="EN-US">&#160;&#160;</span></p>

<!--EndFragment-->]]>
        
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    <title>「キャラメル」</title>
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    <published>2009-03-06T12:51:06Z</published>
    <updated>2009-06-23T10:24:33Z</updated>

    <summary> 内戦について一言も語らなかった初めてのレバノン映画だそうです。 それでもやはり...</summary>
    <author>
        <name>minori</name>
        
    </author>
    
    
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        <![CDATA[<p><br />
内戦について一言も語らなかった初めてのレバノン映画だそうです。</p>

<p>それでもやはり門外漢としては内戦の話から。監督のナディーン・ラバキーさんが生まれたのは1974年。その後15年間断続的に続くことになるレバノン内戦の始まるたった１年前です。彼女の生活環境はずっと、爆弾と銃撃と誘拐と、行方不明や音信不通やけが人や死体や、物不足や停電や瓦礫などというものと隣り合わせであったはずです。わたしが学生の頃、その頃はまだ写真中心の週刊誌が新鮮だった時代ですが、わたしにとって忘れられない一枚の報道写真、それは内戦の街ベイルートの光景でした。</p>

<p>その写真の被写体はたった一人。画面いっぱいに灰色の瓦礫の山、その中にぽつんと、瓦礫を踏み越えていく花嫁姿。ハイヒールを履いていたのか手に持っていたのか、もうわたしの記憶からは抜け落ちてしまいましたが、「歩きにくそうだな」と思ったことは確か。夢のようなドレスの白さとその思いもよらぬ豪華さがわたしの胸を打ちました。瓦礫に行く手を阻まれようと、女は着飾って結婚式に臨むのです。明日新居が爆撃で潰されようと、今日は結婚式を挙げるのです。それはきっとベイルートという街のもともと持っているはずの、陽気でおしゃれな雰囲気を語ってもいたのでしょう。写真の中のその人の、日常とか生活とかに対する逞しさに驚き感動したことを、わたしは生涯繰り返し思い出すことでしょう。そして続けて思い出すのは、この映画「キャラメル」であることでしょう。</p>

<p>舞台は街の小さな美容サロン。オーナーとスタッフ、お客と近所を取り巻く人々。「キャラメル」というのはレモン汁と砂糖水を煮詰めて作ったアメのことです。まだちょっと熱いうちにそれを捏ねて延ばして皮膚に押し付け、ビリッとはがす。昔ながらのむだ毛処理法だそうです。痛そうです。しかしきっとサロンにはおいしそうな甘い匂いが立ちこめていることでしょう。そんな気楽でアットホームな、女の人が安心して素足を投げ出したり、むだ毛を点検したり、シャンプーしてもらったりしている場所。髪の手入れをし、おしゃべりをして、リラックスし、悩みを打ち明けたり励ましたり、小さな恋を育んだりも。その中で進んでいく物語は、女を取り巻くものへの反発や、折り合いをつけていく過程や失敗や、その人の中の矛盾との葛藤や。</p>

<p>年齢も個性もさまざまな登場人物を見守るうちに、女の一生をうまく振り分けて描いていることに気が付きます。特に個人的には、加齢恐怖症とも言うべき女優志望の中年女ジャマルが可笑しくて。ジャマルは閉経したことを隠そうとして、赤いインクで汚したナプキンをトイレに捨てていくことさえします。いわゆる痛い女です。それでも彼女はある種おおらかでセクシーで、観ている側も安心して笑ってしまう。</p>

<p>主人公のラヤール、サロンのオーナーは恋の虜で仕事に身が入りません。相手は結婚していて、ラヤールの願いもむなしく、本気でないことがだんだんはっきりしてきます。そこでもかしこでも男女関係の力の不均衡や、伝統的な女性の役割がどんなに彼女たちを閉じ込めているのか、じわりと身に沁みてきます。</p>

<p>ご近所の老婦人姉妹、妹のローズは仕立ての仕事で生計を立て、認知症らしき姉の面倒をみています。二人ともずっとシングルで生きてきた女性のようです。すてきな老紳士からデートに誘われたローズはサロンに髪を染めにいきます。スタッフは喜んで迎え、バラに因んだのでしょうか心持ち派手すぎるけれども華やいだ髪で彼女は上機嫌。にもかかわらず結局デートには行かず、いつも通り姉リリーと二人、質素な食卓を囲んでいます。年老いた女性としてのあるべき分別が彼女を思いとどませてしまうのでしょうか。ローズもまた抑圧された女性なのでしょうか。もったいないような悲しいような気がしてきます。それでも彼女は毅然として見えます。年齢なりの美しさが観ている者をはっとさせます。この映画全体がそうなのです。不利な状況だけど、わたしはちゃんと頭を上げて前を見ていると、一人一人が物語っている。</p>

<p>他の登場人物たちにもたくさんのエピソードがあり、皆の葛藤や喜びを抱えつつ、結婚式などもあり、サロンの平和な日常は過ぎていく訳ですが、印象に残る最後のシーンは、リリーの路上を彷徨う姿。いつものように彼女は紙を集めています。駐禁の張り紙でもただの紙くずでもなんでも。彼女の探しているものはどうやら手紙のようです。それで、この映画のキーパーソンが実はリリーであったということが察せられます。彼女はずっと長い間、誰からの手紙を待っているのでしょうか。</p>

<p>この映画は、現代のレバノン女性について語りながら、失われた過去を忘れてはいません。リリーの過去を語らないことで、映画を観た者の脳裏に彼女の思いを浮かび上がらせることをしています。もうそろそろ新しいものを創りたかった、未来を語りたかったと監督は言います。新しい髪型にはにかむ女性や、口ひげをそり落とした警察官の若者に新しい未来を投影しながら、リリーとローズを寄り添わせるのは、監督の優しさでしょうか、それとも悲しみや悔しさからなのでしょうか。</p>

<p><strong>「キャラメル」</strong><br />
2007年　レバノン＝フランス<br />
監督・脚本・主演／ナディーン・ラバキー</p>]]>
        
    </content>
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    <title>「ベンジャミン・バトンー数奇な人生ー」</title>
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    <published>2009-02-20T17:39:42Z</published>
    <updated>2009-06-23T10:24:33Z</updated>

    <summary> フィッツジェラルドの同名の短編をラブロマンス風味にアレンジしたのが本作。3時間...</summary>
    <author>
        <name>minori</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.lovepiececlub.com/eigaranran/">
        <![CDATA[<p><br />
フィッツジェラルドの同名の短編をラブロマンス風味にアレンジしたのが本作。3時間近い長編映画です。人の一生を、生まれ落ちた瞬間から、二度と開かぬ目を静かに閉じるまで、ずっと抜かりなく追っていく訳ですから、３時間くらいかかっても当然かもしれません。が、ちぃと疲れました。それは上映時間が長いというだけでなく、主人公のベンジャミンが数奇な生まれつきにもかかわらず、終わってみれば、何事もなかったかのように長寿をまっとうし、結果的に言えば、誰でもがしているようにただ生まれて死んでいったということの予定調和を、この物語を観ている自分自身の顛末をも含め、確認してしまった、ということの「疲れ」みたいなものかもしれません。</p>

<p>ベンジャミンは生まれたときはお爺さんでした。歳とともにだんだん若返り、80年生き抜いて、最期は赤ちゃんの姿でこの世を去ります。生まれたときは目も見えず足腰も立たずってこれは普通です。何が数奇だったのか、しわくちゃだった。これも通常のような気もしますが、常ならずしわくちゃだった、見るに堪えないほどに。父親は我が子を一目見た途端、捨てることを即決。そこからベンジャミンの流転人生が始まるのでした。彼はいつでも孤独と向かい合わせ。同じ年頃の友人を持たず、内面よりも外見で判断され、人と歩みを異にし、長年ひと所に留まることもできない。アウトサイダーです。それでなおさら人生最高の恋愛が盛り上がります。二つの放物曲線が頂点で出会って、また遠ざかっていくまでのほんのひと時、大変貴重な、唯一無二の時間です。けれど、この映画を観終わってしばらくして、心に何が残るのかと言えば、それはどういう訳か素晴らしい恋愛ではなく、生まれて死ぬということと、そのことの本質つまり「老いる」ということなのでありました。そしてこの映画のよいところは、それが「老いる」ことの肯定とか賛美とかではなく、率直に「悲しみ」であり単に「受け入れ」であることではないかと、わたしは思いましたのです。人生の美しい時は短いのです。♪いのーちみぃじかーし恋せよぉおとめー♪ですな。</p>

