映画乱爛
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ja
2008-06-09T23:27:21+09:00
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「ミス・ポター」
http://www.lovepiececlub.com/eigaranran/archives/001482.html
ミス、です。ミセスではなく。男性の敬称はミスターひとつですが、皆さんよくご存知のように、女性には未婚か既婚かをはっきりさせるため、二つの敬称が使われます。この映画は、今からおよそ百年余り前の英国の、ピーターラビットの作者として名高い、ビアトリクス・ポターの半生記。絵本作家のというよりはむしろ、自由に生きたい独身女性の自立物語という趣きでした。そう考えるとこの表題、短いけれど意外と多くを語っています。 映画全体はほのぼのテイスト。ビアトリクスの描く精緻でかわいらしい動物たち、イングランド有数の景勝地、湖水地方の美しい風景、そして幸せの思い出だけを残して儚くも逝ってしまう恋人。うーん、すべてが爽やか。その中に、ときどきフェミ的に「うむ」と頷ける台詞やエピソード。こ、これは、この監督はただ者ではないのでは!?しかし、前作は11年前の「ベイブ」、仔豚の話だ。ヒット作ですけど、その後11年間も映画を撮っていない。なんでどうして?「ベイブ」と「ミス・ポター」の共通点は、穏やかな農村暮らしと愉快な動物仲間たち。きっといい人なんだろう、ということで。 例えば、親友のミリー。ある意味、主人公より印象的。なにせあの「奇跡の海」のエミリー・ワトソン。目が、狂ってます。そしていつも髪が乱れてます。(アカデミー賞受賞の写真も同じように乱れてましたが、そういう髪質なんでしょうか)ミリーもまた裕福な家庭の子女でありながら独身主義で、男に交じってカードゲームをするくらいなんとも思わないような、恥じらいのない生意気な女です。ウエストを絞ったフレアースカートをはいてはいますが、上半身はブラウスではなくシャツにネクタイ。ミリーはビアトリクスに会ったとたんに、「覚悟はいいわね、わたしはあなたを好きになるわよ」と宣言します。「人生に一番必要なのは、夫でも子供でもなく、話のわかる友達。わたしはあなたに出会った」と言って、肩を並べて歩くビアトリクスの腕をとります。ああ、このレズビアニティあふれる女はいったいどんな人生を送ったのでしょうか。 それから例えば、お嬢様から片時も目を離さないお付きの老婦人ミス・ウィギン。かなり年配です。彼女はいったい何者でしょうか?当時、良家の女子は学校へは行かず家庭の中で、ガヴァネスと呼ばれる住み込みの女家庭教師に養育されたそうですが、ミス・ウィギンはガヴァネスなのか?お嬢様が三十路過ぎても結婚しないので、引退できずにこんなに年老いてしまった、とかいうことですか?ガヴァネスは未婚女性がレディとしての体面を保てる唯一の職業だったそうです。しかし給料はメイド職と変わらず、男性家庭教師の10分の1だったとか。もしミリーやビアトリクスの家が経済的に困窮していたら、彼女らはガヴァネスとなり、他人の家に住み込み、出過ぎないように、憎まれないように気を使い、他に仕事仲間もなく、肩身の狭い思いをし、誰からも将来を期待されず、主人の無体な要求から身を守る必要もあったかも。これはもう名実ともに負け犬全開。一度間違って「ミセス・ウィギン」と呼ばれ、語気強く「ミス!」と言い返したとき、彼女の内心はいったいどんなだったのでしょうか。 また或いは、母親のヘレン。女はみんな結婚するものと、ビアトリクスの生き方ことごとくにブレーキをかける存在です。ヘレンの生き方は典型的なアッパークラスの奥様そのもの。ヨーロッパの母と呼ばれた子だくさんのヴィクトリア女王の影響でしょうか、奥様というものに求められるのは、ただ子供を産むことだけだったとか。家事や子供の世話はメイドが行い、養育はガヴァネスが担当。奥様にはすることが何もない。日々の退屈にどう耐えるか、それが奥様の生きる道だったらしい。パーティドレスに身を包み、首から肩から耳からどっさり真珠を下げた奥様たちの姿には圧倒されます。対照的に未婚女性は一つのアクセサリーも身につけていない。つまり、妻たちは丸ごと夫の所有物で、夫の財産の展示場で、夫の動くアクセサリーなのだということでしょう。 ピーターラビットの初版が上梓された1902年の翌年、婦人参政権を求めて「女性社会政治同盟」が結成されました。ハンガーストライキ、街頭デモ、リーダーの逮捕、裁判、メンバーの一人がレース中、王室の競走馬に身投げして殉死などなど、テロまがいの行為もあった過激な運動組織だったそうです。映画の中ではまったく語られないけれど、実際のビアトリクスの妥協のない生き方には、こうした時代背景も影響を与えただろうと思うのです。彼女は、地衣類や菌類の研究をしたり、絶滅寸前の羊の原種を繁殖させたりと、称号も肩書きも持たないけれど、実践的な生物学者でした。著作権事業を整えた最初の作家であり、ナショナルトラスト運動の先駆者でもありました。あの窮屈な時代によくぞそこまで、と思うけれど、彼女には才能と意思の強さの両方があったのだろうけれど、何よりも、彼女が彼女であったのは、自分の幸福には何が必要なのかよくよく考え、いつもまっすぐ選んできたということの結果でしょうと思います。 「わたしもこれからがんばろーっと!」励まされ、素直な気持ちで、明るい明日のためにその夜は安眠。そんな気分にさせられる後味の良い一本でした。オススメです。 「ミス・ポター」 2006年 アメリカ、イギリス 監督 クリス・ヌーナン 出演 ビアトリクス・ポター レネー・ゼルウィガー ノーマン・ウォーン ユアン・マクレガー ミリー・ウォーン エミリー・ワトソン...
minori
2008-06-09T23:27:21+09:00
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「めぐりあう時間たち」
http://www.lovepiececlub.com/eigaranran/archives/001467.html
いつの間にか随分時間がたちました。映画館でこの映画を初めて観たあの日から、もう一度自室でDVDを観直したあの日から、原作を読み終えたあの日から、本棚の奥のヴァージニア・ウルフを引っ張り出してみたら「オーランド」だったのでネット書店に「ダロウェイ夫人」を注文したあの日から。 つまりわたしは未だ「めぐりあう時間たち」旅行の途上にあるのですが、ここでちょっと立ち止まってみることにします。原作本の表紙には、入水したオフィーリアが川面を流されていくところの油彩画。末期につんだ野の花が力を失ったその手から離れ、うら若きオフィーリアの身体とともに水面を彩っている。あれを描いたのは地位も名誉も金も美人も全部持っていた百年前の英国の男。ああ、いかん、それは気持いいかもしれないけど、流されるのをやめて、川底に足を踏ん張って立ち上がるんだ、オフィーリア!(?) さて、最初「めぐりあう時間たち」を観おわった直後、正直「なんか期待と違った」感を持ちました。女たちを描いた女たちのための映画だという前評判が高かったから、だから余計にそう感じたのでしょう。確かに、女たちがたくさん出てきて、女が女を愛するということが、違う主人公、違う時代、違う関係で何度も語られていました。そしてそれぞれがヴァージニア・ウルフの小説「ダロウェイ夫人」で繋がっているという手の込んだ設定でした。だけど物語のかなめは、窓枠に腰掛けてごにょごにょ言って落下して、自ら命を絶った男詩人だったのでは?なんだ結局男の物語じゃん、とわたしは思ったのです。そう思った途端、作中語られなかった男詩人の人生が頭の中でムクムクと膨らんでいきました。ジュリア・ムーアの演じた主婦ローラ・ブラウンの、家族を捨てるほどの苦悩は、失った母への憧れを抱きつづける男詩人の哀しみと入れ替わり、メリル・ストリープの演じたクラリッサのちょっと頑なでエキセントリックな振る舞いは、男詩人の最期を見送る狂言回しと理解され、コートのポケットに石を詰め込み、川の深みへと向かうニコール・キッドマン演ずるヴァージニア・ウルフの姿は、あっと言う間に落下した男詩人の簡単すぎる最期を、別の角度から再演する駄目押しへとその印象を変えたのでした。それでわたし的にこの映画の評価はあまり高くなかった。物語の構成は卓抜だけどね、で終っていた。むしろ「このうそつき」くらいの気持でしたっけ。 ところが5年経ってもう一度観てみると、なんと随分印象が変わっていた。それはわたしの見方が変わったからだと、当たり前のことだけど、作品というものは変わらずにいつもそこにあって、そういうことを教えてくれるものだと改めて知った次第。 今回胸に焼きついたのは、複雑な物語の流れの中で、気にしなければ気軽にスルーしてしまうような、大筋とは一見無関係に思えるような小さなシーンでした。息子の訃報に、たぶん身元引き受け人として探し出されたローラ・ブラウンがクラリッサの家を訪れる。クラリッサの娘ジュリアのベッドを借りることになり、二人だけのちょっとした場面、ジュリアがローラに軽くキスをするのだったか抱きしめるのだったか。ご愁傷様そしてお休みなさいと。もう一つは、若き日の恋人そして最愛の男だったリチャードを失ったクラリッサ、彼の病状は末期だったし、いずれこの日がやってくるのは必然だった。それにしても自ら、しかも目前で死なれてしまったショックは大きく、クラリッサは動揺を押さえられない。長かった一日の終わりに、今現在の恋人、同居人のサリーにありがとうそしてお休みなさいとキスをする。人生には、訪れる人、立ち去っていく人、迎える人、見送る人が入れ替わり立ち替わり。強烈な事件や何気ない日常やいろいろあって、思い返せば総じてぐちゃぐちゃ、まるで失敗の積み重ねばかり。だから、そのときたまたま隣に居合わせた人の「許し」みたいなものに感動するってことがある。 5年前初めて観たとき、これはリチャードの映画だと思ったけれど、リチャードに気持を寄り添わせようと思うことはなかった。そんなこと全然思いつかなかった。ところが今、わたしにとってこの映画の印象が変わった最大の理由は、リチャードと自分を重ねて見る瞬間があったということ。去っていく人から見れば、引きとめようとする人のなんと的外れでお節介なことだろうか、だからこそなんと愛しく離れ難いものだろうか。人はいつでも誰かから(それは結局、何処かからと同義ですけど)去っていこう、或いは反対に誰かを引きとめようとして、果てしもなく引っ張り合っているのじゃないだろうか。でもそれが愛することの姿なのかもしれないと思う今日この頃。そんなふうに考えるようになったとは、お前この5年でどんだけ恋愛の経験を積んだのかー、みたいな話ですけど。てへ。実際は恋愛経験ではなくて、この世から立ち去る気分をちょっぴり体験したってことで、それはでも、切ないという点で恋愛と似たようなところもあるのかなと思ってみたりも。 そう言えば「ダロウェイ夫人」、いつしかツンドク山の彼方に埋もれてしまっています。この原稿を書き終ったらば掘り起し、「めぐりあう時間たち」旅行を再開しようと思います。時が過ぎいつかまた映画を観たとき、そのときわたしは何を考えるでしょう。何を見て、誰に自分を重ねるのでしょうか。 「めぐりあう時間たち」 THE HOURS 2002年 アメリカ映画 監督:スティーブン・ダルドリー 原作:マイケル・カニンガム...
