「諦めなさい。」 遠慮会釈無く、力強い口調ではっきりとそう言って、その人はカラカラと明るい笑い声を挙げた。「転移したらもう完治しないと医者は言うんですが、今のところ普通の人と同じように元気だし、抗がん剤も効いているようなので、ひょっとして治るんじゃないかと、何か治るような治療法があるんじゃないかと、考えているところです。」自己紹介がてら、自分の病状を説明し、最後にそう締め括った途端の、知り合ってからほんの数十分後のことだった。
わたしは半ば驚き、その人の顔を見た。厳しさと慈愛とを同時に宿す、柔和でありながら凛とした印象だった。がん患者に諦めろとは、がん患者以外誰が言えようか。いや、どんながん患者と言えども、この人意外、口にできない言葉なのではないか。わたしはこの出会い頭の一発で、田原節子さんに女惚れした。自分自身が毅然としていなければ、とても他人に求めることのできないレベルを、この人は悠然と求めてくる。そして高いところからではなく、対等な目線でまっすぐに挑んでくる。それを純真と呼べるなら、節子さんはまるで、恐いもの知らずの小さな子供のように純真だった。正直言って、わたしは多少怖気づいた。
「わたしの主治医に紹介して差し上げましょう。セカンド・オピニオンは大切ですよ。」節子さんはそう言って下さった。わたしは怖気づいた上に恐縮してしまった。内心、自分の主治医とどれくらい信頼関係を持っているのか、持とうと努力しているのかを問われたような気がしていた。「今の先生ともっと話してみます。」わたしはそう答えた。節子さんはそれがよろしかろうと言うようににっこりと微笑んだ。
その日はフェミドル・インタビューの初回で、確か5,6人の人数で節子さんの病室を訪れたのだった。入院されて間もなくのことで、検査や点滴の合い間を縫って時間をとっていただいていた。何を話すにしても記憶が鮮明で、年数やタイトルや人名を正確に述懐されるのが印象的だった。パジャマでいようが、ベッド上にあろうが、節子さんは根っからの「仕事人」だった。
その日から一年余り、ついに6年間の闘病生活に幕が下ろされ、節子さんは帰らぬ人となった。生前の節子さんにお会いできたのは、片手に余るほどの回数でしかない。それでも、わたしは節子さんから両手に抱えきれないほどたくさんのものを受け取った。それは同じがん患者だからというのではなく、節子さんという人が、いつでも誰にでも、誠意をもって接していらっしゃったことの断片だと思う。
最後に病室にお見舞いしたとき、すでに節子さんはご自身の力で身を起こすことができなかった。ほとんど声も出せないようだった。ただじっと目を閉じて横たわっておられるのだが、相変わらず凛として見えた。時折り、目を開けて傍らに張り付いている見舞い客の顔を見上げて下さった。わたしは思わず、節子さんの手を執り、「わたしの胸骨に転移していたがんは消えました。」と報告すると、掠れた微かな、しかしはっきりと聞き取れる声で、声と言うよりは、息で、「良かった。ずっと元気でいてね。」とおっしゃったのだ。と同時にわたしの手をしっかりと握り返して下さった。
節子さんはご自分が少ししか話せないのをよく承知の上で、無駄なく言葉を選んで話されているといったふうだった。例えば、「雑誌のインタビュー毎月拝読しています。」とわたしが言ったときには、うんと言うようにただ頷くだけだった。「節子さんにはたくさん励ましていただきました。」と言ったときも、もう一度頷いただけだった。そして「がんが消えました」と言ったときにだけ、節子さんはしっかりと目を開かれて、「ずっと元気でいてね」とおっしゃったのだ。わたしはこの言葉にショックを受けた。
これほど覚悟をし、どんな苦境にも立ち向かい、自分らしさを貫いてきた方が、やはり健康な身体を祝福されるのだ、と思うと胸が締め付けられる思いだった。かつて「諦めなさい」とわたしに教えた節子さん。健康な身体など無くたって、生きるのを諦めることはない、もっともっと生きられる、と病床からの精力的な活動で教えてくれた節子さん。その人が、わたしに最後に残していく言葉。
がん患者でなくとも誰だって、あんなふうに病気と闘い、あんなふうに社会人として仕事をこなすなんてことは容易ではない。節子さんは本当に特別な人だった。その抜きん出て優れた、傍から見れば、何も恐いものなど無いような節子さんが、本当はどんなに健康で生きていたかったことだろう。「元気でいてね」と言う言葉の中に、わたしは、一個の生命としての儚い願いが篭められているように感じたのだ。人間は時として神のように万能であり、時として蝶々のようにか弱い。
霊が見えるという友人がわたしに言った。「人間は死ぬと魂はみんなのものになるんだ。」ああ、そうかとわたしは納得した。節子さんが亡くなってから、節子さんの残していかれたものが何なのか、以前より見えてきた気がする。今現在、何かを変えようと奮闘する人たちのしていることが、どれほどの大きい価値を残していくものであるのか、実感できるようになった気がする。節子さんの魂が、わたしにもちょっぴり入って下さったのかもしれない。
わたしは節子さんの生きた時を超えて、まだしばらく生き続ける。わたしの中で、節子さんから受け取ったものが、継続し育っていくようにと願う。わたしは病室を退くときに、「また来ます。」と言った。だが、それはうそになってしまった。それなら、あの世で節子さんにもう一度会えることを願おう。その時に備えて、たくさんの話ができるような人生を送ろうと思う。
普通なら見舞いは断られるであろう重篤な状態になっても、節子さんの病室の扉は開け放たれていた。まるで「オープンハウス」だった。ご本人の意向であったことだろう。病人がベッドに横たわる姿、そのことを普通は書くべきではないかもしれない。ご本人の承諾をいただけない状態で、パジャマ姿の話をすることは非礼にあたるように感じる。それでも、それでも書かせていただいた。文字にして、わたし自身の胸に刻みつけることが必要だった。
わたしが節子さんから受け取った最大のものが、その横たわる姿にあったから。わたしも来るべきその時は、節子さんのように横たわりたい。それは休息ではなく、ましてや終焉を迎える姿などではなく、ただ、そのときに与えられた、出来うる限りの、自分であることの行為として。