<p>ベンジャミンとデイジー、とてもとても幸せだったのに、二人は別れます。デイジーは老いていくのに、ベンジャミンは若返っていくからです。美男美女のベスト・カップルだった二人は、やがて釣り合いの取れない、何だか解らない二人になってしまうからです。デイジーは若い恋人の前で老醜を晒すだろうことを思い絶望し、ベンジャミンは力の弱い頼りにならない父親になることを避けて立ち去って行きます。突き詰めれば、美貌の女と強い父親、これだけはどうしても、ハリウッド的には、何が何でも譲れない一線である、ということなのでしょうか？これではわたしを説得することはできない、なんちって偉そうですみませんが、しかしどうやら、「疲れ」の原因はこのあたりにもありそうです。原作では、子供になってしまった父親に大学生くらいの息子が「人前でボクを呼び捨てにするのは不自然なので止めなさい」などと説教をする場面や、内面的には老人である主人公が、積んできた経験を活かして人付き合いの上手となり、かえって子供世界で楽しく暮らしているということが書かれています。こっちの方が好きだな、と思います。</p>

<p>しかし恋愛ということに的をしぼってみると、自分が若くてぴちぴちなのに、垂れた尻やしわしわの首筋を愛せるだろうかとか、いったいこの子供といつまでセックスしていいものだろうかとか、いろいろな悩みが生まれて来ることでしょう。子供になったからと言って、我妻とセックスする大人の男に嫉妬しないでいるはずはありませんし、婆さんになったのならなおさら、夫の若い浮気相手に身悶えするような憎しみを覚えることでありましょう。やはりいっしょに歳をとっていくという免罪符があってこそ長年連れ添えるというものなのかもしれません。小さいお爺さんから壮年、中年、青年、10代の若者と変身していくブラッド・ピットは相当見物です。CGや特殊メイクを駆使しているとは言え、いったいどうなっちゃってるの！？実年齢のブラット・ピットはどれだっけ！？って解らなくなってしまうくらいです。しかも俳優は「老人の悲しみを知っている」と若者の瞳に語らせることができるのです。つくづく映画は魔物です。</p>

<p>ところで身近にもいました、ベンジャミン・バトン。実家に帰り年老いた父親に対面するたび、父親の言動が子供化していくのを目の当たりにし、驚いていましたが、次からは素直に受け入れられるような気がします。</p>

<p><strong>「ベンジャミン・バトンー数奇な人生ー」</strong><br />
2008年　アメリカ<br />
監督　デビット・フィンチャー<br />
ベンジャミン・バトン：ブラッド・ピット<br />
デイジー：ケイト・ブランシェット</p>]]>
        
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    <title>「ベンジャミン・バトンー数奇な人生ー」</title>
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    <published>2009-02-20T17:39:42Z</published>
    <updated>2009-06-23T10:24:33Z</updated>

    <summary> フィッツジェラルドの同名の短編をラブロマンス風味にアレンジしたのが本作。3時間...</summary>
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        <![CDATA[<p><br />
フィッツジェラルドの同名の短編をラブロマンス風味にアレンジしたのが本作。3時間近い長編映画です。人の一生を、生まれ落ちた瞬間から、二度と開かぬ目を静かに閉じるまで、ずっと抜かりなく追っていく訳ですから、３時間くらいかかっても当然かもしれません。が、ちぃと疲れました。それは上映時間が長いというだけでなく、主人公のベンジャミンが数奇な生まれつきにもかかわらず、終わってみれば、何事もなかったかのように長寿をまっとうし、結果的に言えば、誰でもがしているようにただ生まれて死んでいったということの予定調和を、この物語を観ている自分自身の顛末をも含め、確認してしまった、ということの「疲れ」みたいなものかもしれません。</p>

<p>ベンジャミンは生まれたときはお爺さんでした。歳とともにだんだん若返り、80年生き抜いて、最期は赤ちゃんの姿でこの世を去ります。生まれたときは目も見えず足腰も立たずってこれは普通です。何が数奇だったのか、しわくちゃだった。これも通常のような気もしますが、常ならずしわくちゃだった、見るに堪えないほどに。父親は我が子を一目見た途端、捨てることを即決。そこからベンジャミンの流転人生が始まるのでした。彼はいつでも孤独と向かい合わせ。同じ年頃の友人を持たず、内面よりも外見で判断され、人と歩みを異にし、長年ひと所に留まることもできない。アウトサイダーです。それでなおさら人生最高の恋愛が盛り上がります。二つの放物曲線が頂点で出会って、また遠ざかっていくまでのほんのひと時、大変貴重な、唯一無二の時間です。けれど、この映画を観終わってしばらくして、心に何が残るのかと言えば、それはどういう訳か素晴らしい恋愛ではなく、生まれて死ぬということと、そのことの本質つまり「老いる」ということなのでありました。そしてこの映画のよいところは、それが「老いる」ことの肯定とか賛美とかではなく、率直に「悲しみ」であり単に「受け入れ」であることではないかと、わたしは思いましたのです。人生の美しい時は短いのです。♪いのーちみぃじかーし恋せよぉおとめー♪ですな。</p>

<p>ベンジャミンとデイジー、とてもとても幸せだったのに、二人は別れます。デイジーは老いていくのに、ベンジャミンは若返っていくからです。美男美女のベスト・カップルだった二人は、やがて釣り合いの取れない、何だか解らない二人になってしまうからです。デイジーは若い恋人の前で老醜を晒すだろうことを思い絶望し、ベンジャミンは力の弱い頼りにならない父親になることを避けて立ち去って行きます。突き詰めれば、美貌の女と強い父親、これだけはどうしても、ハリウッド的には、何が何でも譲れない一線である、ということなのでしょうか？これではわたしを説得することはできない、なんちって偉そうですみませんが、しかしどうやら、「疲れ」の原因はこのあたりにもありそうです。原作では、子供になってしまった父親に大学生くらいの息子が「人前でボクを呼び捨てにするのは不自然なので止めなさい」などと説教をする場面や、内面的には老人である主人公が、積んできた経験を活かして人付き合いの上手となり、かえって子供世界で楽しく暮らしているということが書かれています。こっちの方が好きだな、と思います。</p>

<p>しかし恋愛ということに的をしぼってみると、自分が若くてぴちぴちなのに、垂れた尻やしわしわの首筋を愛せるだろうかとか、いったいこの子供といつまでセックスしていいものだろうかとか、いろいろな悩みが生まれて来ることでしょう。子供になったからと言って、我妻とセックスする大人の男に嫉妬しないでいるはずはありませんし、婆さんになったのならなおさら、夫の若い浮気相手に身悶えするような憎しみを覚えることでありましょう。やはりいっしょに歳をとっていくという免罪符があってこそ長年連れ添えるというものなのかもしれません。小さいお爺さんから壮年、中年、青年、10代の若者と変身していくブラッド・ピットは相当見物です。CGや特殊メイクを駆使しているとは言え、いったいどうなっちゃってるの！？実年齢のブラット・ピットはどれだっけ！？って解らなくなってしまうくらいです。しかも俳優は「老人の悲しみを知っている」と若者の瞳に語らせることができるのです。つくづく映画は魔物です。</p>

<p>ところで身近にもいました、ベンジャミン・バトン。実家に帰り年老いた父親に対面するたび、父親の言動が子供化していくのを目の当たりにし、驚いていましたが、次からは素直に受け入れられるような気がします。</p>

<p><strong>「ベンジャミン・バトンー数奇な人生ー」</strong><br />
2008年　アメリカ<br />
監督　デビット・フィンチャー<br />
ベンジャミン・バトン：ブラッド・ピット<br />
デイジー：ケイト・ブランシェット</p>]]>
        
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    <title>「マンマ・ミーア！」</title>
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    <published>2009-02-06T05:04:03Z</published>
    <updated>2009-06-23T10:24:33Z</updated>

    <summary> おやまあ、あれまあ、驚きました。メリル・ストリープ大暴れ。ダンス・ミュージカル...</summary>
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        <![CDATA[<p><br />
おやまあ、あれまあ、驚きました。メリル・ストリープ大暴れ。ダンス・ミュージカル映画なんですが、むしろアクション映画と言おうよ、くらいの激しい動き。メリル・ストリープ、大女優と呼ばれて久しく、御歳59才。わたしがその年齢になったとき、ベッドの上でトランポリン・ジャンプ、空中で大きく広げた両手両足を、体をくの字にして引き寄せることができるのか？急な岩場の階段を、100メートルの高さを、ハイヒールでてっぺんまで一気に駆け上がることができるのか？すごい人だなとは思っていました。でも、ここまですごいとは知りませんでした。この映画の見所はなんと言っても若くない出演者たちの熱唱と熱演。若い人もたくさん出ていて、やはり若さというものはそれだけでプリティです。ステキです。けれど、年配の人が歌って踊る姿もまた味わい深いものです。なんというか可笑しいのです。その「可笑しみ」がなんとも奥深くて、カッコいいのです。</p>