minori
2008-05-23T19:52:02+09:00
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「キサラギ」
http://www.lovepiececlub.com/eigaranran/archives/001452.html
「自殺したアイドルをめぐる男たちのミステリー・コメディ」わたしがコピーをつけるとしたらそんな感じですけど、ホームページを見ると「最高に面白く、最高に暖かい、ハートフル・ワンシチュエーション・サスペンスの誕生」とあります。えっ?ハートフル?あれってハートフルなのかー。いったいどのへんがハートフルなのかー。確かに、何度も繰り返される新たな謎をめぐるドタバタ劇の末、最後をしめくくるシーンとして、それぞれの男たちがそれぞれの思いを満たし、空想の星空を見上げるというような場面があります。もしかして、ハートフルなのはあのへんかしら?まっ、解らないことはさて置いて、毎度おなじみ、製作者の意図とは微妙にズレてますけどワタクシの感想。 実は、この映画すっごく好きです!何度もDVD借りてきては、もうたぶん10回くらい見てます。なーにがそんなに面白いのでしょうか? 第一にノリがいい。高校生の頃、運動系クラブ活動なんかで味わった、屈託のない友情を思い出します。一つのケーキをみんなで分けて食べていたようなあの頃、大小の違いはあるにせよ、目前の自分の分に夢中なので、そのことにはあまり気付かず、みんなで同じケーキを食べているというシチュエーションに酔っていたあの頃、懐かしいです。 第二に男しか出てこない。日本映画に女が出てくると、いきなり無条件に、全登場人物のキャラクターがジェンダー的にデフォルメされてしまい、観ているわたしは「そんな女いねーよ、そんな女いねーよ」とつぶやくことで、しょっちゅう眉間のしわを延ばさねばならず、物語に集中できなくなってしまう。ところが「キサラギ」にはそんな苦労がない!だって生身の女が出てこないから。 もう少し突っ込んでみましょう。「キサラギ」とは三流アイドル女の子ちゃんの名前です。出てくるじゃん女。しかもタイトル。そう、そこがまた言い得て妙。商業的アイドルってものは、職業として「女の子」を演じていると一般に了解されています。そのような存在は稀で、女性を物語る言葉の多くは、だいたい全てにおいて、女性自身の実態から乖離しているのじゃないでしょうか。処女、淑女、聖母に悪女にアダージョ、エビージョ、えとせとらエトセトラ。さらにキサラギは死んでいる。完璧に沈黙しているのです。キサラギが本当はどんな人だったのか、自殺の理由は何か、それとも他殺かあるいは事故か、キサラギの実体ことごとくはすでに失われているので、男たちは持ち寄った断片をつなぎ合わせ、かろうじて想像を逞しくするしかない。いくら考えても悩んでも、キサラギの本心を知ることは永遠にできない。挙句の果てに彼女が死んだのは自分のせいだと言って頭を抱える。まるで殺人者であることを競うように。 そんな男たちの到達点は、おのれの悲しみを癒すこと。自分にできるのは自分の心を見つけることだけ。オレこそが彼女を助けたり導いたり育んだりしたという自負は、或いはしなかったという自責は、みんなユメマボロシだったと納得し、そんな彼女への届かぬ愛を抱くオレを、オレは可愛いと思う、オレはオレを愛していると気付く。素晴らしいです!麗しい物語です!僭越ですが、ワタクシはここに初めて真っ当な男の愛を見た思いがいたしますのです。男って悲しい生き物なのねー。男の心ってドーナツ型なのかしらー。真ん中の空しいところを誰かに埋めてもらいたいのねー。解るわその気持、辛いわねー。「キサラギ」観終ってからの数分間、ワタクシは心からそんな男心を愛しいと思ったのでした。 もう少し続けましょう。「キサラギ」の最も秀逸なる点は、男社会の構造をわかりやすく紐解いて、おもしろおかしく見せてくれているということ。追悼に集まった5人の男たち、どれだけキサラギの情報を手にしているか、キサラギファンとしてどちらが上かということでお互いを推し量り始めます。しかしそれはまだ気楽なゴッコ遊びの延長線上、ハンドルネームでこと足りる世界。職業を持ち出すことで関係性に微妙な変化が。中に一人、「無職です」と告げる人物にみなは落胆。「それは言わない方がよかった・・・」と言って。「無職」が紛れ込んでいるということが、集まりそのものの価値を下げてしまうとでも言いたげです。そしてさらに現実へ踏み込むきっかけは、キサラギの死に対する疑念でした。そこから繰り広げられる本当の戦い、それはキサラギを同心円としての、より一層中心点に近いのは、一番の重要人物は誰なのかという戦いに他なりません。5人は共通のファンという立場以上に、実はキサラギを取り巻く存在としては、まったく違ったポジションにいたということが、謎解きの過程で暴かれていきます。男たちは共感し動揺し敵対し、憎みあい許しあい愛を分ち合う。 男たちが、「もしかしてオレは彼女のこと何も知らないんじゃないか?オレの思い描いていたのはオレの創り出した幻影なのかも」って思うところで大きく頷き、「だけどそれでもいいや。彼女はオレにとってオレだけの彼女だもの」と自らを癒すところで手を叩き大笑い。「男心」を描いた他に類を見ない、正直で等身大の、しかし意外と奥深いイケテル映画だと思います。たぶん製作者の意図とはだいぶズレてると思いますけど、大絶賛!です。 「キサラギ」 2007年 日本映画 監督 佐藤裕市 脚本 古沢良太 5人の男たち 家元:小栗旬 オダユージ:ユースケサンタマリア スネーク:小出恵介 安男:塚地武雅 イチゴ娘:香川照之...
minori
2008-05-09T21:16:59+09:00
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「フリーダム・ライターズ」
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あたしの周りの、この映画を観た人たちが口を揃えて「すごくいい映画」といっているので、だいぶ出遅れてますが、ようやっと観てみました。うん、いい映画でした。正攻法の、ぐっとくる。涙も出れば、心も熱くなる。自分の生き方を反省したり、教育の現場を心配したり、表現することのパワーを再確認したり。 ヒラリー・スワンク主演の映画、「ミリオンダラー・ベイビー」と、「ボーイズ・ドント・クライ」の三本観ましたが、それぞれ見た目も性格も全然違う人物を見事に演じ分けていて、ごっつうプロやなーと、フーサン注目女優の筆頭です。「ボーイズ・ドント・クライ」のブランドン、あのサラシ巻いた(いや、ナベTだったか?)引き締まったボディ、きれいだったなー。さてさて。 今回のヒラリー、理想に燃えてます。影で支えるのはお父さんです。いわゆる「父の娘」ですな。高い自尊心と社会的野心、人生は自己実現の長い旅路です。どうやらええとこのお嬢さんで、普通なら大企業のCEOでも目指すような学歴の持ち主らしいです。そんな彼女が自らすすんで選んだ赴任先は人種差別や貧困、暴力に日々晒され、過酷な闘争の中を生き抜いている、お勉強どころではない、大人の言うことなんてきかない生徒ばかりの、いわゆる「サイテー」の高校です。アメリカ社会はいい意味でも悪い意味でもかなーりダイナミックなところらしい。これだけ環境の違う育ち方をした教師と生徒が遭遇するところを日本社会で想像することは難しいです。日本社会にも貧困はある、暴力はある。バカよばわりされている生徒ばかりの学校だってたくさんある。ところが、アメリカ社会ほど地域差や階級差としてカタマリとして目に見えてこない。日本社会の差別って、相互に見張ったり見張られたり隠蔽したり無視したり。より内包的でより陰湿なんです。なんかいやだねー、暗くなっちゃうねー。 ダイナミックといえば、つい最近、NHKの特集番組で中国の教育現場を紹介するものがありました。経済特区、広州の新興中産階級に生まれ、高層マンションに住み、毎日たらふく食し、両親の期待に応え、お勉強に専念し、この度めでたく理系大学の最高峰精華大学を主席で卒業の運びとなったエリートお嬢様。このお嬢様の地方貧困村でのボランティア教師体験を取材したものでした。お嬢様は理想に燃えて夢を描いて、何日も列車にゆられて貧困村にたどり着きます。しかしそこは、とても同じ国とは思えない貧困ぶりなのでした。電気はねー、食べ物はねー、仕事はねー、社会保障もねー、しかし生徒はやる気マンマン。学歴を手にする以外、このとんでもねー貧困から立ち上がる術はないから。早朝4時、夜明け前、生徒たちは教科書を手に続々と外灯の元に集まります。すべてを暗記しようとブツブツとつぶやき白い息を振り撒いています。寒そうです。悲壮感漂ってます。お嬢様は生徒の家庭の事情に苦悩し、励まし、社会の矛盾を思い知り、自分は恵まれていたといって滂沱の涙を流します。都会に戻ったら人々のために働きたいと、人間的に成長し、エリートとしての決意も新たに帰郷していきます。生徒の方もエリートお嬢様に出会ったことで、目標を手放さずなんとか頑張っていけそう、というところで番組は終ってます。一応は前向きに。 中国のダイナミックさはまた独特で、政府が無策だからこんなことになってんだろっ、というような批判の声など届きません。反対に政府から、豊かになりたければ勉強しろっ、というメッセージが運ばれてきて、皆その国策にからめ取られて、もうそりゃあ猛然と勉強するしかないのです。若者は泣きながら歯を食いしばって、うそでもいいから未来を信じます。それでも希望は希望だと思わないでもありません。 さて、フリーダム・ライターズの本当の主人公は生徒たちが4年間書き綴った日記です。自分の力じゃどうしようもない現実を訴え、心情を吐露していくうちに、そんな中でも自分の行動は自分で選んでいけるのだと書き手が気づいていく。憎み合っていたクラスメイトが、人種間の抗争を超えて、同じ痛みを分かち合う仲間になっていく。生徒たちはリスク覚悟で新しい自分になろうとします。相互扶助と友愛関係がクラス内に創りあげられていく。 それであたしは、濃密な関係というものは、もともとそこにあったのではなかったか?と、はたと思い当たりました。憎みあい、鼻を突き合わせて殴り合う、非常に近しい関係が。憎しみとは、憎む相手を身近に肌で感じるものだと思う。それは、実は、恐ろしいことかもしれないけれど、相手と重大なものを共有する関係であるのだと思う。あたしは映画で描かれているような、心を開いてみんな友達になったというような簡単なことではないだろうと思う。友達は好きになったけど、相変わらず○○人は嫌いと思うことだって可能だから。生まれ出た憎しみはどうやっても消すことはできないのだと、憎しみを抱えながらも同じくらいの、もっと大きながっちりとした友愛関係をもまた、生み出していくしかないのだと。それは憎んだ人も憎まれた人も等しく背負っているものなんだろうと、そう思いました。...
