飾りじゃないのよ涙は ハッハ〜ン。そんなフレーズが思わず口をついて出た。ほとんど自動口述のように、わたしに鼻歌を歌わせたのは、10月2日付けで新聞に全面掲載された、大手化粧品会社の広告だった。
実物の1.75倍?くらいの、無表情な白人女性の大顔面。ピンクを基調にした完璧なメイク。左目からこぼれ落ち頬をつたう一筋の涙。紙面の端から顎のあたりへ重なる二行のキャッチ・コピーを読むと、この人が素的なリップスティックを手に入れたが故に、感涙しているのだろうかと想像させる。その二行の下に続く、小さな字のボディ・コピーを読み進めると、リップスティックにまつわる女性の物語の最後に「乳がん」の文字が登場してくる。それでやっと、この化粧品会社が乳がんの早期発見・治療を啓発するピンクリボン運動をサポートしている、という広告の主旨にたどり着く。一筋の涙から始まって、随分と回りくどい、誘導的な広告である。「女性美」を損なうはずの乳がんを、化粧品会社としての姿勢を崩さずに、広告の中に活かそうと苦労した結果なのだろうか。
この企業の広告をわたしはとても注目している。その理由の一つは、ピンクリボン運動をサポートする企業は他にもたくさんあるのだが、マスメディア上で、一般的な広告媒体で、これほど堂々とこの運動に賛同する志を宣言する企業は他に無いからだ。グローバル企業は社会貢献をアピールすることで企業イメージを高める必要がある。国際情勢の変化や人権運動に巻き込まれて製造過程や販売網にダメージが及ぶことを、極力避けなければならないからだ。日本の企業がまだもう少しこの問題に本腰を入れていないのとは対照的に、この企業は積極的にそのような風土をリードし根付かせようとしているかのように見える。
この企業の本拠地米国では、女性の8人に一人が乳がんに罹患すると言われており、乳がん撲滅キャンペーンやサバイバーの活動は、女性運動として政治的にも抜きん出た力を持っている。他のがん研究に回す予算まで取っていくと批判されるほどだ。その設立当初からずっと女性の権利に無関心ではなかったこの企業としては、「乳がん」をキーワードにすることは当然の成り行きだったのだろうと思う。そして今、罹患率が米国の後を追うように増え続ける日本において、戦略的に、乳がん撲滅キャンペーンの、まさに「顔」になることを目指しているように見える。
化粧品会社が乳がんを語れば、それは必然的に、乳がんに、つまり乳がん患者に女性性のイメージを纏わせることになる。それがまた、この企業の広告をわたしが注目しているもう一つの理由でもある。日本では乳がんに対する啓蒙は始まったばかりだ。多くの日本人には「乳がん」というもののイメージは希薄なのである。そこへもって、ある朝どんと、ビジュアル付きの新聞全面広告を目にするのだ。結構大きなインパクトではないだろうか。化粧品会社が届けてくれる乳がんのイメージとはどんなものであろうか。日本人の女性性に対するイメージを、よくよくリサーチしながら事業展開しているはずの外資企業なだけに、それはきっと、読み解かれ分析され再構築された、この日本社会が抱いている女性性イメージの客観的な鏡像であるはずなのである。
この10月は乳がん啓蒙月間だそうだが、5ヶ月前、母の日にも同様のキャンペーンが行われ、5月2日の朝、わたしはこの企業の全面広告にどんとショックを受けたのであった。
キャッチ・コピーからいこう。「ママのおっぱいは、ボクの宝物だもん。」2,3歳の男児と思しき子供が、母にい抱かれ、顔をこちらに向けている。その視線はおっぱいを空想中であるかのように宙に浮き、鼻の下を伸ばし口をすぼめている。そして最もわたしがインパクトを受けたのは、乳がん啓蒙キャンペーンの主人公であるはずの、おっぱいの持ち主である母本人の顔が見えない、ということだった。「お母さんが乳がんになることは家族にとって大問題だから、」というのがボディ・コピーの切り出し文句だ。顔の無いお母さん、鼻の下を伸ばした息子。日本のお母さんのイメージを、日本の母息子関係を雄弁に語っていないか。
「ママのおっぱいはママのものだよ、君はママのおっぱいからお乳を貰ったけれど、おっぱいは貰ってないよ。」わたしは空しく、新聞紙に向かってつぶやいた。「その鼻の下伸ばすのは止めなさい。」とも言った。そして、「お母さん、こっち向いてください。こっち向いて、言いたいことを言って下さい。」とも。紙面上に印刷物として固定されたペラペラのお母さん、振り向きたくてもできないことを知りつつも。
実際、乳房切除手術を受けられて、家族に申し訳ないと感じる方もたくさんいらっしゃる。だからこそ、この広告に描かれたシーンをわたしは受け入れ難く思うのだ。乳房を失うことの心理的負担を、どちらかと言えば軽減する方へ働きかけるのが、家族の思いやりというものではないのか。幼い子供の屈託の無さを借りて、自分のことより先に家族のことを考えるのがお母さん、例えがんになって命がかかっているときでさえ、と言っているのは誰なのだ。
ピンクリボン運動は乳がんの早期発見・治療を啓発するものだ。早期に治療を開始することができれば90パーセントは完治するということだ。そのことに間違いは無いだろう。けれどわたしは思う、この企業が募金運動のキャンペーン名に使っているフレーズ、「乳がんにさようなら」と言うのは違うのではないかと。早期に発見されてさえ、それは乳がん患者ライフのほんの入口に過ぎない。むしろ「乳がんにこんにちは」と言うべきなんじゃないかと。乳がん患者やそれを支える家族が、そして未だ乳がんに罹患していない人々が、「こんにちは」と言える勇気を持てることが、有効な治療に繋がっていくのではないだろうか。そのためには様々な方面からの多角的なサポートが必要だ。乳がんを撲滅するということは、そういう事だと思うのだ。
世界の「女性美」の規範とされる白人女性。ポーカーフェイスで、化粧の一刷けも乱れることのないその演出された泣き顔は、あなたにどんなインパクトを与えたのだろうか。どんなときにも仮面の下に、女の本心女の哀しみをひた隠しにし、何も語りかけてこないその「美しい顔」。それが女性美の理想であるのなら、あなたにとってそれはどういう意味を持っているのだろうか。