同じ人間でも立場が違えば、お互いに気持ちを推し量ることは困難だ。まあ、それは常識であって、今更ことさら、言い立てることでもあるまい、とはわたしも思う。敵と味方という立場の違いがどれほどの悲劇を生み出すかは、人類として地球上に生を受けたものであるなら、誰でもが多かれ少なかれ身にしみて思い知らされていることなのだから。
相手の立場になって考えるということを放棄した関係、これを敵と言うのであろう。敵に対しては自分の立場だけを主張してよいのである。それが敵だ。完全に屈した相手はもはや敵ではなく奴隷と呼ばれる。或いはザムザ(カフカの「変身」より)というのもある。つまり、目の前にいる相手が敵でも奴隷でもザムザでもない場合、相手の立場になって考えなければならない。例え難しくともお互いに理解し合おうとしなければならない。A「相手の立場になって考えなくてよいものを敵または奴隷あるいはザムザと言う」、B「○と△はお互いにそのいずれでもない」、C「だから○と△はお互いに理解し合わなければならない」。敢えて単純な三段論法に還元してみた。○=夫△=妻、あるいは○=親△=子供、または○=総理大臣△=フーサン。例えば、○=医者△=患者としてみよう。
「がん患者の不安に対する心のケアが重要ですが、患者がどのようなことに悩み、どのように解決しているのかわかっていません。そこで医療機関と患者会や支援団体の協力を得て、がん体験者に悩みを聞きました。」今朝の新聞に目を通し、この一文に「ムーン!?」と唸った。フムフムと読み流すにしては「わかっていません」は当事者にとって引っかかる言葉だ。日本の年間がん患者数300万人とも言われる今日、何人も何人もが何回も何回も悩みを語ってきたに違いない。イリオモテヤマネコの生態はよくわかっていませんとか、ヤマタイコクのあった場所はわかっていませんとか、そんな「わかっていません」だ、これは。がん患者の内面は医療関係者にとっては、隣人としてでなく、調査研究の対象としてあるのだということを、わたしは一患者として改めて知ったのである。
この場合の「わかっていません」に対するわかろうとする方法は、アンケートを集計し、最も多い悩みは何か、一般的ながん患者の心の苦しみとは何かを体系化して、それに応じたサポートシステムを構築する一助としようということなのだろう。それは一見科学的な方法なのだが、一人一人の患者にとってどれほど役に立つのだろうか、一患者としては
何だかあまり信用できないなあと思うのである。
例えば集計結果として、「再発の不安」が悩みの中でも多かったそうだが、そうなると、「再発の不安」にあまり関心の無い患者(フーサン)にとっては、この集計結果の意味が半分以下に減ってしまうのだ。フーサンの心のケアをするためには、一般化されたがん患者像は役に立たない。だとすればフーサンのような立場の患者の悩みを集計して応ずればいいのか。だがしかし、フーサンのような患者はとても少ない。?期の乳がん患者はがん患者全体の何パーセントなのだろう。更に、同じ病期の患者だからと言って、同じことに悩んでいるとは到底思われない。一人一人家族構成も違い、経済力も違い、死生観も愛も、ボディ・イメージも、政治的偏り方や宗教観も違うのだ。アンケートの文言を考えて、配って、回答を集計して分類してシステムに反映させている間に、フーサンは死んでしまうことであろう(百年かかるわ)。フーサンの心のケアがしたければ、フーサンの話を直接聞くのが最も確実で最も手早い。
がん患者の心のケアをするに当たって、科学的な調査研究や学問としての確立が無意味だと言いたいわけではない、決して。ただ、一般化された結論から生み出されるものは、ほんのわずかだと言いたいのだ。アンケートの集計結果は一つの切欠になるだろう、そして一つの切欠にしかならないだろう。その先は、一人一人の患者に対峙していくことでしかないだろう。なぜならがん患者の悩みとは、本質的には解決しないものだから。解決させることが科学の姿勢だとすれば、科学的な態度は、がん患者の前ではおのずと限界があると思う。死にたくないのに死んでしまう、これががん患者としての悩みの基礎だ。すべてはここから始まる。現代の医学では無理、つまり科学の力が及ばないということが悩みの発生地、悩みのふるさと。その根がたたれない限り、がん患者の悩みは時を越え形を変えて、押しては返す波のようにザブザブとその身を濡らすのである。
がん患者がなぜがん患者として悩むのか、それは変身したザムザとして扱われるからだ。ザムザは保険に入れない、ザムザはローンが組めない、ザムザは会社員として適さない、ザムザは結婚相手として相応しくない。ザムザは医者に見捨てられるかもしれない。ザムザは家族にとって迷惑だ。ザムザは人間より寿命が短い、ザムザは役に立たない。ザムザの気持ちは人間にはわからない。しかしそれはがん患者という括りの中だけの問題ではない。ザムザを他の言葉に代えて成り立つものはいくらでもある。誰だってその一つや二つは自分でも持っている。
お互いに理解し合おうとするのが、人間同志の関係の仕方として当たり前で、そこからはずれる場合を敵とか奴隷とかとする、というのがわたしの基本的な人間観である。違う意見の人もいるだろう。そういう人とは敵同志になりたくないので、よく話し合いたい。「お互いに」というところが重要ポイントだ。わたしはわたしを診療してくれるドクターの悩みや内面の葛藤をよく知らない。そんなものがあるのかとさえ思う。大方のドクターはクールに構え、患者に気取られるまいとしているように見える。あまりにクールで人間にすら見えない。それでなんとなく、わたしも気取られるまいとしてしまう。気取ってもらってこそ患者だと言うのに。自分の心のケアをしてもらう前に、わたしがしなければならないのはドクターを人間だと感じることだ。どうすれば、何を話しかければその切欠がつかめるのか、ドクターにアンケート用紙でも配ろうか。
敵も奴隷もザムザもいない世界が実現されるまで、わたしがこの世にいることは不可能だろう(千年かかるわ)。しかしせめて4年よりは長く生き延びて、ブッシュ後の世界をこの目で見たいと願うのであった。