minori
2008-04-12T12:29:49+09:00
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「ライラの冒険―黄金の羅針盤」
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ドコモ茸も、スイカのペンギンも、キティちゃんも、ペコちゃんも、ケロケロケロッピも、クマのプーさんも皆、架空のドウブツみたいなもので、キャラクターと呼ばれ、布や紙上にプリントアウトされ、カバンや携帯電話にぶら下げられ持ち運ばれ、ちょっと神社のお守りみたいな感じでもあり。あるいはぬいぐるみとして物体化され窓辺に飾られたり、ベッドのまくら周りを取り囲んだりしている。このキャラクターが一人で動いたり、話し掛けてきたりしたら、どんなに楽しいことだろう。キティちゃんの歩く姿なんてたまらなくかわいいだろうな。スイカペンギンはCMの中で急にエレキギターを派手にかきならしたりして、ずいぶん驚かされた。プーさんと語り合うことができたらきっと、ダライラマと語らう以上の体験になるような気がしなくもない。 或いは、犬猫に代表されるような小型のペットを飼い、携帯電話の待ち受け画面に「ウチノコ」の笑顔(?)を飾り、暇さえあれば愛で、指先で画面を撫でててさえいる。コノコと言葉をかわせたら、コノコといつもいっしょにいられたら、通勤中も仕事中も旅行中もデート中でさえ、離れることなく、いつもコノコを身近に感ずることができたら、ペットを持つ人は皆、そう思わずにいられないのでは。 ペットもお気に入りのキャラクターも、ちょとなんだか自分の分身みたい。なんでも話せる親友って感じもする。人間どうしの仲とは別のもっと特化された、二者だけの閉じられた関係。言葉が通じない以上に魂で触れ合おうとする、なによりも純真な関係。そしていざというときには、例えばこちらの気分が落ち込んでいるようなときには、身をすり寄せて全身そして全霊で慰めてくれようとする、何の説明も求めず、ただ一心になろうとしてくれる、どこか良い所へ導いてくれているかとさえ思える、ただそこにいるだけで。何にも換え難い、いとおしいペット。 与えられてきた素晴らしいものを一つひとつ使い尽くし、食べ尽くし、破壊するままに、ただ享受してきただけの邪悪な人間が、与えられてきたものを使い尽くさず、食べ尽くさず、破壊よりは自らの死滅を選んできたドウブツと関係が結べるとは、今まで気がつかなかったけれど、もしかすると人類最後に残された素晴らしい恩寵、「与えられたもの」なんじゃないか。あたしは珍しく殊勝な気持になった。映画「ライラの冒険」を観て。 ライラの世界はこの現実世界とパラレル・ワールドで、良く似ているけれど、何かが違うという設定になっている。ロンドンの風景も、流浪の民ジプシー(ライラの世界ではジプシャン)も、ホッキョクグマ(ライラの世界では鎧グマ)の生態も(これはかなり違いますが)、空飛ぶ乗り物も、見たことはあるけれど違うもの。そんな近くて遠い別世界。その中で、最も目を引く大きな違いは、人間には一人ひとりに必ず<ダイモン>がいるっていうこと。 パンフレットによると、<ダイモンdaemon>とはギリシャ語で、デーモン(悪魔)の語源になった言葉だとか。いつも自分のそばにいる神秘的なもの、魂のようなもの、そんな感じ。それぞれの<ダイモン>はその人間とは似ているけれど、正反対の性格を持っていたりもする。例えば勇気溢れる主人公の少女ライラの<ダイモン>はかなりの臆病者、ライラは<ダイモン>の「やめた方がいい」という助言をいつも無視して、リスクに向かってずんずん進んでいく、ハイリスク・ハイリターンのファンドリーダーのごとく。たぶんライラには「やめた方がいい」という慎重派の声が必要なのだろう。その声を受けてよりいっそう勇気が湧くのであろうし、慎重にもなるのであろう。とにかくいつだって、自分は一人じゃないんだということが、その人にどんなに勇気を与えることか。 この後に続く予定の、第二作、第三作も含んだ、ストーリー全体のキーパーソンであるらしい、ニコール・キッドマン演ずるところの、コールター夫人と<ダイモン>の関係がまたふるっている。金髪碧眼の美しき謎の未亡人、その<ダイモン>もまた輝く毛並みのゴールデン・モンキー。夫人は苛立ちのあまり一度、自らの<ダイモン>に平手打ちを喰らわしてしまう。<ダイモン>と本人は肉体の感覚も繋がっているので、当然夫人の頬も同じ痛みを感じている。心と肉体と両方の痛みに打ち震える二人。そして抱き合い、お互いに心から慰め合う二人。ああ、倒錯ってこのことよね。。。 なぜか急に、自分のフィギュアーを大量生産し、ギャラリーの床一面に並べて、同じ格好をした作家(あたし)自身がオーディエンスを出迎える、という展覧会をしたくなり、展覧会後はみんな(誰?)にフィギュアーを配るのだ、という企画を友人に、自慢げに話すと、「欲しくないよそんなもん!」と一蹴された。なんで欲しくないのかな?ステキな贈り物じゃないかな?あたしはしばらく考えてみた。そうだ、みんな欲しいのは自分の<ダイモン>なんだ。人のものもらっても邪魔なだけだよ、気持悪いだけだよ。どこまでも自分中心だな、お前って奴は。心の中で誰かの声が聞こえました。<ダイモン>、姿は無くても、あたしの心にも住んでるのかもしれません。 「ライラの冒険」久しぶりに心躍るファンタジーの王道です。 「ライラの冒険―黄金の羅針盤」 SF/ファンタジー 2007年 アメリカ...
minori
2008-03-31T00:04:14+09:00
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「余命宣告ファンタジー映画」特集
http://www.lovepiececlub.com/eigaranran/archives/001395.html
お久しぶりですー!今回は「映画座談会」第2段アップ!に寄せまして、オススメ「余命宣告ファンタジー映画」ってことでいくつかご紹介しようと思います。「余命宣告ファンタジー映画」ってなんだ!?とお思いでしょうか。余命宣告ということ自体がすでにして、フィクションの世界ではファンタジーとして扱われているのではないか?はたまたそのことが翻って、現実の社会や医療現場でさえ気づかぬうちに、わたし達をとりこにしていないか?という思いつきから、敢えてファンタジーと呼んでみたということなのでございます。またそのような視線で映画を観てみますと、まさに!本気で、驚きの、あるいはすてきな想像力豊かな、さまざまなファンタジーが語られていることに気づかされもするのです。はい、では、どうぞ! 「死ぬまでにしたい10のこと」★★★★ 原題 My Life Without Me 2002年 スペイン=カナダ合作 監督・脚本 イザベル・へコット 原作 ナンシー・キンケイド トークの中でも話題になりました。数少ない(日本ではおそらく皆無)の、女性による女性の生き死に語りの映画です。余命わずかの診断を受けた23歳の主人公アンは、短すぎる自分の全人生を受け入れるのに、少しだけ夜の雨に打たれます。このシーンは忘れ難く好きなシーン。何か常ならざるもの、語りえないもの、乱れた心と停止した行動を表すのに、雨に打たれることほどぴったりな表現があるでしょうか。雨に紛れて、彼女が泣いてるかどうかは判らない、そこがまたいい。彼女はその後、たくさん持っていたはずの可能性の海の中から、たった今、両手で掬い取れるだけのことを10項目書き出します。それを見極める彼女の視線はとても静か。特別なドラマなんて何一つない、どちらかと言うとついてない小さな人生だけど、彼女は、自分の居たこと、居なくなったことを、自分の思いで創り上げていこうとする。「死ぬこと」への余計なデフォルメがなく、だからこそ切なく心に残る「余命宣告ファンタジー」。 「天国の口、終わりの楽園」★★★★★ 原題 Y Tu Mama Tambien 2001年 メキシコ 監督・脚本 アルフォンソ・キュアロ ティーンエイジャー男子二人組みと魅力的な家出妻とのロードムービー。仲良し男子二人組だけど、ハイスクール卒業後の人生は大きく違ってしまう。格差社会のしがらみです。そんな現実からの逃避行、伝説の海岸「天国の口」を探しに行く旅は、陽気で気ままで、おまけに人妻はセクシーで自由奔放。ある美しい海岸にたどり着いたとき、彼女はそこに残り、この矛盾に満ちた実社会に二度と戻ってはこない。二人は卒業し道を分ち、やがて彼女の死を知り、隠されていた本当の旅の重さ、人生の重さを知ることになる。海を前にした彼女の清々しい後姿が印象的。都会のうだるような暑さ、廃屋の草だらけのプール、真昼の海岸の強い日差し、そんな生々しいメキシコの人と自然の描写が、この映画のシーン一つ一つを得難いものにしています。 「生きる」★★★ 1952年 日本 監督 黒澤明 たぶん、元祖「余命宣告映画」。志村喬の名演が全編を制しております。哀しくも滑稽で、孤独で、惨めで、切なくて。切羽詰った苦しげな表情に、そのジタバタぶりに、観ている方は涙を流しながら声を挙げて笑ってしまう。やはり黒澤は人間が好きだけど、意地悪だったんじゃないか?とすら思える、容赦のない人間性追及。意志を持つことの尊さは、人という生き物が弱いからこそなのだと、身悶えすら覚えます。 もう半世紀以上も前の映画で、ガン事情も随分違い、ガン=死神とすら、何度も発言されるのにはのけぞりますが、やはり人の生き死には赤裸々なものだと納得。テレビ版リメイクを観てしまった方、お口直しにどうぞ。トム・ハンクスによるハリウッド版リメイクも近々だとか。 「コンスタンティン」★★★ 2004年 アメリカ 監督 フランシス・ローレンス キアヌ・リーブス主演のホラー映画。悪魔払いのジョン・コンスタンティン、ヘビースモーキングでついに肺がんに。超能力を持ち、天国と地獄の狭間を制し、魔王ルシファーとさえ渡り合う彼も、病には勝てぬ。彼は、そのプロ根性と、死んで地獄へ落ちることの不都合に突き動かされて、いつにも増して仕事熱心。そこへ現われたるは美しき女警察官。彼女はその超能力ゆえの孤独と後悔に苛まされ・・・つまりコンスタンティンの唯一の理解者、未来のコイビトですな。テンポのいい展開、洒脱なジョーク、見ごたえあるCG、それと、キアヌ好きなんで、★三つ付けました。コンスタンティン命がけで、信心深いわけでもないのに聖書の教えを貫いた末、成し遂げる偉業!それは・・・禁煙。 以上四つ挙げてみましたが、他に「余命宣告ファンタジー映画」として”オススメしなかったもの”もいくつかあります。残念ながら、「象の背中」に及びもつかない、という理由で。まあ、あれです、アカデミー外国映画賞なんかも取ったという、「みなさん、さようなら」ですとか、父と息子の感動作「海辺の家」ですとか、実話を元にした「Life 天国で君にあえたら」ですとか。やはりこのへんのものでは「象の背中」の右に出るものはないでしょう。「象の背中」絶賛!というわけで、トークの方も合わせてお読みいただき、是非とも「余命宣告ファンタジー」なるものの理解を深めていただきたい!...