<p>｢マンマ・ミーア！｣は1999年にロンドンで初演されたミュージカルで、以来世界各地で大人気ロングラン。日本でも劇団四季が名古屋で上演しています。初演のときからの舞台監督が今回の映画監督。脚本や製作や音楽製作総指揮など主なスタッフは同じメンバーで、そのまま映画製作に関わっているそうです。たぶんそのせいかもしれません、映画を観るつもりでいくと、速すぎるテンポにちょっと置いていかれ気味。なぜ歌う、なぜ踊る、とか考えているうちに映画が終わってしまいます。なぜって、そりゃあミュージカルですからと、始めから決めてかからないといけません。どういう訳かミュージカルというジャンルにすっと入り込めないわたしです。</p>

<p>しかもABBAです。最初から仕舞いまですべての曲がABBAです。1980年代にまだ存在していなかった方たちのために説明しますが、アバと読みます（本当はBが一個裏返っています）。スウェーデンの男女4人のポップス・グループで、誰でも知ってる誰でも聴いたことがあるということにおいて、ビートルズ級あるいはモーツアルト級と言っても過言ではありません。しかも、一度聴いたら一日中頭の中でぐるぐるするという、まさにポップスの真髄。知らずにうっかり観に行ってしまったので、あれから二十数年やっと忘れていたのに、観てから三日経ちますが、油断すると気付かぬうちに口ずさんでいたりします。</p>

<p>物語は、筋書きとしては複雑な人間関係や心模様が展開しているはずなんですが、歌って踊っている間に、わたしなぞはもうどうでも良くなってくる。三人のうち本当の父親は誰か、そんなこたあどうでもいい、結婚するべきかどうか、まだ早いのかどうか、そんなこたあどうでもいい、などという具合に。ただ一つ、ヴァージンロードを父親と歩くことを夢見ていた娘が、母親にエスコートを頼むところで目からウロコ。そうだ母親がヴァージンロード歩いたっていいわけだ！今までシングル・マザーで育ててきたわけだし、母親が歩いてしかるべき。そもそもヴァージンロードって名前が、などと、そんなこたあどうでもいい。どうせ結婚式なんだから。いつもより思考が大雑把です。たぶんABBAのせいもあると思います。考えるより歌って踊ろう。</p>

<p>実は、監督もプロディーサーも脚本も全員が女性です。女性が創ったミュージカルであり映画です。そのことに触れぬわけにもいかず、パンフレットの中で「これは女性によって創られた女性が楽しむための映画でしょうか？」とインタビューされています。応えは「でも男性も楽しめる映画よ」というものです。ここはひとつ考えてみましょう。例えば「さくらん」では、監督、脚本、音楽、美術、すべて女性でした。そして観客もほとんどが女性。あれは女性がターゲットにされているという意味で、「女性が楽しむための映画」と言っていいと思います。方や「マンマ・ミーア！」の監督が「女性のため」ということを避け、「男性も楽しめる」と言っているのは、ターゲットはいろいろ、という意味でだけなのでしょうか？</p>

<p>これは、独力で苦労して自分の居場所、自分の生活、自分の家族を作り上げた女性とその娘の物語です。「女性のための」という枕詞を付けてしまうと、一人で全部引き受け苦労するのが理想の女性ということになってしまう気がします。更に、主人公は若くも美しくもなく、子持ちでおばさんです。臆面もなく派手な衣装を着て歌って踊ります。たぶん男性の作家からは創造されにくい主人公かもしれません。だからなおさら「女性のための」では肩身の狭い感じがします。舞台の初演からちょうど十年、｢マンマ・ミーア！｣は長期的な事業になりました。40才過ぎてオファーが減るのが従来の女優業なら、これから変えていけばいい。自分たちで新しい女性像を創っていけばいい。自分たちで仕事を増やしていけばいい。そして男目線で作り上げてきた女性像しか念頭にない人も、いつの間にかいっしょに楽しく歌って踊っているのなら、そうならそれが、面倒がなくていいと思います。</p>

<p><strong>｢マンマ・ミーア！｣</strong>　<br />
2008年　アメリカ　ミュージカル映画<br />
監督　フィリダ・ロイド<br />
脚本　キャサリン・ジョンソン<br />
製作　ジュディ・クレーマー<br />
音楽製作総指揮　ベニー・アンダーソン（ABBA）<br />
　　　　　　　　ビョルン・ウィルヴァース（ABBA）<br />
出演　メリル・ストリープ<br />
　　　アマンダ・セイフライド<br />
　　　ピアース・ブロスナン</p>]]>
        
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    <title>「プライド」</title>
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    <published>2009-01-24T04:07:03Z</published>
    <updated>2009-06-23T10:24:33Z</updated>

    <summary> またまたまた、マンガ原作の映画を取り上げてしまいました。マンガと映画双方を、絡...</summary>
    <author>
        <name>minori</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.lovepiececlub.com/eigaranran/">
        <![CDATA[<p><br />
またまたまた、マンガ原作の映画を取り上げてしまいました。マンガと映画双方を、絡み合わせて、読み比べるというお楽しみが癖になってしまったようです。その度違う、原作と映画の関係というものにけっこう驚かされもします。それもまた楽しみの一つです。この映画「プライド」にも、とても驚きました。けれどそれは、これまでとはまったく別の驚きだったのです。</p>

<p>映画を見たその日のうちに原作全10巻購入し、速攻オウチに戻りました。わたしにとってマンガというものは読みふけるもの。途中玄関のピンポンが鳴っても無視。ごめんなさい佐川急便（だと思う）、「宅配ロッカーに入れといて」ってテレパシーで返事しましたから。そして数時間後、読み終わって始めに頭に浮かんだのは、「映画とそっくり！？」という驚き。いや、実際は映画が原作にそっくりなのですが。普通は映画監督が原作を解釈して、2時間に収まるように苦心して、人物やエピソードを挿入したり削ったり。もちろんそういうことは行われています。そうこうしているうちに、原作者の意図を超えて、映画監督が原作をどう読み解いたかがメッセージとなってにじみ出てくるものです。少しでも原作をいじらざるを得ないのならば、それは避けることのできない原作と映画の宿命であるはず。けれどこの映画には、そういうものが何もにじみ出ていないのです。エピソードは原作とまるきり同じというわけではなく、映画だけのオリジナルもたくさんちりばめられています。もっとも盛り上がる、主人公二人の歌声響く感動のライブハウスシーンは映画だけのオリジナルだし。監督もそこには力を注いだと語っているし。けれどもそれは、なるほどうまくまとめたなという技術的な印象に回収されてしまいます。二次元のマンガが実写として動き出した楽しさはあるのですが、映画としてのインパクト、新鮮さがちょっと足りない感じです。まあ、変な解釈されてぶち壊しになるよりはずっといいのですが。</p>

<p>インターネットでこの映画を検索してみると、一番語っているのは、或いは語られているのは原作者本人です。「漫画家デビュー40周年記念作品」というコピーが副題のようについていますし。この映画は一条ゆかりで売っているのです。監督については怪獣映画が得意ということくらいしかわかりません。そしてついに発見、「脚本に不自然なところがあったので、わたしが手を入れました」という一文を。なるほどそうでしたか。納得です。彼女がどれほどこの映画に完成度を求め、要求を出し、役者に助言し励ましていたのか、他にもいくつかのエピソードを拾うことができます。「映画化するということは我が子を嫁に出すのも同じこと。でも嫌な目に会ったらいつでも戻っておいでと言う気持ち」と彼女は言っていますが、嫌な目になんか私が会わせない、という気概をひしひしと感じます。映画作品に口を挟む、しかも作家としてだけでなく、プロデューサー的な視線で全体に目を配る。それは誰にでもできることではないでしょう。原作者と映画監督がいっしょに仕事をするということはほとんど不可能と思わせられるような話をいくつか聞いたことがあります。双方の思い入れが擦り合わず映画化権交渉がうまく行かなかったという話や、映像ができあがってから原作者の「待った」がかかって撮り直したという話や、原作者からわたしの作品とは別ものであるという批判文を発表されたという話や。原作者と映画監督の関係はある意味戦う関係でもあるのでしょうか。それを一条ゆかりは、自分の仕事としてこだわるところは手放さず、最後までやり通しています。嫌だと断ったって何も生まれません。後で文句をつけたってできちゃったものはしょうがないです。けれどここまでする原作者も珍しいかもしれません。だからこそ、すごい人だと思うのです。これが一条ゆかりのプライドというものなのでしょう。やるからにはやるのです。</p>

