SOHO BABY というタイトルにしよう、とアラフマヤーニはつぶやいた。今回のパフォーマンス・フェスティバルの会場である「北大窯SOHO」と、上海在住の新鋭作家、衛慧(ウェイホェイ)の小説「上海ベイビー」とを掛け合わせたものだと言う。
「北大窯SOHO」とは北京中心部の東側、建国門外と呼ばれる地区にあるガラス張りの高層ビル群で、建って間もないこともあり、建築家の思想が実現されているという面が際立つ、色彩の無いしゃっちょこばった一画だ。それは他に似ているものの全く無い都市空間に忽然と現れた白い幻、まさに蜃気楼だった。完璧に舗装された広場では週末、人気歌手のコンサートが行われ、ルーズでカラフルな、或いはボディコンシャスな服装を、思い思いに着こなした若者が大勢集まってきていた。アラフマヤーニは彼らを見てにっこり微笑んだ。「ほらね、SOHO BABYがやってきた。」
アラフマヤーニはインドネシアのパフォーマンス・アーティストの中では草分け的存在だ。20代の早い時期から、もう20年以上も一線で活躍し続けている。彼女はずっと、まるで自分の身体を観客への供物のように扱ってきた。彼女は観客の前にその身を晒し、どうぞあなたの描きたいことを描いて下さいと黒い極太マジックを手渡すのだ。或いは言葉、或いは天使の羽、或いは記号、それぞれのアイディアで彼女の体は覆われていく。彼女の意思を肯定し、前向きなメッセージを書き込む人も多いのだが、その身体は大勢の手で陵辱され汚されていくように見える。全てのサインは彼女の身体上でスティグマと化すのだ。すると彼女の眼差しは力強さを増し、観衆の中にあって尚且つその存在は際立っていく。今回は特に、足跡をつけることも憚られるような真新しい空間にあって、彼女の身体上に人々の思いが開放されていく様は、切なく、先駆的でさえあった。さあこれでお仕舞いと彼女がお辞儀をし拍手が巻き起こった後も、観客は彼女を取り囲み、視線を離さなかった。立ち去ろうとしなかった。
「上海ベイビー」はその過激と言われる性描写ゆえに中国で発禁処分となり、発禁というスキャンダラスなレッテルが小説の価値をさらに高め、各国語に翻訳され、多くの読者の指示を得ている、と言うことだ。衛慧はこれを書いたときは27歳で、台湾版では彼女の自伝的小説と銘打たれたりもしたらしい。ちなみに日本版では「ポルノか新人類文学か?」と帯にある。あまりにセンスが悪くて、しかも時代に取り残されたオヤジの眼線を端的に語ってしまっていて、他人事とは言え、フーサンの肩も思わずガクリと落ちる。何とかならんか、ニッポン。
三回に渡って、北京のパフォーマンス・フェスティバル報告をさせていただいている。久しぶりの海外ツアーがよほど嬉しかったとみえ、まだまだお伝えしたいことは尽きないのだが、今回は出発前の命題に立ち戻ってみようと思う。「北京における女性の身体、それを知りえる何らかに巡り合うだろうか」と、渡北京以前、わたしは期待を持っていたのだ。だが、結果として直接的には巡り合わなかったと言っていい。北京においては女性の身体がかき消されていた。地元参加アーティストの中に女性が一人も含まれていなかったという事実は動かしがたい。参加していた女性の中国人アーティストはなぜか皆他の都市から来ていた。男性の参加者に比べれば人数も少なかった。
もちろん北京に女性のパフォーマンス・アーティストがいないわけではない。毎日通って来、始めから仕舞いまで熱心に作品を見続ける、長い黒髪、長身の彼女のことが気になっていた。口数が少なくもの静かな印象で、人を容易に虜にしてしまう妖艶で微かに狂気の気配が漂うような、特別な眼差しの持ち主だった。「ぬぬ、只者ではない。」内心、彼女に声をかけるチャンスが訪れることを願った。作品上演の合い間に、彼女が近くを歩いていたので、何気なく歩調を揃え、「アナタ、パフォーマンス・アーティストデスカ?」と訊いてみた。彼女は途端に嬉しそうに顔をほころばせ、思った以上の親しみを込めてどんどん会話を求めてきた。お互い同じくらいに拙い英語力で、決してスムーズな会話とは言えなかったが、おもしろいものだな、彼女の方でも、わたしに声を掛ける機会を待っていたようだった。
何しろボキャブラリーに限りのある会話なので、話せば話すほど謎が生み出され重なり合ってしまうのは承知の上で、わたしは彼女に「中国には女性のアーティストは少ないのか」と訊いてみた。答えは「少ない。政府が望まない」というものだった。うーん、むむ。北京は政府のお膝元であるので、パフォーマンスが反政府的とか反社会的とか判断された場合、容易に当局によって逮捕されてしまうという話はよく聞いていた。ほんの数年前まで、アーティストは薄氷を踏む思いで作品の上演に挑んでいたことだろう。
彼女の言いたかったことはなんだろう。女性のアーティスト、つまり、良し悪しに関わらず、本位不本意に関わらず、女性の身体を、そこに絡まる女性性に目をむけることを余儀なくされている人々は、未だに氷の上に取り残されていると言うことなのだろうか。周りが溶けてしまったので、なおさら孤立し、危うい身分のまま、時代の大河に流されていく女たち。或いは、大河に身を浸し、濡れそぼる身体も露に堂々と泳ぎきる女たち。「日本はどうなの」彼女の問いに、「多い。時代を語れるのは女だから。」とわたしは答え、お互いに大声で笑い合った。わたしたちは少ない言葉から生まれるインスピレーションを楽しみつつ、選択が限られているからこそ、説明を省き、単刀直入に思っていることを口にしていた。ああ、わたし達気が合うね、と素直に連帯気分に浸っていた。
アラフマヤーニのSOHO BABYもわたしの作品も、それに他の全ての参加作品も、黙って見守っていた彼女の身体に記憶されたのだ。結局彼女は最後に飛び入りと言う形で、フェスティバルのとりを勤めた。この5日間に行われた、ひとつひとつのパフォーマンスのエッセンスを身振り手振りで再現する無言劇のような作品だった。時間はわたしたちの共有する記憶とともにゆっくりと流れ去り、再び立ち返ることはできない。パフォーマンスとは何か、イマジネーションとは何か、彼女はその場に最も相応しい方法で、この数日間伴に過ごしたわたしたちの日々をはっきりと位置付けようとしていた。わたしたちはいかなるときも無言の隣人と伴にあるのだ。そしてわたしにとって、その隣人の顔とはいつでも、慈愛に満ちたしかし謎めいた眼差しを持つ彼女の顔であることだろう。