minori
2008-03-14T19:54:58+09:00
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「母べえ」
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吉永小百合が初めて母親役をやる、ということのためにNHKがドキュメンタリーを作った。♪ナンデダローヲナンデダロー?ナンデダナンデダナンデダナンデダロー♪(しつこくしてスミマセン)というわけで、「映画乱爛」2008年始めの一本de賞は「母べえ」に決定! 我が国において母を語ることはフェミ的に言って、ビミョーです。それは良妻賢母というものがウワバミさながら、なんでもかんでも飲み込んでくれていてこその「美しい国」スッポン、否、ニッポン!だから。『母は美しい、母は働く、母は耐え忍ぶ、母は強い、母は朗らか、母は歌う、母は料理上手、母は賢い、母は丈夫、ちょっとくらい無理をしてもダイジョーブ!ちょっとくらい殴ってみてもダイジョーブ!母はとにかく凄いんである。文句などなーい!そんな母が一家に一人の必需品。最近はそんな母の数が足りないから、少子化だのDVだの子の虐待だの冷凍食品だのという邪悪な世相が蔓延してしまうのであーる』 母を称えることすなわち、このような良妻賢母イメージを称え、ひいては男尊女卑国ニッポンを称えることになってしまう、のではないだろうか?!というのがあたしのフェミ的ジレンマの一つです。吉永小百合が初めて演ずる母親、称えられているに決まってるじゃん。どんな映画なのか観なくてもわかるじゃん。それでもわたしは観にいきました。「吉永小百合」が知りたくて。彼女はいったい何者であるのか。人なのか、幻影なのか。女優っていったい何なんだ? しかして、「母べえ」は反戦映画だけど、実は寸止めよろめき映画だというのがあたしの感想。ドラマの主人公はあたしの見たところ、母べえではなく、浅野忠信演じるところの母べえに恋する書生風出入りの青年、山ちゃんでした。ドラマはいつも男子にありきの山田映画。女子はいつだってサポーター。寅さんにしろ清兵衛にしろ、山田監督の描く男子をあたしは結構好きです。寅さんにはかなり感情移入しちゃいます。テーマソングをカラオケで歌うときは涙が出そうになるくらい。だけど、山田監督の描く女子には感情移入できません。なんか違う星の生き物みたいです。さくらにしろ母べえにしろ、人間としての面白みがないんです。人として真面目すぎると思います。でもきっと、山田映画の中のジェンダー・バランスこそが、この国のジェンダー・ファンタジー(なんじゃそれ?)を具現化しているのでしょう、とも思います。だからこそ人気があるんじゃないだろうかな。山田監督は理想の女性に恋してるんでしょうねきっと、理想の女性以外の女に用はないんでしょうね。 でも、よくよく考えてみるとこの映画、良妻賢母映画ではないかも。最愛の夫が突然囚われの身となり、哀れ留守宅を守るは、体重十三貫目(約48キロ)のか弱き妻。ちょちょちょちょ、こんな文句に目くらましされてはいけない。なぜなら、白百合のごとき彼女の周りには、サユリスト達が、蝶々さながらひらひらと、とっかえひっかえ舞っている。ご本人はそんなことどこ吹く風と、ひたすら夫を思い子を守り。けれどその場に存在しない夫なんて幽霊のようなもの、ドラマの設定としてはいないも同然。これは裏を返せば、言い寄る男を無碍に振りつづけるカルメンのような女ではないか?しかしながら、カルメンと決定的に違うのは、彼女自身が燃え上がることは永遠にないということ。日本男児のマドンナは永久に枯れることのない穢れなき白百合(造花?)、他人の奥さん。美しくも鈍感で貞節を守り微動だにしない。つまりお人形さんだ。オナネタだ。しかも寸止め。 「母べえ」鑑賞のツボ。主人公に感情移入するよりも、周りの男性脇役になったつもりで鑑賞しましょう。そのほうがドラマチックでステキです。みんなそれぞれオレの生き方に徹していて、時代との軋轢の中で儚い命をまっとうしている。山ちゃんは主役級ですが、鶴瓶演じるところの藤岡のおっちゃんもなかなかいい。無教養で下品だけど自分の価値観を行動の根本に据えている大したおっちゃんです。母べえはどうか?母べえは母べえの生き方をまっとうしている。夫を信じ子を守るという生き方、愛という生き方、母としての生き方、それが彼女の全身全霊、全部丸ごと母、母純度百パーセント。マジかよ。たぶん母べえに自分を重ねる観客はとても少ないでしょう。自分のお母さんを思い出したりするのでしょう。いつの間にか現実の母親と母べえのイメージが入れ替わっちゃったりして、ちょっと怖いね。 「吉永小百合」というイメージがわたし達にはあります。言葉をつくして説明する必要のない共通の認識が、サユリストでなくともあるはず。それは女優吉永小百合のたゆまぬ努力、立派なお仕事のたまものです。しかしこれほどのプロフェッショナルを、このまま「吉永小百合」を演じるだけにしておいていいのか?コン・リーだって、メリル・ストリープだって、ケイト・ブランシェットだって、イ・ヨンエだって、どれほどの多様な役柄を血肉化してきたことか。このまま「吉永小百合」幻想をもてはやすだけでは、吉永小百合の宝の持ち腐れではないのか?日本映画の女性像、ちょっと貧困すぎやしませんか。...
minori
2008-02-15T13:05:37+09:00
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高橋フミコから高山真さんへ
http://www.lovepiececlub.com/eigaranran/archives/001343.html
新年あけましておめでとうございます!今年もたくさんのステキな映画との出会いを楽しみに、張り切って「映画乱爛」連載していきます。よろしくお願いいたします。さて、新春リレーエッセイ、江川さんより「初めて心にガツーーーンときた映画ってなんですか?」とのバトンをいただきました。「ガツーーーン」ですね。ええ、「ガツーーーン」ですとも! 新年早々「ガツーーーン」発生。 世間並みにお幸せなお正月を演出しようと、今年は大人ぶって初親孝行、温泉宿に親兄弟を招待し、そこでちょっと深い話をの目論み。江川さんからもご紹介していただきまして恐縮ですが、このラブピコラムで連載していた『半社会的おっぱい』の抜粋が、『ぽっかり穴のあいた胸で考えた』という一冊の本になっています。江川さん、読んで下さりありがとうございました。お母さまの田原節子さんのことは、わたしにとって今なお鮮烈な出会いの印象そのままです。江川さんの連載『我が母ストーリー』によって、また何度も節子さんと出会い続けているかのような気がしています。続編を楽しみにしております。 で、『ぽっかり穴のあいた胸で考えた』の中で書いた通り、がんを患ったことを父親には秘密にしてました。なぜならば、てんてんてん、それは長い話になりますんで、お知りになりたい方はどうぞ本買って読んでね!いつか、打ち明けたときのことをご報告したいと連載中にも申しましたが、あっと言う間に3年経っちゃいました。やっと打ち明ける気になり、それでこの正月にお膳立てしたというわけでして、いやはや、まったく。さすがに期待を裏切らないと言いますか、うちの父親、予想以上の展開でした。 北国の山あい、みぞれ降る川景色、ひなびた隠れ宿の小部屋で、心づくしの正月料理をつつく小さな家族連れ。白髪の父親と、もうかなりいい年の独身娘ふたり。「あのさ、話があるんだけど」唐突につぶやくソフトモヒカン。「なんだ、結婚するのか?」「いやいやそういう話でなく、実は4年前に乳がんになってさ」「なんだと」「まあ、もう大丈夫そうなんだけど。それで、闘病記が本になったりもして」「ふーん」「まあ、その年になれば人生いろいろあらーな」(あれ?意外にあっさり?)小首を傾げるソフトモヒカン。「オレも事故で胃がつぶれたときは死ぬかもしれないと思ったもんだ」(あっ、オレ話がはじまってしまった)「そうだねー、あのときはお父さん死ぬかもと思ったよねー」「ちょうど一ヶ月で退院したんだ」「そうだったねー、すごく早かったんだよねー」(全然いつもの会話と変わらん)「ママのときはオレも大変だった」「そうだったねー」「あたしはあんまり覚えてないよ」「お前はまだ小さかったからな」「この豚シャブおいしいよー」「この辺の有名な豚だ」「この刺身もおいしいよー」(まあ、こんなもんでよかった。あまりショックがられても困るし)「本は売れてるのか?」「あんまし。後で見せる」食事が終わって、わたしもほろ酔い。調子に乗って、自著の朗読を始めてしまいました。父親の悪口をたんまり書いたつもりの『わたしのオヤジ』という章を、ちょっとビクビクしながらも。ところが当の本人は、悪口聞いて上機嫌になりました。「ふんふん、なかなか愛情にあふれとる。良い良い。ハハハハ!」どういうわけなのお?変な人。更に調子づいたわたしは他の章も朗読しつづけました。いつの間にか、スースー寝息を立てる老父。寝ちゃったらしい。何か平和じゃん。良かったじゃん。唯一残った聴衆の妹に「これはお母さんのことを書いたところだよ、『わたしの母は今で言うドメスティック・バイオレンスの被害者で、うんぬん。酔ってたけり狂う夫からしばしば暴力を受けていた、かんぬん』って、わけなんだ」すると寝ていたはずの父親が背中越しに「ふん、そんな本は売れんな!ただ愚痴がかいてあるだけじゃないか!お前に夫婦の何がわかる!結婚したこと無いくせに!」(きゃー、起きてたのお!)一天にわかに掻き曇りました。 それからは、お決まりの罵りあい。バカバカしいので途中割愛します。「もうお前とは付き合わん!ここから去れ!風呂にでもいきやがれ!」「うるさいよ!付き合わない人には命令もできないんだよ!」「まったくバカな奴だ。さっきまで楽しかったのに!」(なんじゃ、そりゃ)で、わたしと妹はもう一度温泉に浸かりにいきました。15分ほども経った頃でしょうか、なにやらドスドスいう足音が近づいてきて、突然、乱暴に、浴室の扉が開け放たれました。たまたま他の宿泊客がいなかったのは幸いでした。「こらあ!オレは帰るぞ!」ピシャリ!遠ざかる足音、ドスドスドス。スタタタタタ。入れ替わりに近づいてくる気ぜわしげな足音。「お父様が!この吹雪の中、車で帰るとおっしゃられて、お止めしたんですが、路上も凍ってますし、お酒も多少!ああ、どうしたら」「すみません。お騒がせして。喧嘩しちゃったんです。言ってもききませんから放っておいて下さい」「そんなあ」スタタタタタ、遠ざかり、また近づき、遠ざかる足音。湯船でただ天井を見上げているソフトモヒカン。「結局、ぶち壊しやん」とつぶやく。 以上、新春「ガツーーーン」でした。フーサン親子バトルは今年もまだまだ続きそうです。そして今思い出している映画は、学生の頃見たタルコフスキーの『サクリファイス』です。世界の終わりを予感した主人公の老人が自宅に火を放ち、気の狂った人として救急車で連れ去られて行くシーン。哀しくも美しい、火炎立ちのぼる羽生の宿。この映画を観た直後、わたしは一番わかってくれそうな友人に公衆電話から電話をかけ、涙ながらに感動を訴えたものでした。誰にとっても世界の中の、唯一の居場所であるマイホーム。燃え盛り、消失するマイホーム。人は愛しながら憎み、未来を願いながら破滅することをもできる生き物なんだと、そんなことを考えていたように思います。 そんなわけで、高山さん、好きだけど嫌いなものの話を聞かせて下さい。高山さんの優しさと毒気を、どうぞこのわたしに注入して下さい。...