<p>一条ゆかりは趣味の一つにバイクを挙げ、「限定解除だし、フフフ」とナニゲに自慢。それはわたしにとって衝撃の一言。1980年代か70年代の終わり頃でしょうか？その頃わたしは中途半端な中免ライダー。当時ナナハンも乗りこなす女性ライダーと言えば、スーパー先駆的な存在でした。一条ゆかり先生（やっと先生呼ばわり）何でもとことんやり遂げるのですね。「マンガ界の女王」とか「御大」とかよりも、「限定解除」にひれ伏すわたしです。甲州街道を桜の花びらを散らし、髪をなびかせKATANAでわたしを追い越していったのは、あなた様ではなかったでしょうか？</p>

<p><br />
「プライド」<br />
2009年　日本映画<br />
原作　一条ゆかり「プライド」<br />
監督　金子修介<br />
出演　麻見史緒　　　ステファニー<br />
　　　緑川萌　　　　満島ひかり<br />
　　　池之端蘭丸　　渡辺大<br />
　　　神野隆　　　　及川光博<br />
　　　池之端菜都子　高島礼子</p>]]>
        
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    <title>「ハッピーフライト」</title>
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    <published>2009-01-09T07:48:27Z</published>
    <updated>2009-06-23T10:24:33Z</updated>

    <summary>新年です。皆さまいかがお過ごしでしょうか。なんとなくいつもの年に比べ「新しい」気...</summary>
    <author>
        <name>minori</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.lovepiececlub.com/eigaranran/">
        <![CDATA[<p>新年です。皆さまいかがお過ごしでしょうか。なんとなくいつもの年に比べ「新しい」気がしません。なぜでしょう？未だにブッシュが米国の大統領だからでしょうか？それとも日本の政権に新しい展望を感じないからでしょうか？不況のせいでしょうか？それとも大掃除をしなかったからでしょうか？なんとなく、今ではなく、これから何か新しいものがやってくるような予感がいたします。（大掃除をする予定はありませんが）いったいそれはどんなものなのでしょう。しかしながら、とにかく出発しないことにはその予感も役に立ちません。というわけで、今年の映画始めは何にしようかと迷いましたが、飛行機に乗って空に飛び立つことにしました。</p>

<p>この映画、飛び立ったものの目的地にたどり着くことなく、飛行機はまたもとの地点に引き返してきます。その間の数時間がストーリーの全容です。映画が始まってから気付いたのですが、映画館と飛行機の座席は似ています。それだけでずいぶん臨場感が醸し出されていました。飛行機に乗ってホノルルに行くところだったのだが、トラブル発生、クルーのおかげで無事にもどれてよかったよかった。いろいろ楽しめたし、今度は本当に大空に旅立つべし。そんな気分で家路に着きました。けっこう好きです「ハッピーフライト」。</p>

<p>物語は実にあっさり。人生ドラマや感情の波風はそれほど劇的に描かれていませんし、主人公の印象も特別なものではありません。描かれているのは、旅客機を運航するためのさまざまな部署に配属された仕事人たちの日常とその成長です。普通は物語の背景として語られるようなものがメイン。言うなれば主人公はフライトそのものというところでしょうか。感情移入するべき登場人物も特に誰ということもなく、観ているものが気分次第であちらこちらと気軽く飛び回れる感じです。それでも人様の安全をあずかる職務のためか、映画の始めから仕舞いまでほどよい緊張感が持続し、メリハリがあり、見応えのある一本に仕上がっています。機内のシーンなどには本物の旅客機が使われたそうです。そのためのスケジュール管理もまた、ひと苦労だったとか。或いはCGではなく、あえて模型を使った特撮にこだわったのだとか。いろいろな立場の映画クルーが恊働して製作したのだということをも充分に感じさせてくれます。娯楽映画なんぞ観てないで、今すぐにでも働きたい！って気持ちになるような映画でした。</p>

<p>それぞれ能力を発揮してみんなで仕事を積み上げていくのって、すごく幸せなことなんですね。あんなふうな仕事人間の性格の悪い上司に怒鳴られてみたい。あんなふうな右も左も解らない新人になって、心中まったく推し量れないようなポーカーフェイスのベテランに、けちょんけちょんに言われてみたい。「あなたは今日はもうキャビンに出なくていい。裏方でもしてなさい」なんてぐさりと突き刺さる全否定のお叱りに身震いし、悔し涙を流してみたい。そのスポ根じみた高揚感が欲しい。もうお客の手に渡った荷物なんだから、本来は関係ないわけだけれども、なんだか成り行きで走り出し、走り出したからには責任をまっとうさせてもらいます、とばかりに全力疾走、満身発声、それはほとんど正義の味方の域にまで達している。そんなふうに走ってみたい、転んでみたい。</p>

<p>気が付けば最近とんとそんなこともない。一人親方、一人社長、一人事務員のわたし。何でも自分流にするのが好きで、指図を受けることが嫌いな結果こうなっているわけですが、一人で何でもするのって、メリハリ効かせるのが難しいんだよねー、たまには誰かに怒られてみたいわん。ないものねだり、隣の芝生は青いものです。</p>

<p>さて、ちょうど20年ほど前のこと。貧乏バックパッカー旅行に選んだのは、ヨーロッパまで最短最安値を誇る、ソビエト連邦崩壊前夜のアエロフロート。ナリタで初めて見た国際線旅客機イリューシン、「こんなエンピツみたいなものが本当にヨーロッパまで飛んでいくのか？」と、思わず声に出たものです。たまたま非常扉の横であった指定座席、すきま風が冷たかった（本当です）。そして一番の思い出、トイレはどこかとうろつくわたしの目にしたもの、それは、物陰でタバコを吸うキャビン・アテンダント（本当です）。当時はスチュワーデスさんと呼ばれていましたお方です。「うえあいずといれっと？」と恐る恐る話しかけると、思い切り不機嫌に物憂げにタバコを持つ手をひらひらさせて、トイレの方向をお示しになりましたっけ。まだ旅慣れていなかったわたしは軽く傷つきました。そして、それから間もなくその国は滅んだのです。やはり人が気持ちよく働けないような国は駄目なのです。</p>

<p>「ハッピーフライト」はつまり、ハッピーワーキングと言い換えてもよいのでしょう。やりがいのある仕事、頼れる仕事仲間、無事に役割を果たした達成感。日々そういったものに支えられる生活を積み重ねていけたなら、それが何より幸せなのかも。そんな国に住みたいな。よく働きよく遊び、よく飛ぶ一年にしたいものです。ということで、今年もどうぞよろしくお願いいたします。</p>

<p>「ハッピーフライト」　<br />
2008年　日本映画<br />
監督　矢口史靖<br />
出演　パイロット：田辺誠一　時任三郎　小日向文世<br />
　　　キャビンアテンダント：綾瀬はるか　吹石一恵　寺島しのぶ　<br />
　　　グランドスタッフ：田畑智子　平岩紙　田山涼成　<br />
　　　オペレーションコントロールセンター：岸部一徳　肘井美佳　中村靖日<br />
　　　エンジニア：森岡龍　田中哲司　<br />
　　　管制官：宮田早苗　長谷川朝晴　いとうあいこ　江口のりこ<br />
　　　バードパトロール：ベンガル<br />
　　　乗客：笹野高史　菅原大吉　正名僕蔵　藤本静　竹中直人<br />
　　　愛鳥連盟：森下能幸　<br />
　　　悦子（綾瀬はるか）の母：木野花　父：柄本明</p>

<p>　　　</p>]]>
        
    </content>
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    <title>「金寅大賞」</title>
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    <id>tag:www.lovepiececlub.com,2008:/1_eigaranran//35.2190</id>

    <published>2008-12-27T14:37:40Z</published>
    <updated>2009-06-23T10:24:33Z</updated>

    <summary> 今年もいよいよ大詰めです。もうすぐ新しい年にリセット、やったぜハッピーニューイ...</summary>
    <author>
        <name>minori</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.lovepiececlub.com/eigaranran/">
        <![CDATA[<p><br />
今年もいよいよ大詰めです。もうすぐ新しい年にリセット、やったぜハッピーニューイヤー。その前にこの一年ちょっと振り返ってみましょうか。</p>

<p>今年は「篤姫」にけっこうはまったなー、特に始めの、次々呼び名が変わっていく出世魚物語な頃はとても楽しかった。毎週欠かさず観ていたものです。しかしながら、夫であるアホ将軍家定に橋の上で抱きとめられてからというもの、わたし的には面白さ半減。特に、禁を犯して大奥の扉を開けさせた篤姫が城の表をどんどんと突き進み、家祥に対面するなりやおら、「あなたについていきます」かなんかそんな台詞で、天まで上ったわたしの期待感をどーんと突き落としてからは、麻生内閣並みに支持率急落。それでも大河ドラマ史上稀なる「女物語」、最後まで見届けました。楽しかったですありがとう。はいはいあれはテレビドラマでしたよね。いずれ映画になるのではないかと先読みさせていただきました。</p>

