最近、痒い。

最近、痒い。 癌が。そんなことってあるだろうか。痛いとは聞くが、痒いとは聞いたことがない。

癌細胞をお持ちでない方々には、なかなか実感していただけないと思うが、癌に神経は通っていないので、本来は無感覚なはずなのだ。癌が痛みを伴なうのは、大きくなった腫瘍が身体組織を圧迫するからであって、痛いのは癌ではなくてその周りだ。癌細胞そのものが何かを感じているわけではない。そう考えてみると、癌はやはり、自分自身の細胞でありながら、トータルな自分としての意識外にあるものであり、意思の疎通のはかれないエイリアンという感じがする。

皆さんも知っての通り、わたしは乳房切除手術を受けていない珍しい乳がん患者だ。たまにわたしのように、手術前に転移が確認され、手術をする段階は過ぎた、などと判断される方もある。けれど、主治医の治療方針によっては、それでも乳房を切除する場合も多い。実際、わたしと同じような状況の方と情報交換をしたことがあったが、結局は手術を受けられるということだった。

わたしとしても、このままでいいのかなと思わないでもない。できることは何でもした方がいいのではないか、と考えなくもない。けれど主治医の方針を、理屈では正しいと信頼している。彼はこのように説明した。「全身に全部でこれくらいの癌細胞があるとして(と言いながら、両手でバスケットボール大の大きさを指し示し)、胸の腫瘍はたかだかこれくらい(と言いながら、片手の親指と人差し指でピンポン球くらいの大きさをつくった)と思ってください。」「これくらい(と言いながら、わたしは両手でバレーボールくらいの大きさをつくった)かと思っていました。」「違います。」「イメージし難いですね。」「そうです。でも、して下さい。」「むむ。」専門家に違うと言われてしまえば、それ以上片意地をはるわけにもいかない。

その話をした頃は、まだ胸に穴が開いている頃だったので、主治医はこうも言っていた、「手術をしても、うまくいきませんよ。手術創がきれいにくっつかないでしょう。悲惨なことになりますよ。」「それなら、やめておきましょう。」わたしは冷静にそう言ってはみたものの、皮膚に浸潤するということは、そういうことかと少しぞっとしなくもなかった。

思い返せば、胸の穴よ、よくぞ塞がってくれました。あの頃の患部の写真を見ると我ながら、驚いてしまう、気色悪い。自分で掘って広げた穴であるとは言え。

わたしは一月に一度くらいの割合で、デジカメで患部の写真を撮り、A4にプリントアウトして、先月やその前の写真と並べて見比べてみる。一月くらいでは変化を確認することは難しい。いちいちの写真で、カメラと被写体の距離も違うし、角度も違う。光線の具合も違うし、フラッシュの反射加減も違っている。だから、大きくなった、いや小さくなった、ということは単純には比較できない。それでも、数枚のプリントを並べ、一生懸命見比べる。何度も目線を移し、細かいところをしつこく検討し、そして毎度同じ結論にたどり着く、「小さくなっている!」しかし、本当を言えば、よくわからない。大した変化はない。けれど、じっと見ているうちに、心の声が聞こえてくるのだ。「小さくなっている!」と。まあ、言ってみれば、それが気持ちいいというわけだ。

化学療法で縮めた腫瘍は、その後約半年から一年でまた増殖に転じるそうだ。今ちょうど、最後の投薬から一年経とうという頃だ。胸の奥の癌のかたまり、そのあたりがむず痒いのは、ひょっとすると、そういうことか。春になり土中が暖まってミミズがもぞもぞ動き出すような、そういう時期か。啓蟄ならぬ啓癌蟄。

反対にこういうことも考えてみる。すりむけた傷が治りかけてくる頃は、まだ再生したての皮膚の保護に必要なカサブタを、思わず、掻き壊してしまうほど痒いものだ。つまり、癌が小さくなって小さくなって、周りの組織が再生されてきている証拠、なのだと。まんざら的外れでもないのではないか。

わたしの癌に対する姿勢は甚だしく楽天的だ。それは今、まるで休火山のように、癌は増殖もせず、消滅もせず、じっとしているばかりだからだ。これがもし、日に日に膨れ上がり、臓器を破壊し身体的機能を奪っていくのであれば、わたしとしても、もっと積極的に治療方法を探したり、医師の論文を読んだりしていることだろう。

また、こんなことも考える。癌は宿主に似るのだ。呑気者の癌は呑気、せっかちの癌はせっかち。論理的な人の癌は論理的、神秘主義者の癌は神秘的。なぜなら癌はイメージの産物だから、などとわたしは考えるように、わたし自身はイマジネイショニスト(そんな言葉あるのか)なので、わたしの癌もイマジネイショニスト(では、フーサンの造語ということで)なのだ。

何を言わんとしているかというと、わたしが「小さくなった!」とイメージすることで、本当にわたしの癌は小さくなるのだ、ということをわたしが想像すると、本当の本当に癌は小さくなる、ということなのである。これは例えて言えば、映画のフィルムを逆行させるような、卵が先であればニワトリを先にするような。絡まった糸を終わりのほうから辿りなおして、解していくような、言えば言うほど抽象的になってしまうのだが、そのようなことだ。やり直しではなく、最後から始めるという感じだ。

主治医を信頼していると書いた。それは本当だ。本当だけれども、それは今のところ限定的な意味においてでしかない。だって、医者はわたしがいつか癌で死ぬと思っているから。医師の仕事は、この患者が余命をできるだけ長く、できるだけ楽に過ごせるように手助けすることだ、とそう考えているから。正直、わたしは違うふうに思っている。それはこうだ、わたしはいつか癌で死ぬ・か・も・しれない、と。この違いは微妙なようで、結構大きい。

わたしの癌が休眠中なのは、毎週こうして表現できる場をいただき、胸の奥に仕舞いこんでカタマリになってしまった「思い」に光を当て、解きほぐすことができるからだと思う。これをわたしは勝手に「エッセイ療法」と呼び、治療法の一つに数えている。


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