minori
2008-01-08T02:59:46+09:00
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「グラインドハウス」
http://www.lovepiececlub.com/eigaranran/archives/001318.html
「ヤッター!」叫び声と同時に、天高く突き出される両腕。おお!ビクトリー!完全勝利宣言とともに、最高潮に盛り上がった興奮そのまま、突然、映画は終る。思わず椅子をけって跳び上がり、スクリーン上の彼女らに向かって歓声を送りたくなるワタシ。ブンブン腕を振り回して喜びを表現したい。しかし実際は、座った姿勢のまま両足を踏ん張り、拳を握って、誰にも聞こえないよう小さな声で「イヨッシャ!」とつぶやくワタシ。しばらく、久しぶりの快感・「頭の中真っ白」を堪能する。楽しかったなー。映画館を出ると清々しく絶好の秋晴れだった、とかいうのはうそで、その日の天気は覚えていない。まあ、そんな気分だったわけです。お久しぶりのタランティーノ、感想を一言、け、傑作だ。 「グラインドハウス」は二本の長編、ロバート・ロドリゲス監督「プラネット・テラー」と、クエンティン・タランティーノ監督「デス・プルーフ」と、間に挟まるいくつかの架空映画の予告編とで構成されている。単に映画作品というよりは、二人の映画マニアによる仮想空間、グラインドハウスの演出、ムービー・イベントというようなものだ。たまたまワタシはこれを、このイベントにぴったりの、館内にそこはかとなくトイレ用消毒剤の臭い漂う、新宿は歌舞伎町のとある映画館で鑑賞したのだが、残念なことに二本立てではなく、一本ずつの入れ替え制になっていた。興行収入が振るわなかったかららしい。けち臭いことである。 「プラネット・テラー」ももちろん観た。こちらも快作、或いは怪作。ワタシの一番ダメな映画分野はスプラッターで、次にダメなのがホラー。特にスプラッターものは、体に余計な力が入ってしまう。でも、これ「プラネット・テラー」だけは、鞭打ち症になるかと思うほど筋肉を引きつらせながらも、観てよかった!と思わせる稀有な作品だった。そういう意味でも超絶絶品映画と言わねばなるまい。だいたい、宣伝媒体をご覧になれば解る通り、かなりヤバイ感じ。セクシー美女の片足がバッツリと切断され、マシンガンがはめ込まれている。歩く姿はたどたどしく、ぐるぐる巻きの包帯も痛々しい。けれど美しく力強く赤裸々で、なんというか、オシッコをする牡犬のように片足を持ち上げてマシンガンを操る彼女を見ているだけで、倒錯的な喜びに股間がうずく。 このコラムでも度々、「女殺し」映画を批判してきた。まずは「グラインドハウス」はどうなのよ、という話。たくさん女が殺されてるじゃない。残酷シーンもてんこ盛りじゃない。その通りですが、何か?だってこれグラインドハウスだもの。足が吹っ飛んだり、キンタマ切り落とされたり、内臓飛び出たりしなくちゃ、ダメでしょ。例えば恋愛映画で恋愛を描くように、アクション映画でアクションを描くように、スプラッター映画は内臓を描く。それはテーマではなく方便、表現の目的ではなくて表現の額縁みたいなもの。 「デズ・プルーフ」は二部構成になっていて、前半では女の子グループが無惨にも快楽殺人者に全員ブチ殺されてしまう。無惨だけれど無念ではないのだこれが。女の子たちは最期まで全然恐がってないし、まさか殺人鬼に付け狙われているとはまったく思ってもみない。平凡でお気楽で楽しい女の子同士の時間を過ごしている。通常のスラッシャー映画では殺される側は散々、怯えて叫んで、殺さないでくれと嘆願する。その様を描くことこそが目的なんだろうと思う(あんまり観たこと無いけど)更に、死んでしまった彼女たちにしてみればそれは交通事故だったわけで、気の狂った男に間近で斧を振り下ろされたわけじゃない。これは決定的な違い、でしょ? そして、さも残忍そうな「プラネット・テラー」では、結局あんまり女の子は殺されない。もっともエグイ死に方をするのは、ワタシの見たところ、チンコが溶けて腐り落ちた、クエンティン・タランティーノ演じるレイプ犯だったな。タランティーノはこの役をとっても楽しんだに違いない。自分の体が腐り落ちるなんて、考えただけで怖くてゾクゾク。それをプロの技術で作ってもらって、自分の演技力で味わえるなんて、最高。 とにかく感心するのは、この二人の監督の想像力、その範囲の広さとバラエティーの豊かさだ。「グラインドハウスなんだからおっぱい見せろ」とか子供じみたこと言ってる日本男児も多いようですが、「グラインドハウス」というタイトルでただのグラインドハウスを作る映画監督がどこにいるのか。ノスタルジーだけで新しい作品を作ることに何の意味があるのか。B級映画スタイルだからといって、B級目線で観るだけで何が面白いのか。こういう発想の人はきっと、想像力の貧困を「おっぱいが大きいのはエッチだから」とかいう妄想で補っているのであろう。(余談ですが、「秘宝館」というタイトルで秘宝館を再現した現代美術作品があったね、そう言えば。日本男児の作品だよもちろん) 「デス・プルーフ」でスタント・ウーマンのゾーイを演じているのは、本物のスタント・ウーマン、ゾーイ・ベルだ。タランティーノがこの印象的な人物を創造したのは、彼女の存在がインスピレーションを与えたということに間違いはないだろう。全体の筋書きさえ、彼女なしには有り得ない。日本映画の中でこんなふうに描かれる女にはなかなかお目にかかれない。たいてい、オカンか、美人薄命か、従順な妻か、奔放な愛人。ああ、なんて物足りないのだろうっか。この違いはどこから来るのだろう。方や実在の女にまでも妄想の女を重ねようとし、方や実在の女からこそ新しい女性像を創りだす。 どんな映画かと聞かれ、「ベーゼ・モア」と「チャーリーズ・エンジェル」を足しておバカにした感じ、と答えた。「ベーゼ・モア」の衝撃はしかし、全てを捨て善悪を超えて手に入れた解放感と、それゆえに滅び、消え去ることを選ばなければならなかったことも含めての、ツンと鼻にくる悲しい衝撃だった。それに比べて、「グラインドハウス」の衝撃はどこまでも爽快だ。これは監督のジェンダー体験の違いによるのだろうか、なんてことをついつい考えてしまう。 結びに、この際、フェミニズムって言葉を映画のジャンルにしてしまおうと思う。「ベーゼ・モア」をフェミ・バイオレンス映画と、「チャーリーズ・エンジェル」をフェミ・アクション映画と、そして「グラインド・ハウス」をフェミ・テロ映画とワタシは呼びたい。さて、いつもより長くなりました。映画二本分だし。けれど、まだまだ何も語ってないような気もします。北原と坂井と高橋、三人の「ガールズ・トーク」の方もよろしく。それでもまだまだ語り尽くせない。やはり、是非あなたの目で確かめてみて! 「グラインド・ハウス」 GRINDHOUSE 2007年 アメリカ映画 「プラネット・テラー」 PLANET TERROR 監督 ロバート・ロドリゲス Robert Rodriguez 「デス・プルーフ」 DETH PROOF 監督 クエンティン・タランティーノ Quentin Tarantino...
