51 ヴァギナって言われても

ヴァギナって言われても自分のおまんこのこととは思えなかった。ブランド物にはうといので、イタリアのバッグだとからかわれても、信じたと思う。実際、初めて耳にしたときは巨大ウナギかと思ったものだ。ヴァジャイナと言われては、ジャマイカの聞き間違えと思い、青い空と青い海を思い浮かべた。それからもう一つ、カントと言われてみても更に実感がない。カタカナ表記にしてしまえば、KANTもcuntも同じことだし。

だからせっかく見に行った「ヴァジャイナ・モノローグス」、もともと演劇嫌いのわたしは、始めの一言でつまずいてしまい、眠気すら催し、うとうとと居眠り続けた。夢心地の中、始終役者の甲高い叫び声が聞こえ、時折観客の笑い声が聞こえ、突然拍手が沸き起こるのが聞こえていた。

四年ほど前、米国でロングランを続ける「ヴァジャイナ・モノローグス」の評判を知り、現地で観劇して来た友人の、語る時の目の輝きを見、わたしの期待は大きく膨らんでいた。それからずっと日本での上演を待ち焦がれていたのだ。それなのに、いざとなったら寝てしまった。情けない。わたしが外国語になかなかなじめないのは、一つ一つの言葉が脳内で像を結ばないから、現実感が伴わないから、だと思う。それで、ヴァギナという単語についてイメージしようとすればするほど、非現実の夢の中、つまり居眠りの中に落ち込んでいくのは、それはそれで感覚的に間違っていない、ような気もする。

少し引用させていただく。

「この言葉を口にするには勇気がいる。ヴァギナ。最初はまるで、見えない壁を無理やり突き破るような気がする。ヴァギナ。今にも誰かにお仕置きされるんじゃないかと、びくびくしながら、そっと言う。でも、百回目か千回目かに、ふっとあなたは気付く。これはわたしの言葉なんだ、わたしの体、わたしのいちばん大切な部分なんだ。そして突然理解する、今までこの言葉を口にするときに感じていた恥ずかしさやとまどいは、自分の欲求に蓋をし、こうありたいという願いをくじくためのシステムだったのだと。」(ヴァギナ・モノローグ/白水社 イヴ・エンスラー著 岸本佐知子訳)

ヴァギナをウナギに、或いはバナナに換えて、そして口に出して読んでみても、わたしにもたらされる経験という意味において、あまり変化は無いのだった。わたしにとって、ヴァギナを口にするのに勇気はいらないのだから。

居眠りしながら考えた。わたしがわたしの体を、いちばんたいせつな部分を(そうなのかな?)取り戻すために必要な言葉は、わたしにとっておまんこ以外あり得ないのだと。

「おまんこー、おまんこー」

小学校二年、下校途中に立ち寄った公園で、同級生の男子が言った。「おまんこって言ってみろ。」「なんで?」「いいから言ってみろよ。」わたしはおまんこが何であるのか、そのときは知らなかったけれども、ピンと来た、この子は意気地無しなんだと。だから思いっきり、大きな声で叫んだのだ。「おまんこー、おまんこー。」公園は高台にあった。自分たちの家も含めて、新興住宅地の家並みが眼下に広がっていた。ランドセルを砂場に投げ捨て、ジャングルジムの上によじ登って、何時の間にか意気地無しもわたしの後に従い、二人で大きく口を開いて、何度も叫んだ。「おまんこー、おまんこー。」わたしとおまんこという言葉の出会いはかように牧歌的であったのだ。

あるフェミニストのエッセイで、女性器の呼び名について語るくだりを読んだことがある。幼い娘に性器の呼び名をなんと教えたらよいかと、友人から相談を受けたエピソードが綴られている。そして自分の娘に教えることも含めて思い惑うが、結論は出ない、という内容だった。文中具体的に女性器を指し示す単語はたった一つ出てくるだけだ。そのエッセイを日本語で読む人々の大半にはなじみの無い、アフリカのローカルな呼び名だった。

おまんこを隠蔽したのはひょっとして出版社の意向だったのだろうか。それとも彼女自身が自分の或いは娘の性器の呼び名として相応しくないと退けたのだろうか。わたしはそれを読みながら、「おまんこだよ、おまんこ、おまんこって言えばいいじゃん。」と独り言をつぶやいた。もどかしい思いで頭の中がむず痒かった。

おまんことは女性器のことを示すだけでなく、場合によっては性行為ということの隠語だったりもする。女好きの男性がすけべな思いをたっぷり篭めて、期待を抱いて、「へっへっへっ、おまんこさせろよ。」等と涎を垂らしながら、詰め寄ってくる図が思い浮かぶ。(イメージの貧困を反省しつつ、とっとと先に進ませてもらいます。)性行為のパートナーを単なる性の対象物体としてのみ認識し、己の欲望に耽溺し、ゆえに人のおまんこを横取りして、「へっへっへっ、」と欲情する生き物。その生き物を遠ざける意味で、おまんこという言葉をも遠ざけてしまうというのは、それはそうだろうよとわたしとしても思わざるを得ない。

それでも、自分の性器から呼び名を剥奪することは、自分自身を空虚な場所に閉じ込めてしまわないだろうか。おまんこが汚辱にまみれた卑猥な言葉だとして、その汚辱からおまんこを救い出せるのは、おまんこ持ちしかいないのだ。米国の女性を、そしてフィリピンの女性を、シンガポールの香港の女性を熱狂させた舞台「ヴァジャイナ・モノローグス」が日本に上陸したからには、わたし達は自分自身の性器を名無しのまま放り出しておくことは、もはや不可能なのだと思う。ついでに言っとく、日本語で会話しているときに、自分の性器をヴァギナなんて呼ぶフェミニストをわたしは信じない。何て呼べばいいのかと悩んでいる人の方がよほど信じるに足るのである、頭の中がむず痒くなるけれども。

先に引用した「ヴァギナ・モノローグ」の終わり近くに、ハート形は心臓よりもずっと女陰に似ている。もともとは女性器の象徴だったのではないだろうか、とあった。わたしはその言葉にピンと来た。そしてあの有名過ぎる形に温もりを感じ、好もしさを感じ、初めて愛の象徴として腑に落ちたのだった。



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