<p>さて、今年のフーサン映画大賞、名付けて「金寅賞」、たった今創設させていただきました。エントリー作品少ないです。来年はもっとたくさん観まくるぞー！（いきなり反省）</p>

<p>まずは「金寅大泣きde賞」、これは単純に「おくりびと」に決定。実際一番泣いたので。黙って横たわる「ご遺体」というものが観客の想像力をふるわせて、瞬時に自分で創り出した物語に自分で胸がいっぱいになってしまうという仕組みです。これは同情心と呼ぶもの？だと思います。ちなみに日本アカデミー賞にもエントリーされています。滝田洋二郎監督、主演男優本木雅弘、快挙なるか！？<br />
 <br />
そして「金寅大笑いde賞」やはりこれは革新ディズニー映画「魔法にかけられて」に捧げましょう。あのおとぎの国のバカ王子と大河ドラマのアホ将軍がみごとにシンクロ。頑なな、わたしの中の男子のイメージを、ずいぶんユルユルにしてくれました。肩の力が抜けました。ありがとう王子様たち。</p>

<p>王子様のあとは、「金寅ヒーローde賞」これは毎年は出ません。かなりの特別賞です。「アイ・アム・レジェンド」に授与！おめでとうウィル・スミス！こんなヒーロー初めてです。なぜなら始めからヒーローはすべてを失っている。ひとりぼっち、守るものなんかありません。途中愛犬さえも失って、本当に絶望してしまう。観ている方は苦しいばかり。なんでこんな映画創るんだよー！心の中で叫びます。そこへ奇跡的に現れる子連れの母親。人類滅亡後の廃墟で、しかもいつゾンビが襲ってくるのかもわからないような危険な場所で、女子供が、誰の手助けも受けずに生き延びられるはずはない。ヒーローは戸惑います。彼が生き残れたのは、知力体力意思力経験力技術力、どれをとってもピカイチの男の中の男だったから、のはず。実際わたしも考えた、このシチュエーションでわたしが一人生き抜くことはまるで不可能、すごいぞウィル・スミス、と。それが反対に女子供に助けられちゃう。長い間たった一人で戦闘態勢にいたヒーローは、久しぶりに人間と会ってもなじめず、優しい父親や夫であったかつての自分を取り戻すことができない。そうだよねそうだよね、深く傷ついた人間の心、そう簡単に治ってたまるか。そんなわけで、彼の悲しみはわたしの心にしっかりと刻み込まれました。安らかにお眠りください。合掌。</p>

<p>それから「金寅かなり恐かったde賞」これはコーマック・マッカーシー原作の「ノーカントリー」に。テーマでありサブ主人公である最強冷血殺人鬼、これをスペイン系のハビエル・バルデムが怪演。何処へ逃げてもあの異様にギラギラした眼が追いかけてきます。殺人に理由なんかいらない、なぜなら彼は悪そのものだから。悪そのものって何でしょう？純粋悪、それさえも人間性の一つなんでしょうか？おお恐っ！この映画を観た後しばらくマッカーシーの小説にはまりました。彼の代表作である「ザ・ロード」もまた映画化され、アメリカで公開中だとか。これもまた絶望未来、寂寥として灯りのない、先の見えない灰色の世界。父親と幼い息子の終わりのない旅です。小説を読み終わっても、灰色の世界は消えず、再び現実に意識がなじんでくるまでに少し時間がかかってしまうというような、それほどの強烈な物語です。そしてここでもまた、ある純粋さというものが語られています。今から「金寅原作賞」を差し上げておきましょう。来年のロードショウを心待ちにしている次第、どこかの配給会社さま、是非日本公開よろしくお願いいたします。</p>

<p>なんだか悲しげなラインナップになっちゃったなー。それでは最後に「金寅大賞」！「セックス・アンド・ザ・シティ」とどちらか迷いましたが、ここは一つ、明るい未来を目して「ジュノ」といきましょう。「セックス・アンド・ザ・シティ」には「銀寅大賞」を。「ジュノ」に影響されてアメリカで、協力して子育てしようと誓い合い、集団妊娠した高校生が問題視され事件扱いされたことがありました。若気の至りとか性の乱れとかおバカ女子高生とか言われていたようですが、わたしははっきりと羨ましい。そんなふうに家族制度や生活体勢をクリエイティブに捉えていきたいものだなと。今頃彼女らはどうしているのでしょうか。望みは無事に叶えられたのでしょうか。</p>

<p>それでは、2009年、絶望と希望の未来へ！<br />
来年もまたお付き合いのほどどうぞよろしくお願いします。<br />
よいお年をお迎えください。</p>]]>
        
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    <title>「エンジェル」</title>
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    <published>2008-12-14T07:43:05Z</published>
    <updated>2009-06-23T10:24:33Z</updated>

    <summary>前回取り上げた映画「つぐない」で、主人公を演じていたロモーラ・ガライ。金髪のおか...</summary>
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        <![CDATA[<p>前回取り上げた映画「つぐない」で、主人公を演じていたロモーラ・ガライ。金髪のおかっぱ頭をピンで留め、ナースの制服に固く身を包み、地味で頑な人物になりきっていました。うって変わって、映画「エンジェル」では、ロセッティの絵のようなふさふさのブルネットを巻き髪に結い上げ、大きく胸の開いた真っ赤な夜会服を着て、両手を広げ己の慈悲深さに酔いしれて微笑んでいます。ほっほー！女優って本当に見ていて楽しいです。特に毎回あれよと違うイメージをまとって現れるタイプの女優には驚かされます。動揺すら覚えます。世界は常にうごめいているけれど、それをどうにか固定観念にしてとっておこう、などというコズルイ考えをあざ笑うように、小さな脳内出血のように、ちょっとだけ壊されるわたしの世界観。うっ！</p>

<p>ロモーラ・ガライにしてみれば「エンジェル」の方が先なので、わたしの脳細胞を壊した張本人は、妖艶なロモーラを見て堅物に創り変えた「つぐない」の監督イアン・マキューアンなのかもしれませんが、もしも映画に出会った順番が逆だったならと仮想してみると、やはりお固いユニホーム姿にはうっ！とこなかっただろうと思います。「エンジェル」でのロモーラ・ガライは美しいです。怪しくもみっともなくも哀れにも美しい。主人公が望むままに名声を得て、着飾って、贅沢をして、メロメロな恋愛をして、やがて椿姫みたいな死の床に着く。美しさへの憧れを反芻し、何度もつぶしてはまた捏ね上げるこのぐずぐずの感覚。なんだっけ、なんだっけ、昔々に確かに覚えがあります、、、、えーっとえーっと。</p>

<p>思い出しました。遠い記憶から掘り起こしました。それはまさに、わたしが少女というものだった頃、毎日毎日、飽くこと無くけっして飽くこと無く、二つ違いの妹とふたり、部屋にこもって没頭していた「お人形さん遊び」という快楽。お道具はその頃はやりのリカちゃん人形三体。既成の服を着せ替えたり、布切れを巻いてドレスに見立てたり、はたまた裸のままにして虐めたり、手足をもいだりつなげたり。幸せも不幸せも思いのまま、三人のリカちゃん達はめちゃくちゃに使い込まれ、中には髪を刈られたものも。「８人の女たち」で女性を描くことに定評を得たフランソワ・オゾン監督、彼はきっと映画でもって、この「お人形さん遊び」感覚を味わっているのだろうと思うと、なんだか妙に納得がいくのでした。</p>

<p>わたしの経験した「お人形さん遊び」というものが、大人たちが普通考えるていような、幼い平和な自己投影といったものではないことに、今更ながら気がつきます。在りし日、一人でこの遊びに取り組んでいた方々の経験とはかけ離れてしまうのでしょうか、わたしの場合それは妹との共同作業であり、葛藤でもありました。妹の提案するファンタジーとわたしのそれとの主導権争い。どちらかわがままな方がストーリーを進めていきます。強気な方が、欲の深い方がこのリトル・ワールドを制するのです。しかしだんだん創造性の豊かなものが差をつけ始めます。実生活では不利な二才の年の差をものともせず、驚くべき才能を発揮する妹に、わたしは切ない嫉妬心をいだきました。妹が毛足の長い布切れを選び、碁盤の上に積み木とともに設えたのを見て、頭にかーっと血が上ったのを思い出します。碁盤の目は敷き詰められた大理石の床にそっくりで、わたしはそこに、貴婦人がゆったりと暮らすお屋敷を見たのです。ぱちぱち暖炉のはぜる音を聞いたのです。その後、その布切れがわたしのリカちゃん専用となったのは、記憶にはありませんが、わたしが姉権力を発動させたからに違いありません。しかし妹は次々と家中のあらゆる所からがらくたを見つけてきては、「お人形さん遊び」ワールドに新しいアイテムを加えていくのでした。</p>