minori
2007-12-07T22:15:52+09:00
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「NANA」と「NANA2」
http://www.lovepiececlub.com/eigaranran/archives/001235.html
あたくし、フー姐さんが少女漫画にボットウしていた当時流行っていたのは、「ポーの一族」とか「ベルサイユのばら」とか。とにかく決☆定☆的に。そりゃ、あたし的にってことだけど。あの頃のボットウ感をもう一度味わいたくて、今評判の少女漫画を大人買いすることも。最近は同時進行で映画になったりアニメになったりするので、そちらの方も目が離せない。しかしながらぶっちゃけ40代にもなると、頭真っ白になるほど(いや、髪の毛ではなく思考がね)夢中になるということはないです。脳内物質の量とか質とかが違っているから?かしら。とにかくマンガというのは、もう一つの体、空想ボディの五感を総動員して味わうような、こう言っちゃなんですが、大変リアル。 現刊行18巻大人買いするのはちょっと勇気がいったけれども、映画を観ただけでははっきりしないことがあったから、二晩かかって一気読みしてみました。面白かった。けっこう夢中になって読みました。けれどあたしは何かを確かめるどころか、益々もって「NANA」ワールドを彷徨うことになってしまった。主人公は二人。しかもDNAの二重螺旋みたいに切り離せない存在で、互い違いに表に出ては裏に回り物語を紡いでいく。しかも二人の恋愛は一つではなく、それぞれ細くなったり太くなったりしつつも、一つも終ることなく続いていく。別れながら互いに好き合い求め合う。すごい貪欲な主人公たち。フー姐さんは軽く眩暈を覚える。 はじめ映画を観たときあたしは、二人の主人公ナナとハチのレズビアン物語なのかと思った。実際この映画がロードショウされていた2005年頃は、女子高生がラブラブと手をつなぎ合うのが流行っていたとかいう話も聞いていたし。物語の軸には常に二人の互いを求める気持ちがある。けれどそれだけじゃなく、ナナもハチも男との恋愛に翻弄されていく。男との恋愛に傷つきながら、人生選択の重要局面に立ち向かいながら、心の支えは常にナナでありハチである。二人はセックスはしないけれど、キスしたり抱き合ったり同衾したりする。ナナはハチの妊娠を知り、嫉妬に狂って泣いたりもする。ハチはナナとの同居生活を捨て男の元へと立ち去る時に「わたしのヒーローはあなた」などと書いたラブレターを残していく。男たちはまるで二人の同性愛を形作るために周りを取り囲んでいるかのようだ。なのにどうして、何のセンセーションも巻き起こさず世間に受け入れられているのだ?わたしの確かめたかったことは、原作では同性愛をどう考えているのかってことだった。 しかし矢沢あいの頭の中はあたしの頭の中よりも数段複雑なのであった。同性愛か異性愛かという選択では毛頭なかった。「夢が叶うことと幸せになることはどうして違うんだろう」などと言いつつ、次々に欲望し、望むものを手にしていく主人公たち。現代女性のテーマ、仕事(自己実現)と家庭(愛)の両立は、ここでも大きなテーマになっている。この物語で二人の女子に芽生えたものは、どうやらレズビアン・ソーシャリズムと呼ぶべきものみたいだった。分かち合う女、励まし合う女、信じ合う女、認め合う女、そして愛し合う女。「女性の社会進出」というとき、その社会とは男社会、ホモ・ソーシャルのことであったわけだけれど、女にもそんな居心地のいい連帯があっていいじゃない。 「NANA」の隠された本当の価値とあたしは言う。それは、レズビアン・ソーシャリズムは家父長制家族を下支えしないということ。この物語の主人公たちの多くの子供時代は波乱万丈だ。親アル中だったり、親非情だったり、養子だったり、施設で育っていたり、天涯孤独だったり。子供時代を過ごした家族は「旧家族」、つまり壊れかけた古い家族の形態として描かれているのではないかと思う。そして物語は二つのバンドの歴史でもあって、互いのメンバーの交流がバンドに精気をもたらしている。つまりバンド仲間は「新家族」というべきものとして描かれていると思う。 回想の形で語られてきたこの物語はそろそろ終わりの時へと近づき、17巻、18巻とだんだん現在形で語られることが多くなる。数人のバンドメンバーがハチの子供を囲んで談笑している。特に本当の父親が大切な存在という扱いはない。どこにいるのかもわからない。失踪していたナナに焦点があてられ、夢を追い求めたナナの栄光と挫折そして復活の予感。ナナを挫折させたもの、それはおそらく実の母親の出現で、それはだから旧家族が新家族にパラダイムシフトする瞬間の軋轢ではないのか、と予想させる。 今、少女漫画にアドレナリン出まくりの女子たちが、自身で新しい家族を築こうとする頃、「家族」という形態がどうかわっていくのかと、フー姐さんは楽しみにしている。 今回はマンガランランになってしまいましたー。ごめんなさーい! 強いて映画を語るなら、あたしは中島美嘉が好き。。。。。 そんだけかい! では、また、次回、請う御期待! 「NANA」 2005年 「NANA2」 2006年 原作 矢沢あい 監督 大谷健太郎...
minori
2007-11-03T15:07:52+09:00
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「ヴォイス・オブ・ヘドウィグ」
http://www.lovepiececlub.com/eigaranran/archives/001182.html
チラシに、LGBTQとある。 皆さんよくご存知とは思いますが、ここでちょっとふれておきましょう。 L:Lesbianレズビアン、G:Gayゲイ、B:Bisexualバイセクシュアル、 T:Transgenderトランスジェンダー、そして新顔の、Q:queerクィア。 いずれもセクシュアリティをカテゴライズするもので、他にもパンセクシュアル、アンビセクシュアル、トリセクシュアル、インターセクシュアル、トランスセクシュアル、アセクシュアル、などなどと、ちらっとウィキペディアを覗いてみただけでも、「ドンダケ?!」と叫びだしたくなります。個人的にはフェミとか腐女子とかヲタクも加えていいのでは?なんてことも思います。たぶん却下でしょうが。この「セクシュアリティをカテゴライズする言葉」は、それを使うときのシチュエーションや意図や思惑や、そして時代によって、いくらでも変容していく言葉群です。生ものです。だからどれが正解ってことはなく、どの言葉を選んで使うかで、ある種の意志表明ができたりもするわけです。 さて、前置きが長くなりました。この映画は、もちろん、独立した一個の作品であるわけですけど、それだけじゃ語りきれない。いろいろなものが手を携えながら同時進行していくプロジェクトの一部であるから。むしろプロジェクト全体をつなぐ媒体みたいなもので、それは「作品としてはどうなのよ?」と言えなくもない。でも、もういいんだよー、そんなことは。わたしの記憶の中で映画が映画として独立して留まっていなくても、この映画にとってはまったく結構なんだよーという思いの方が勝っていく。 この映画は一面、ミュージック・アルバム『ウィッグ・イン・ア・ボックス』のメイキング・ビデオです。チャリティーなので、とにかくCDの売上増という重大な使命を担っています。アーティストそれぞれの録音風景、何度もやり直したり、アレンジしたり、歌詞をかえちゃったり。ヘドウィグという類まれなキャラでブレイクした曲を、自分のものにしようと格闘する、アーティストたちの素顔といったところ。ヨーコ・オノなんかは譜面をヒラヒラさせながら「これ今朝もらったのよー。いい曲ねー。」などと余裕をかまし、ぶっつけ速攻で歌いあげて、さっそうと立ち去って行く(ように編集されている)。ファンとしてはやっぱり凄いじゃん!の満足感いただきました。 それと同時にこの映画は、ハーヴェイ・ミルク・ハイスクールの意義を社会にアピールするドキュメンタリーでもあります。この学校はLGBTQの子供たちが安心して自分らしくすごせるようにと創られた特別な学校で、2003年にニューヨーク市から公認を受けるまでになった。そのことにもこのプロジェクトが大きく関わっているはずです。目的を達成するために、もっとも正攻法でインパクトのあるやり方、それは実際の生徒が積極的に画面で自らを語ること以外ではないでしょう。軽快なロックのリズムに映画全体が彩られているので、この子たちはカッコイイ、この子たちは勇敢だ、この子たちはとってもステキ、な気分で展開していきますが、自分を語ってくれた4人の生徒たち、メイ、エンジェル、ラルフィ、テナジャ、少しでも彼らの身になることができたのは、わたしの場合、むしろ映画を見終わってしばらく経ってからでした。メイがどうしてあんなに泣き虫なのか、エンジェルがどうしてあんなにアンニュイなのか、ラルフィがどうしてあんなにチャラいのか、テナジャがどうしてあんなにハード・フェミなのか。映画館で彼らと対面している最中には思い至らなかった。そんな自分がちょっと寂しいです。 まるで森の成長を短時間に縮めて早まわしで見ているように、 実際の歴史と物語りが、 ミュージシャンの歌声と4人の生徒の独白が、 フィクションと現実が、 映画を思い出すたび、 絡んで繋がり膨らんでいきます。 ヘドウィグはアングリーインチ ハーヴェイ・ミルクはゲイと公言して当選した初めての議員 WA! WA! WA! WA! WOW! WOW! WOW! WOW! 叫ぶのはオノ・ヨーコ ジョン・レノンは銃で撃たれて殺された ハーヴェイ・ミルクは銃で撃たれて殺された 切られたのはエンジェルの長い髪 自分の母親から親権を取り上げたのはタナジャ いなくなったのはラルフィ モデルの仕事でミッソーニを着ているのはメイ ニューヨークの真中で、森は成長する 声を挙げる人 守る人 手を振る人 拍手する人 メッセージボードに囲まれて登校するのは ハーヴェイ・ミルク・ハイスクールの生徒たち そんなふうに思考をうろうろさせていると、 わたしの記憶の中でこの映画は解体されてバラバラになってしまう...