<p>月日は流れ、わたしと妹は二十歳前後。人生の望みを選び摂るべく、いろいろと思い悩むお年頃です。ある日妹は相談があると言って、わたしを喫茶店に誘いました。そこで妹は「女優になりたい」と言うのでした。大学の演劇部で何度か舞台を踏むうちに欲が出てきたなどと言うのでした。とっさにわたしは反対していました。なぜなのかはっきりとは解りません、と言うか、解りたくありません。</p>

<p>映画「エンジェル」の中で、主人公が夫の愛人に、夫への書簡を突き返しにいくシーンがあります。グロテスクなまでに贅をつくした衣装で颯爽と乗り込む彼女を出迎えたのは、まったく趣向の違う新しいファッションをさらりと着こなす、清楚でグレースな女性でした。しかもその女性は子供の頃の憧れの、夢の原型となったとも言える、館のお嬢様その人でした。体面の途端、エンジェルの演劇的な嘘くささや時代錯誤があらわになってしまいます。鮮やかな手法です。印象的なシーンです。そう書きながらわたしはなぜだか、あの日の喫茶店での、暗く渦巻いた本心と妹への欺瞞的な言葉を思い出したりしています。ちなみに妹は女優にはならず、就職結婚退職子育て奮闘中です。それがわたしの創った筋書きなのかもしれないなどと妄想するのは、映画に感化され過ぎってものでしょう。まったくね！</p>

<p><em>2007年　イギリス＝フランス＝ベルギー<br />
監督／脚本　フランソワ・オゾン<br />
出演　ロモーラ・ガライ<br />
　　　サム・ニール<br />
　　　シャーロット・ランプリング　　<br />
　　　ルーシー・ラッセル<br />
　　　マイケル・ファスヴェンダー</em></p>]]>
        
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    <title>『つぐない』</title>
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    <published>2008-11-28T07:02:29Z</published>
    <updated>2009-06-23T10:24:33Z</updated>

    <summary>通常わたしにとってはあまり引っかかってこない、メロドラマなタイトルです。実際、勧...</summary>
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        <name>minori</name>
        
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        <![CDATA[<p>通常わたしにとってはあまり引っかかってこない、メロドラマなタイトルです。実際、勧めてくれる人がいなかったら、たぶん見逃していたでしょう。観てみてびっくり。わたしの恋愛ゴコロはもみくちゃ、すっかりメロメロ。だいたいメロドラマってなんでしょう？辞書を引いてみました。恋愛をテーマにした感傷的、通俗的なお話、だそうです。メロとはメロス、メロディーのことだとか。メローとは甘美。なんだかよくわかりませんが、うっとりする感じでしょうか？まあ、この物語はうっとりなばかりでもありませんが、とにかく、わたしのメロドラマへの偏見がすっかり消し飛んでしまいました。さっき二回目を観終わったところですが、一回目よりもさらに号泣いたしました。メロドラマ大好き！メロドラマ万歳！な気分です。</p>

<p>考えてみれば、イギリス映画けっこう好きかもしれません。『あるスキャンダルの覚え書き』なんかもそうだったのですが、欲望によって規範から逸脱していく人物の心理というものに並々ならぬ思い入れを感じます。むき出しのナルシシズムや背徳的な行為にかなりドキドキさせられますし。そこまで自信をお持ちかですかと、思わずうなってしまそうな、人間という生き物というか白い肉体への賛美みたいなものも気持ちいいです。例えば、恋愛の美しさを描くときに、人間の姿かたちに光線を当て反射させ、鏡に映したり、風呂につけたり、視覚的に表現していく。肉体というものが美しいからこそ、恋愛も美しいのだと言っているかのようです。それってもの凄い自信だと、わたしにはそう思えます。日本映画で肉体を視覚表現するとき、それは恋愛感情ではなく、肉欲の表現だったりするのでは？恋愛ということを表現するときには、二人並んで風景の中にあるとか、手をつないで歩いているとか、その時眺めていた月が美しいとか、周りの状況に託して描くことが多いような印象です。なんかその辺に、二つの文化の持つ人間観の違いを感じてしまいます。単なるわたしの思い込みかもしれませんが、フランス映画の恋愛はやたらにしゃべるとか、それぞれの違いもまた楽し、です。</p>

<p>で、『つぐない』とは何だったのでしょうか？主人公はいったい何を償ったのでしょうか？それは実質的には決して償えないことだったのでありました。謝っても謝っても、許してくれる人のない不在のお話だったのでありました。主人公は少女です。年代を経ていくごとに役者は三人入れ替わります。けれども髪型だけは10才の頃と変わりません。第二次世界大戦を経て、いくら時代が下ろうと、田舎のお屋敷のお嬢様からナースになり作家になり老人になりと、いくら彼女の立場が変わっていこうと、ある意味彼女はあの日のまま時を止めてしまったのだと思います。『つぐない』というよりは償う姿勢を見せるってことにしかなりませんが、それが本当の償いなのかも。例えば金銭で決着をつけるというのは償いの代用です。それは労働に置き換えても同じでしょう。時間は元には戻せない、やっちまったことはなしにはできない、覆水盆に還らずです。償いって怖い言葉だったのですね。それができるのはイエス・キリスト様だけなのかも。アーメン。</p>

<p>しかしわたしがこのストーリーに魅せられたのは、主人公の少女のしたことを一筋縄では解釈できないと感じたから。本人は自分のせいだと思い込んでいますが、よくよく検証してみると、そう単純な話になってはいません。一通のラブレターが事件の始まりなのですが、その手紙を託された時点で少女は充分悲しい目に遭ったんだとわたしには思えます。たとえ本人の自覚が今ひとつだったとしても、です。彼女の恋ゴコロはないがしろにされ、無きものになってしまったのだから。そして彼女のしたことの結果は一つではありませんでした。一個の恋愛を奈落の底へ突き落とし、その影でもう一個を生き延びさせた。真実を隠蔽したのは、実は彼女一人がしたことではなかったと言えます。生き延びた側のカップルは確かにずるいです。しかし少女が騒ぎ立てた上は、そうするしかなかったのでしょう。うーん、してみると彼女の罪は恋愛を理解しなかったってこと？とりわけ、自身の恋愛感情を理解しなかったということなんでしょうか？ さらに言うなら、彼女は自分自身の中にもある、人間のずるさややましさを見ようとしなかった、ってことになるのでしょうか？ああイギリスっぽいです。胸が締め付けられますね。これぞメロドラマの真髄！？</p>

<p>主人公はナース見習いのときに一人の兵士の臨終を看取ります。兵士が息を引き取る瞬間に彼女はその人の手を握りしめ、運命にあらがおうとします。それはまるで世界一短い恋愛のようです。そして『つぐない』とはつまり、決して叶わぬ思いなんじゃないでしょうか。これはまた長い長い恋愛のようでもあります。この映画は恋愛の物語であり、贖罪の物語であり、そしてまた、戦争で失われた若い命への鎮魂の物語でもありました。これをわたしは敬意を込めて、メロドラマと呼びたいのです。</p>

<p>『つぐない』　<br />
2007年 イギリス映画<br />
原題：Atonemento<br />
原作：イアン・マキューアン『贖罪』　<br />
監督：ジョー・ライト<br />
出演：キーラ・ナイトレイ（セシーリア・タリス）<br />
　　　ジェームズ・マカヴォイ（ロビー・ターナー）<br />
　　　シアーシャ・ローナン（ブライオニー・タリス13才）<br />
　　　ロモーラ・ガライ（ブライオニー・タリス18才）<br />
　　　ヴァネッサ・レッドグレイヴ（ブライオニー・タリス老年）</p>]]>
        
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    <title>「ハンサム★スーツ」</title>
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    <published>2008-11-14T14:05:13Z</published>
    <updated>2009-06-23T10:24:33Z</updated>

    <summary>おきらくなストーリーである。美★醜を簡単に脱いだり着たりできるのだから。やはりこ...</summary>
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        <name>minori</name>
        