minori
2007-10-08T05:24:02+09:00
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「ミリキタニの猫」
http://www.lovepiececlub.com/eigaranran/archives/001173.html
「ああ、こりゃあいい映画だなあ」初めて観たすぐあとは、ほのぼのとこんな思いに満たされました。それから、「すごいおもしろい爺さんだったなあ」「リンダって人は思い切ったことをするよ。ホームレスを自分の部屋に招き入れるなんて」などというようなことをぼちぼち考えました。一歩一歩映画館から遠ざかる間、「波乱万丈。すごい人生だよ」とか、「やっぱ金のこと考えないで、とことん芸術してるとホームレスになっちゃうんだ。気をつけよ」とか、「『シッコ』では医療保険のないひどいアメリカだったけど、この映画からは社会補償が意外と充実してるって面を見せられて、またアメリカのイメージ変わっちゃったな」とか。まあ、映画のディテールを一つ一つ思い出しては感心しつつ、もぐもぐ草を噛む牛のように、いつまでも反芻していました。ずっともぐもぐしていたい、複雑な味の、うんまい映画でした。 翌日もまだもぐもぐは続きました。「そう言えば○○さんも、日本人強制収容所にいたと言ってた。『アメリカなんて大嫌いだ』と言いながら、でもアメリカ大使館に勤めていて、仕事には誇りを持っているみたいだった。フクザツさあ」とか、「リンダの部屋はわたしの部屋よりも狭いぞ、ゼッタイ。それであんな爺さんと共同生活するなんて、とても真似できんわ」とか、「わたしが映画で観た二人のやり取りは、二人の間で起きたことのほんの一部なんだ」とか、「もっとたくさんミリキタニの絵が見たいなあ」とか。そのうちに、ひょっとするとこの映画はなかなか消化しないのかもしれない、ということにだんだん気づいていきました。噛めば噛むほど、味が出るというのとは少し違い、ずしりと体の中に溜まっていく、そんな感じでした。 二人の出会いが映画の始まり。そしてどちらにとっても、思わぬ人生大転換の始まりでした。ビデオカメラを携えてニューヨークのソーホー地区に出かけることは、この監督の日常だったんだろうと思います。路上で暮らすホームレスの背景に、聳え立つワールドトレードセンタービルを写しこむことは、彼女の世界観を表す格好の素材だったに違いありません。地上で、ドキュメンタリー作家リンダ・ハッテンドーフと、路上の画家ジミー・ツトム・ミリキタニが出会い、互いのしていることに興味を交わし始めた頃、空中では、ツインタワーの横腹に次々と、アメリカン・エアライン機が突っ込んでいったのです。リンダの部屋に避難したジミーはテレビニュースを眺めながら、「昔と同じだ」と言いました。60年以上の歳月に渡って、その瞬間を捨てずに生きてきた、言わば「怒れる年寄り」の静かなつぶやきでした。 もぐもぐしっぱなしのわたしは、再び映画館に行きました。そして今度は思考回路をもぐもぐ動かすのではなく、ジミーの存在にただ付いて行きました。自分の心を空っぽにして、映画の中のジミーに伴走する魂となって、凍てつくニューヨークの路上で寝、雨に降られ、風に吹かれ、リンダにわがままを言い、絵画教室で教え、次第に背筋を伸ばし、赤い帽子を被り、猫を遊ばせ、歌をうたい、新しいアパートに住み、誕生パーティに人を招き、ツールレイク強制収容所跡を鎮魂に訪れ、車中から夕日を眺め、60年ぶりに肉親と再会し、そして絵を描きつづけました。その間わたしはずっと、自分の涙に頬から首筋、胸までを包まれていました。恥ずかしげもなくただ泣いていました。暖かかった、表面の皮膚も、内側の心も。それでやっと気づきました。この映画は「再生の物語」だったのだと。気づくのが遅いです。そんなことチラシを見ればわかりそうなものなのに。 わたしは初めて、自分が傷ついている一個の年寄りであることを発見しました。まだまだジミーに比べれば若い、しかも苦労知らずでしょう。平和な日本で、頑丈な屋根の下でのほほん暮らし。しかし、魂の奥底で、わたしたちは自覚するよりずっと傷ついているのではないか?例えば、ヒロシマ・ナガサキ原子爆弾と聞くたびに、日本軍「従軍慰安婦」と聞くたびに、アウシュビッツと、サラエボと、チェチェンと聞くたびに、パレスチナと発するたびに、ウガンダと、アフガニスタンと、イラクと発するたびに。少しずつ小さな掻き傷が心に刻まれているのではないか?いつしか掻き毟るのに慣れてしまい、生傷の絶えない状態に気がつかないのではないか?わたしたちはわたしたちの世界と共に、誰もが血を流しているのではないか? リンダとジミーの出会いは、9・11のもう一つの大事件なのかもしれません。どこそこで蝶が羽ばたけば太平洋でタイフーンが発生するというような、そんな極小の、しかし、やがて大きく世界を変えていくかもしれない「大事件」。それを目の当たりにしているという思いが、わたしの頬を濡らすのでしょう。この映画には確かにそんな途方もない力があるように思います。柔らかくて率直でタフな力が。 ハッテンドーフ監督はこのドキュメンタリーを完成させるのに5年の歳月を要しています。インタビュアーの「なぜ?」という問いに、「お金がなかったから。女性監督ではありがちな話。編集に9年かかった人もいる。わたしはラッキー」と答えています。粘り強く諦めない、柔らかくて率直でタフな、リンダみたいな女が、今もどこかでパタパタと羽ばたいている。簡単には飛べないけれど、確実に空気は動き、対流を始める。 ミリキタニの猫 THE CATS OF MIRIKITANI 2006年 米国 ドキュメンタリー 監督:リンダ・ハッテンドーフ 配給:パンドラ 公式HP:http://www.uplink.co.jp/thecatsofmirikitani/index2.php 東京 ユーロスペース、 愛知 シネマスコーレ、 広島 シネツイン1 その他順次上映...
minori
2007-09-20T16:18:44+09:00
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「シッコ」
http://www.lovepiececlub.com/eigaranran/archives/001161.html
まるでこの世の天国と地獄。医療費がタダの国、イギリス、フランス、カナダ、そしてキューバ。対するは、国民皆保険制度のない国アメリカ。この映画は地獄に住む可哀想なアメリカ人を通して考える、人間の、命の価値の物語。ちなみに日本にはありますね国民皆保険制度。よかったですね、よかったですか、日本の皆さん。 映画の冒頭で、民間の保険に入っていない人がどんな目に会うのか紹介されています。切断した指全部を治す金は無い。どの指を諦め、どの指をくっつけるのか。この人は生きている限り、寸足らずの指先を見ては、自分の身に起きた「ソフィーの選択」に胸を痛めることでしょう。話は続く。例え保険に入っていたとしても、いざとなったら理不尽な難癖をつけられて、保険金は支払われない。22歳で子宮頚がんになるはずがないと言われるとか、保険会社が違うからと急患の受け入れを拒否されるとか。がんで夫を亡くした妻が、高熱で子を亡くした母親が、涙ながらに物語る。けれど映画の中で最も多量の涙を流しているのは、保険会社の元顧客係り。ずいぶん良心が傷ついているみたい。 マイケル・ムーア監督はドキュメンタリー作家としてもっとも有名だろうと思います。権力者に直談判のパフォーマンスを交え、その波乱万丈のストーリーはへたな劇映画よりずっとおもしろい。事実を誇張しているとか、勝手に創っているとか、そういう批判もありますね。「やらせ」と紙一重、いや、これが本当の「やらせ」だ!くらいの勢いです。目には目を、プロパガンダにはプロパガンダを。作中で悪玉として追求されている人々にとってはもちろん、イノセントな観客にとっても彼は危険人物であるのかもしれません。それが何であれ、何かに安住すること自体に、あの巨体でゆさゆさ揺すりをかけてくる。彼の存在はきわめてアメリカ的。フロンティアで、正義漢で、自由で、現場主義で、陽気で、デブな白人男性で。白いアメリカ人が白いアメリカを批判するという安心感が受けている。彼を支持することで、良き白いアメリカ人となれるのだから。彼自身が黒人だったら、アジア系だったら、イスラム教徒だったら、女性だったら、これほど彼の手法が成功したかどうか。 そんな、マイケルのジレンマはさておいて、医療費タダの国々へ。イギリスの病院では、低所得者に交通費が支払われます。病院が金をくれることにマイケルはびっくり。わたしもびっくり。フランスでは医療だけに留まらない様々な政府からの生活支援が、フランス在住のアメリカ人によって報告されます。彼らはフランスで生活することに罪悪感すら感じるそうです。それはもう祖国喪失の域にまで達していないか?イノセントな観客のひとりとして、医療制度こそ国家の根幹だ、な気分にさせられてくる。 わたしの国では(日本ですが)タダじゃないです。保険は一本化されていませんし、負担金額は所得によって違ってきます。その上、同じ治療法でも部位によって、保険適用かどうか、これまたいちいち違ってきます。面倒くさいじゃないですか?それなりにコストもかかるでしょう?いっそのこと全部タダの方がどれだけすっきりするか、とズボラなわたしは思います。日本の医療制度は「SICKO」で語られているいくつかの医療制度の、ちょうど中間的な存在です。高額の最先端医療というものも存在し、なおかつ基本的なものは多少お安く提供されています。しかし、保険制度の医療概念が物質対価であることから、かなりヤバイことが派生しています。薬を出せば出すほど金になり、医師の技量はまったく金にならない。それでいきおい製薬会社が跳梁跋扈。例えば、明らかに効くとわかっている薬を、そのドクター懇意の製薬会社のものではなかったために処方してもらえず、寝たきりにまで追い込まれたがん患者を、わたしは知っている。きゃああ!暴露!その人はさまざまな資料を自ら調べて(寝たきりなのに!)転院し、今では趣味の畑仕事にいそしむ毎日。ああマイケル、この国にもネタは山ほど転がっているよ。 アメリカに国民皆保険制度が実らないにしても、せめて保険会社のCEOに良心があったなら、日本の医療費が全額タダにならないにしても、せめて厚労省や保険庁がもっとしっかりしていれば、などと夢見ないではおられません。国家やグローバル企業や軍隊といった大きな権力が、大きな権力どうしで手を携え、その狭間で小さな個人が翻弄されている図式はどこの国だってそう変わりはないです。9・11の救援活動で呼吸器を痛めた救命士が、キューバの医師に癒されて涙する「やらせ」シーンは、制度の不備を浮き彫りにする以上に、人間の心には助け合いの精神が備わっているということを感じさせてくれます。それはやっぱり希望なんだと、わたしの中の、限りある人間の命が、そう言いました。わたしはそれを聞きました。 シッコ SICKO 2007年 アメリカ ドキュメンタリー 監督・脚本・製作 マイケル・ムーア 各地映画館で上映中...
minori
2007-09-08T21:34:25+09:00
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「四角い恋愛関係」
http://www.lovepiececlub.com/eigaranran/archives/001146.html
ふと、そのジャケットが目にとまりました。肩に、腰に手を廻す男性にエスコートされながら、背後で手を握り合う二人の女性。しかも一人はウエディングドレス姿。婿らしきとキスの真っ最中。あたしは思わず、DVDケースを手に取り紹介文に目を通しました。結婚式の当日に花嫁が同性に一目ぼれしたことから始まるラブコメディものらしい。「なんだか楽しそー!」あたしはるんるん気分で、足取りも軽くレジカウンターへ。 で、結果。今のあたしの気分はどんなん?例えて言えばどんな音がする?カラカラー?ぽっかりー?それともシーン? 観始めてから5分もすると、弾んでいたはずの気分ボールから空気がもれて、手ごたえが鈍くなり、30分後には完全に動きを止めてしまい、映画を観ている自分の時間を前に進めるためには「つまんねー、つまんねー」と画面に掛け声を向けることで意識を覚醒させる必要さえ生じ。しかし、なんで、何がつまんないのでしょうか。 だいいち映画のタイトルが間違っている。この恋愛関係は四角くないです。「四角い」とされている根拠はたぶん、二組のカップルが入れ替わるという発想だけれど、それはあまりにも無理やり。二人目の男性、新郎の親友役のこの男、ストーリーの中核にはまったく無関係。ただ「女はみんなオレに惚れるはずだぜ」という自意識の高さが売り物で、ある種の男らしさを笑い飛ばすネタとして設定されている。だからそこにいてもいいけど、主人公チームからは外してください。まあ、日本語タイトルが失敗しているというのはままある話で、ここでことさら取り上げる必要はないかもしれませんが、そこが実は、かえってこの映画の本質を突いているのじゃないかという気もしてくるのが不思議。 「男女共同参画」って言葉ありますよね。いろんな立場の意見を取り入れている間に、始めの目的がどこかへいってしまい、かえって始めの目的を阻害することにさえなりかねない、という意味ですよね。この映画を観ているとなぜだかそんな言葉を思い出します。レズビアン、女性どうしの恋愛関係。それは決して「男女共同参画」的な発想では描けないのじゃないでしょうか。今までの社会通念の変化なしに、同性愛をこぞって賛歌する社会なんて有り得ないのじゃないでしょうか?では、この映画はハッピーエンドのファンタジーとして楽しめるのか?あたしの感想は上述の通り「つまんねー」です。だいたい賛歌する必要なんてないじゃん、人の恋愛なんて放っておけ、みんなで跡ついてくるな。 何がつまんないのかなー。あたしは考えつづけました。一つ思い出したことがありました。4年前にやはりDVDで観た映画ですけど、観終わってから釈然としない感じにつきまとわれた同性愛ものがありましたっけ。 「Kissing ジェシカ」主人公のジェシカはいい男を捜していた。けれどアプローチしてきたのは、知的でセクシーでススンダ恋愛観念を持つ、とってもステキな同性だった。しばらく付き合ってみたけれど、あまりにステキで追いつけない感じ。結局ジェシカは自分の凡庸さに見合う男友達との愛に目覚めて一件落着。ぷはぁ?あたしの感想を音で表すとこんな感じでした。 ある昼下がりのラブピ・オフイス。オカマとレズビアンと熊女(クマジョと読みます。あたしです)が遊びに来ていました。忙しく立ち働くスタッフの動線の真中で三人はお茶をしていました。 レズ「はぁ、今とっても落ち込んでる。ふられそうなの」 オカマ「聞いてあげるわ」 レズ「彼女、口説いたときはノンケだったんだけどさ」 オカマ「ノンケ口説きが趣味なの?」 レズ「そうじゃないけど、好きだったから。それで最近『kissingジェシカ』って映画観て、すごく共感したって言うんだよね」 熊女「ええ!つまんない映画だよ!」 レズ「二人の関係を少し考えさせてってことで」 熊女「ええ!映画で別れるっていうの!そんなバカな!」 オカマ「所詮、それだけのオンナだったのよ。早く忘れなさい」 レズ「とりあえず、映画観てみる」 そう言い残して、彼女は帰っていきました。その後、手の空いたスタッフもお茶に参加。 ラブピ・スタッフ「どうしたの?」 熊女「相手が映画を真に受けて、ふられそうなんだって。酷い話だね!」 ラブピ・スタッフ「へえー、どんな映画なの?」 熊女「あのね、つまりへテロセクシズムに都合のいいストーリーでね、、、、」 オカマ「バカね。もう男とつき合ってるに決まってるでしょ。映画は関係無いわよ、ただの口実。そこを見抜けないあの子が哀れね」 ぎゃっふーん。熊女(あたし)はそこでテーブルに崩れ落ちました。人間高等恋愛言語!この高級ラビリンスにおいて、あたしは所詮、ックマ、ックマ、クマー、クルマじゃないよレベル、であることを深く自覚いたしたのでありました。 さて、何がつまんないのかなーの結論です。理屈をこねれば、恋愛に退屈した人々が、「正しい男女の恋愛」社会にあって、新しい刺激的な体験として同性愛を、不倫と同じように、カンフル剤として位置付けている、と評することもできます。しかしもっと単純に、明快に発するなら、「振り向けばそこに愛」みたいな顔をして、ニコニコしながらつきまとう男たちが、ただただ鬱陶しい、そういうことかもしれません。クマジョとしては。 「四角い恋愛関係」2005年 20世紀FOX社 製作 オル・パーカー 監督...
minori
2007-08-24T20:10:40+09:00
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「選挙」
http://www.lovepiececlub.com/eigaranran/archives/001133.html
なんたって、笑える映画でした。観ているあいだ、なんど手を叩いて大喜びしたことか。別にウケ狙いの映画じゃないし、ふざける人は誰も出てこないし。それどころか、人々が大真面目なら大真面目なほど可笑しさはますます募ってしまう、そんな類のおもしろさ。この映画はタイトル通り、ある候補者の選挙活動を密着取材した、ただそれだけのドキュメンタリーです。音楽もナレーションもなく、映画の完成度を紡ぎだしているのは、監督のカメラワークと編集センスのみ。初めての長編、なんと自費、しかも撮影・録音から編集まで全部をひとりでこなした想田和弘監督は、これを「観察映画」と呼んでいます。ドキュメンタリーの真髄はそのメッセージ性にあると、この映画ではあえてそこを封印し、観察することに徹していると、つまりはそういうことらしいです。 街頭に貼られた自分のポスターをポケットカメラでパチリ。何やっとんじゃ?この映画の主人公、山さん曰く、「自分の顔がこれだけ貼られることはそうそうないですから」 山さんこと山内和彦は、小泉劇場時代の落下傘候補として川崎市議の補欠選挙に立候補してしまったしがない切手コイン商。しがないけれども東大出。山さんも映画の中で言ってます。「東大出だとそれで通っちゃうんだよね」ホント、まさにね。この映画、こんな感じのニッポンの「常識」が随所で学べます。わたしはつくづく考えました。ああ、「日本人で良くなかった」と。なぜなら、日本の国に対して無知だったら、日本の国に対して何の責任もなかったら、もっともっとこの映画を楽しめただろうに!と悔しく思うから。 体操着にピンクや黄色の帽子を被って、整列させられて、誰だかわからないおじさんの、何だかわからないご挨拶を聞かされて、ぐねぐねしている幼稚園児のみなさん。せっかくの運動会だっちゅーのにね。でも、がまんがまん。そのおじさんは自民党の県会議員さんだからさ。 政治の世界では妻ではなく家内と呼ばなくちゃ駄目!だって妻にすると、「え?、これがウチの家内です。丁寧にいえば、おっかないですか。はっはっはっ」という駄洒落が言えなくなっちゃう。駄洒落で一票入るかもしれないし。呼称問題は大切です。 政治の世界にも島あり。島から外れちゃ、同じ党内の候補者といえども、おいそれと紹介することはできない。そんなことそれこそ常識、ヤクザから自民党まで。 山さんは、こんなふうな理不尽とも思える「政治の世界」に、自ら首を突っ込んだとは言え、気の毒なくらい揉みくちゃにされていきます。くたくたになって、笑顔がだんだん腐っていきます。自民党と山さんの噛み合わなさ、そこがまた、この映画の価値を高めている、とわたしは思うのです。彼は稀有な、まったく稀有なそして素晴らしいパフォーマンス・アーティストです。素晴らしい政治家、あるいは素晴らしい市議会議員かどうか、わたしにはわかりませんが。でも、山さんはそのとき自民党に必要だった。そして課された役割をまっとうした。更にこんな映画ができちゃった。時代が山さんを必要としたのでしょうか、自民党の体質自体が問われた今回の参院選、その真っ最中に奇しくもこの映画が上映されるとは!実に意味深長です。 さて、昔々のうろ覚えなる記憶。たぶん、初めて大統領選に立候補したアルベルト・フヒモリに関するドキュメンタリー番組。首都から遠く離れた辺境の地から、インディオの長老が徒歩でやってくる。埃にまみれた服をまとい険しい目をして、「ここはフヒモリの事務所か?ウチの村では全員フヒモリに投票する。フヒモリに、お前を信ずると伝えてくれ」それだけ告げると踵を返して、再び荒野へと立ち去っていく。ほんの数分の滞在時間。腰を降ろすこともなく。「彼は三日三晩歩きつづけて来たといふ」というナレーションがうしろ姿を見送ります。言うまでもなく、それを見ていたわたしの感涙はちょちょ切れました。なんという本気度!たかだか投票のために!選挙のたびにこの長老の姿を思い出しては、投票行為の重さを自分に問うていたわたしですが、このたび映画「選挙」を観て、いかにも南米文学にありそうなこのシーンの意味するところが少し変わってしまいました。 要するにです、長老は票の取りまとめをしたということです。体張ってたから、なんだか立派なように、正しいように、美しいように見えたけど。映画「選挙」的センスで考え直してみると、それは何でも長老に従う封建的なやり口であって、匿名で一票を投ずることの意味とはちょいと違うのでは?ひょっとして面白いのでは?それから何年も後のことですが、長老の支持したフヒモリは結局あんなことになっちゃって、挙句の果てに日本の参議院選挙に立候補しちゃたりして、何だかもう、何がなんだか。その政権在位期間、フヒモリ20年、自民党60年。人間は騙されやすく、そして馴れやすく。 常識が覆されたとき、人はショックで笑うそうです。この映画は何の解釈も押しつけようとせず、すべての判断を観客に委ねています。だからこそ、心から笑ってしまう。何よりも観客を、人々を、信頼しますと、結局はそれがこの映画の持つメッセージ性なのかもしれません。...
minori
2007-08-04T02:24:58+09:00