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        <![CDATA[<p>おきらくなストーリーである。美★醜を簡単に脱いだり着たりできるのだから。やはりこれは男子の発想ならではってとこか。脚本の鈴木おさむ氏も、男はブサイクでもなんとかなるが、女にとってのブサイクは明らかなハンディと、その著書「ブスの瞳に恋してる」の中で言っている。男はハンサムに憧れるけれど、ブサイクでもだいたいオッケーということらしい。女のブサイクはそうはいかない。女の美醜はその人格すべてに影響を及ぼし、その人生すべてにおいて意味深い、と言ったら言い過ぎだろうか。</p>

<p>男の美醜はたかだか紳士服の青山。二着で一万円とか、パンツがもう一本付いてくるとか。そんなレベルであることを今回この映画で見せつけられたと思う。そしてもう一つ確認したこと、ちょっと前とは何か違っていると思わされたことは、ブサイクがビジュアル化されてきたということだ。昔、ブサイクは語られなかった。美醜は表裏一体なので、美人の影にはブサイクがいたはずなのだが、あえて言及されなかった。ブスは差別語だった。だんだんブサイク、ブスと人を差別する行為に光が当たりだし、ブサイク、ブスが語られ定義され、ついに美人と同じように企画化され始めた。ブスは天然の自由区域だったのに、ブスたるものはこうであらねば、という図像ができあがってしまった。美人が蓄積され消費されていく主たる現場、ビジュアルの殿堂、テレビ世界の中において、ブスががんばる姿が映しだされ、ブスがプロフェッショナルになり、だからゆえに一般ブスも堂々と殿堂の門戸を叩き、ダイエットや整形やメイクアップを通して、ブスがブサイクと美人の境界線上を縦横無尽に駆け回り、その結果、美人にもお笑いセンスが求められ、美人とブスとのお約束事をトランスしていった。つまりその挙げ句の、女子の奮闘に乗った上での「ハンサム★スーツ」であるのだと思う。</p>

<p>「ハンサム★スーツ」はいろいろな意味でぬるい。主人公はもともと自分の居場所をしっかり持っている。ただブサイクゆえに女にもてない、という設定。ハンサムスーツを着用し思いきり女にもてて別世界を堪能し、脱いでまたもとの堅実な生活に舞い戻る。そこに罪悪感はさらさらない。自分の容姿を捨てる行為が自分自身を放棄したことにつながるということはない。ここんとこ重要だと思う。相手役の女子もまたハンサムスーツを使用しているのだが、これは真逆の理由によるという設定だし。結局男ブサイクはハンサムを体験することで強化され充実し、女ブサイクは消滅する、というストーリー。腑に落ちないような、落ちるような。しかも男ブサイクはブサイクのくせに、説教さえする。これってどうなのか。超美人に対して「笑顔の方がきみらしい」などと人生訓を垂れてみたり。それほど自分に自信があり、自由にものが言えるのなら、ハンサムになる理由なんかどこにあるのだろう？その必要程度としては、ちょっと風俗にでも行って気分転換、くらいのこととしか思われない。</p>

<p>女のブサイクがどれほどのものか、韓国映画「カンナさん大成功です」と比較してみよう。まず変身前の彼女の人生は自分自身のものとは言いがたい。口パクで踊る美人歌手の裏方でしかなく、才能を正当に評価されることはない。実際、北京オリンピックの開会式でこれと同じことが起こったっけ。酷い話やね。方や、「ハンサム★スーツ」の男ブサイク、ブタロウは腕のいい料理人。小さいけれど自分の店さえ持っている。出発点からして違うと思う。さらに変身するには、カンナさんは命がけの全身整形大手術、１年間のリハビリ、これまでの自分をすべて捨て去る覚悟、愛犬とも愛父ともおさらば。方や、ブタロウはスーツを着るだけ。いつでも脱げるし。つまり女にとっては本質の変化であって、男にとっては表層の変化に過ぎない。変身後の人生でも、カンナさんは泣いてばかり、ブタロウはいつだって高笑い。カンナさんが自分の変身行為を受容するには好いた男や父親やファンつまり社会一般の承認が必要なのに対して、ブタロウは自分で決めることが大切でその決定に異を唱えるのもこれもまた自分自身にほかならない。美醜にまつわる男と女、これほど違うのである。天と地ほども、有頂天と金輪際ほども違うのである。</p>

<p>しかしだからと言って、「ハンサム★スーツ」は拒否なのかというと、実はそうでもない。常識を覆し、男だから女だからという世間を変えてみたいという気概を感じないでもないし、美醜問題なんておきらくでいいじゃんって提案にも賛成。ただ、男ブサイクで鍛えられた自意識をハンサムでそのまま発散しないように注意して欲しい。主人公がトウキョウ・ガールズ・コレクションの舞台上でモデル業を放り出し、突然心中を吐露して走り去るというシーンがある。主人公が一番大切なことに目覚める重要な場面なのだが、あれは女子の空間を甘く見過ぎだと思う。せっかくの女子イベントに対するあのオレオレ・ジャックぶりは受け入れ難い。たとえ滑稽ねらいとしても、はなはだ迷惑。</p>

<p>タイトル：ハンサム★スーツ<br />
2008年　日本映画<br />
脚本：鈴木おさむ<br />
監督：英勉<br />
出演：大木啄郎（ブサイク）　塚地武雅<br />
　　　光山杏仁（ハンサム）　谷原章介<br />
　　　橋野本江（ブス）　　　大島美幸<br />
　　　星野寛子（美人）　　　北川景子<br />
　　　來香　　（超美人）　　佐田真由美</p>]]>
        
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    <title>「やわらかい手」</title>
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    <published>2008-10-26T08:50:37Z</published>
    <updated>2009-06-23T10:24:33Z</updated>

    <summary>主人公イリーナを演じたのはマリアンヌ・フェイスフル。この人は1960年代後半、セ...</summary>
    <author>
        <name>minori</name>
        
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.lovepiececlub.com/eigaranran/">
        <![CDATA[<p>主人公イリーナを演じたのはマリアンヌ・フェイスフル。この人は1960年代後半、セックス・アイコンと呼ばれた存在であったそうです。アイドルなロック歌手であり、ミック・ジャガー（真っ赤な大唇とベロのあのアイコンですね）の恋人であり、世界的に一世を風靡していたようです。</p>

<p>この映画はDVDを借りてきて見ました。スタートさせると他の多くの映画DVDと同じように、本編が始まる前に新作映画のプロモーションが何本も続くことになります。もう慣れっこです。早送りしながら、さっさと流してすませることにいたしましょう、と思ったのですが、おや？何？これ新作？じゃないよね、古いよね。ハクイ姉ちゃんが、黒皮のツナギにノーヘル、金髪（白黒映画なので想像ですが）をなびかせバイクにライドオン。その名も「Girl on a Motorcycle」。いちゃいちゃと男女の愛を交わしているのは、あの相手役はアラン・ドロン？ってことで、しっかり目が釘付けに。もう一度戻して再生してみたり。後で知ったのですが、この映画は1968年イギリス＝フランス作成で、日本でも「あの胸にもう一度」という邦題で親しまれているヒット作でした。皮ジャンのジッパーからこぼれ落ちる柔肌とキュートな微笑み、この魔性のガールこそが往年のマリアンヌ・フェイスフルその人なのでありました。</p>

<p>「やわらかい手」は伝説のセックスアイコン、マリアンヌ・フェイスフルが、よわい60超となられた今現在を引っさげて38年ぶりに映画の主人公に再登板、というところが一つのウリとなっております。実際、ロードショウでは、往年のファンとおぼしき初老男子が多く観客席を埋めていたとか。このことにわたしは興味を覚えました。いろいろな期待があったのだろうと思います。「青春のマリアンヌよもう一度」とか、「その後のマリアンヌに何が起こったのか確認」とか、「マリアンヌよ、オレ達ずいぶん遠くに来たもんだね」とか、「容姿衰えたりといえども、腐ってもマリアンヌ、ババアでもマリアンヌ」とか。映画の中で、大人気イリーナの手コキに長蛇の列を成す男子らと、「発情装置」として入れ子状に重なってしまいます。</p>

<p>イリーナという名はいわゆる源氏名で、主人公の本名はマギーです。夫に先立たれたフツーの主婦、孫の大病治療に必要なお金をひねり出すため、セックスワークに就労という設定です。マギーは始め、銀行に借金の相談に行き断られ、職安に行き断られ。こういう場合とってもいや〜な気持ちになりますよね、ただの仲介役に過ぎない若輩者が自分の金を振り分けるわけでもないのに、偉そうに威張り腐って、、、って、つい、わたしの個人的な感情が蘇ってきちゃいましたけど。自分には何の価値もないんだ、今までのわたしの人生はいったい何だったのかってくらい落ち込んでしまうものです。そこで風俗の仕事に就くということはやはり、彼女にとってちょっとした冒険であっただろうと思います。</p>

<p>マギーは職場の先輩に「ここでは演技するのよ、家に帰れば自分に戻る」と心構えを教わります。ところが慣れてくるとマギーは、飾り気なく薄暗く質素というよりは薄汚いこの職場空間を、自分に相応しいものにしようと手を加えるのです。壁に慣れ親しんだお気に入りの絵を飾り、テーブルにお茶を用意し、花を飾り、たぶん手作りの仕事用うわっぱりを羽織って、長年の主婦業でつちかったスタイルをそのまま活かします。周りの人はあきれ顔です。</p>

<p>思い返すと、こんなようなちょっとした行動で主人公が、自分自身も持っていたであろう社会通念を超えて、アイデンティティを解き放っていく瞬間が、実にたくさん語られています。新しい自分を見つけていくというのではなく、そのままで大丈夫を見つけていくという感じです。女性ジェンダーに課されるダブルスタンダードに苦しめられる経験を、女子はいやでも積み重ねて生きていくわけですが、こんなふうに身の回りにとっちらかった価値観を、封じ込めていた感情を、一本の縄のようにこね上げていく力技を発揮できるのは、それは「おばちゃん」だからなのでしょうか？</p>

<p>そして話はまたマリアンヌ・フェイスフルへと戻りますが、アイドルだった時期は短く、私生活にもいろいろあって、若い頃はかなりの辛酸をなめたということです。そういう意味で彼女をサバイバーと呼びたいと思います。ちなみに同じ時期に日本でアイドルだった人たちには、山本リンダ、吉永小百合がいます。皆さんご存知のように、表面的にはその容姿もイメージも大きく変わることなくご活躍中です。女にはいろいろな年齢の重ね方があるものだなと、改めて考えさせられます。さてそれなら自分はどうなのかといえば、ただただ無我夢中としか言いようもないのですが。いつか振り返って、それなりに感慨にふけることもあるのでしょうか、それとも感慨なんて他人のものなのかもしれませんけど。</p>

<p><br />
『やわらかい手』<br />
原題　IRINA PALM</p>

<p>2006年　イギリス＝ドイツ＝フランス＝ベルギー＝ルクセンブルグ製作<br />
監督　サム・ガルバルスキ<br />
出演　マリアンヌ・フェイスフル<br />
　　　ミキ・マノイロビッチ<br />
　　　ケヴィン・ビショップ<br />
　　　シボーン・ヒューレット<br />
　　　ドルカ・グリシュル</p>]]>
        
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    <title>「おくりびと」</title>
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    <published>2008-10-10T15:02:30Z</published>
    <updated>2009-06-23T10:24:33Z</updated>

    <summary>人は誰でも死ぬのですね、そんな当たり前のことに改めて心が震えました。子供の頃から...</summary>
    <author>
        <name>minori</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.lovepiececlub.com/eigaranran/">
        <![CDATA[<p>人は誰でも死ぬのですね、そんな当たり前のことに改めて心が震えました。子供の頃から何回か経験してきた近しい人の死を、その葬送を思い起こし、胸がいっぱいになりました。この映画うまいところを突いてます。観た人のだいたいが感動するのじゃないでしょうか、つまらなかった観なけりゃよかったと感じる人は少ないような気がします。最近の映画館はリタイヤした団塊の人々で結構繁盛しておりますが、老齢にさしかかった身であればなおさら、己の来し方行く末などに思いはせ、感動もまたひとしお、かと。映画館の暗闇にはそこやかしこと洟を啜る音が連鎖して、なんとも言えない一体感。このわたしも、全編を彩るチェロの音色にそそのかされて、油断すると思わず嗚咽が込み上げてくる、オオーンと不測の声が挙らないように唇を噛んだりして、人知れず苦労していたのでございます。いつかきっと、声が漏れても構わず映画館で泣けるくらいの剛毅な人間になりたいものです。そういう迷惑なら人にかけてもいいのではないかと、思ってみたり。</p>

<p>世界各地にいろいろな形の葬儀がありますが、つまりは遺体の始末の仕方です。祈りや供物や別れの言葉を捧げずに葬ることなど、おそよ人間らしくありません。世界各地に様々な文化文明の遺跡がありますが、その根本を語るもの、それはやはり墳墓でしょうか。遺体の始末の仕方がだいたい同じならだいたい同じ文化圏と言っていいのでしょう。そういう意味で、わたしはこの映画を観て「ああそうか」と思ったのです。</p>

<p>日本人は宗教に関していい加減と言われてきました。例えばあの歌を思い出します。<br />
　♪１月は正月で酒が飲めるぞ、酒が飲める飲めるぞ、酒が飲めるぞ♪<br />
　♪１２月はクリスマスで酒が飲めるぞ、酒が飲める飲めるぞ、酒が飲めるぞ♪<br />
また例えば、結婚式はキリスト教、厄よけ祈願七五三に初詣と神社にさんざんお参りし、人生の最期は仏教で、が多くの日本人の常識です。こんな無節操な人々を野放しにしている地域が他にどこにあるというのでしょうか。しかし、いくら批判を浴びても私たちの多くは意に介さない、別にいいじゃんって顔して日常生活を送っている。クリスマスにはクリスマスケーキを、正月にはお屠蘇を、ついでにバレンタインデーにはチョコレートを。楽しけりゃそれでいいのか、酒が飲めりゃそれでいいのかって自嘲気味にもなりましたけれども、けれどもたぶん、私たちは宗教以前に、もっとプリミティブな共通の信仰心というもがあるのかもしれないと、そしてそれは私たちの文化にとって根源的なことなのではないかと、そんなことを考えました。</p>

<p>火葬場に長年勤めてきた平田正吉が「死とはまさに門です。わたしは門番です。わたしはここで『いってらっしゃい、また会おうの』と言いつづけてきました」と語るシーンがあります。その台詞を聞きながらわたしは、わたし自身の、あの、鉄の扉が閉められた瞬間の喪失感を再び思い出しました。あれは一連のお別れ儀式の中でも特殊で、ちょっとしたトラウマになっているのじゃないかと思うくらいです。仕方ないとか、怖いとか、そんな馬鹿なとか、取り返しがつかないとか、頼む誰か止めてくれとか、もうおしまいだとか、ごめんなさいとか、一瞬の間にいろんな思いが沸き上がってきて、挙げ句の果てに思考停止、頭まっ白という具合。生きている限りもう何回かあの瞬間を味わわなければならないのか、と思うだけで頭がぼーっとしてくるほどです。遺体を清拭したり、死化粧を施したり、死装束を整えたりすることは、葬ることの罪悪感を少しでもやわらげるためにするのかもしれません。</p>

<p>方や、例えばドラキュラなどは死ぬと瞬く間にその体は灰となり雲散霧散し何も残らないというふうに語られます。遺体の残らないのは人間じゃない証拠、夢マボロシの証拠です。体というものがあってこその自分自身なわけですが、死んで魂がその体から立ち去った後も、体自体が残ることを考えると、体って丸ごと全部自分のものじゃないような気もします。この世にある限りにおいて、この世のなにがしかから貸していただいているような感じがします。死ぬ時は、つまり使い終わったら、それはきちんと返していかないとね、みたいな。</p>

<p>この映画はいい映画です。秀作です。スタッフが皆、監督も俳優も、充分力を発揮し合っている感じがします。なんと言っても脚本がいい。食事のシーンが多々出て来て、「死ねないなら食べるしかない、食べるならうまいほうがいい」なんて台詞で、生きることの本質を語ろうとしています（ふぐの白子をチューチュー吸う山崎努がちょっと気持ち悪いです）。生命を受け継いでいくものとしての家族の絆をさまざま描こうとしています。諦めることで見えてくる人生哲学みたいなものを主人公に託しています。主人公の父親への葛藤は、わたしもその一人ですが、身につまされる人も多い話だろうと思います。それでもやっぱりこの映画は、納棺師の手技に始まり納棺師の手技に終わると言って過言でないだろうと思います。過不足ない素晴らしいストーリーですけれど、物語に感動する以上に、自分自身の思い出が頭をもたげてきて、映像に強く感応してしまうのです。そしてその思いは、映像の中の清々しい空気感とチェロの響きとに運ばれて、天に向かって昇華していくようなのでした。この映画を、創ってくれてありがとう。</p>

<p>　監督：滝田洋二郎<br />
　脚本：小山薫堂<br />
　音楽：久石譲</p>

<p>　出演：本木雅弘<br />
　　　　末広涼子<br />
　　　　山崎努　<br />
　　　　吉行和子<br />
　　　　余貴美子　<br />
　　　　笹野高史<br />
　　　　山田辰夫<br />
　　　　杉本哲太</p>]]>
        
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