モンスター 怪物、化け物。得体の知れない不気味な生き物。モンスターは人に非ず。だが大抵、モンスターと呼ばれるのは人である。とても人間とは思えないような人である。このことから、人間とは認定されるものであり、その合格ラインはかなり限定されているのだということが知れる。人間は人間社会を正常に維持するために、変な人を排除しなければならない、人間社会の構成員となるにはそれなりの資格が必要、変な人にその資格は無いと考えているということが解る。人間がもっとも脅かされ、恐怖の対象とするのは、自然の脅威でも神の懲罰でもなく、自分たちの同類、人そのもの、意思の疎通が計れない、何を考えているのかわからない人そのものなのである。
1990年イギリス人フォトグラファー、ジョー・スペンスは、自らのフォト・セラピーの一環として、太った中年の大きく垂れ下がった右おっぱいと、乳がんの手術及び再発のために、奇妙に歪んだ左おっぱいの上にMONSTERと書いて写真を撮った。いや、撮らせた。このフォト・セラピーは発案者兼被写体であるジョーと、写真を撮る協力者とのコラボレーションである。わたしは図録の解説を読んで、感心せずにはいられなかった。写真を撮ったのは何と、彼女の主治医だったのだ。<病>物語(ティム・シアード博士との共同制作)と題されたシリーズの、図録上の写真は全部で5枚。山ほど切られたはずのシャッターのほんの一部に違いない。*図録―1991年東京都写真美術館主催「私という未知へ向かって 現代女性セルフポートレイト」
一枚目の写真で彼女は青いバスローブのような、おそらくは病院内の患者服と思われるガウンを纏い、古ぼけたクマのぬいぐるみを抱えて頭を垂れている。主治医は脚立にでも乗っているのか、それとも跪く彼女に対して立ったままだからなのか、カメラの目線はやや上方から見下ろす位置にある。被写体は、悲しみに打ちひしがれているようにも、祈りを捧げているようにも見える。
2枚目の写真で彼女はガウンを大きくはだけ、一糸纏わぬ姿をカメラにさらしている。彼女の体に黒マジックでくっきりと書かれたMONSTERの文字は撮影前から書かれていたのだろうか、撮影中に書かれたのだろうか。どちらにしても、どうやら彼女自身が書いたのではなさそうだ。そうであるなら、そのアルファベットはもっと乱れているはずだから。わたしは空想する、一時カメラを手放した主治医が、彼女のおっぱいの前に少しかがんで、手渡されたマジックでM、O、N、S、、、と綴る姿を。彼女は全裸をさらしているが、顔面には左右アンバランスな仮面のようなものを着けている。表情を読み取れるのは口元だけなのだが、すぼめた唇は何かを発している。一体何を発音したのだろうか。“Iユm a monster.”か、“Iユm not a monster.”か。それともMONSTERらしく、ウーというようなただの唸り声か。この写真ではカメラの目線は、今度は主治医の方が跪いているような加減に、少し下方からになっているので、ガウンを広げて大きくなったMONSTERが、見る者に押し迫ってくるような迫力がある。
3枚目では、たくさんの道程を辿った後なのであろうか、それとも、写真の並びと時間の経過は無関係なのかもしれないが、彼女の体にもうMONSTERの文字はない。赤いハイヒールに手を伸ばそうとかがんでいる彼女をカメラが見下ろしている。4枚目は、ふざけたおっぱい形の飾りのついた、可愛らしいBOOBY賞リボンと、膨れ上がった腫瘍に乳首が埋もれてしまいそうな、ひしゃげた左おっぱいとのツーショットだ。そして5枚目の彼女は目を硬く閉じ、眉根を寄せ、しかし口元には微笑みを宿し、素肌の胸元にクマのぬいぐるみを掻き抱いている。その表情は最高度に崇高で複雑なので、彼女の内面を言葉に尽くすことは難しいだろう。誰も伴走し得ない地点に一人ある孤独を噛み締めているようでもあり、内奥にしまわれていた深い愛にたどり着き感動に浸っているようでもある。
フォト・セラピーは当然のことながら、第一にセラピーが目的だ。写真という技法を通じて自己表現することで、自分の内面を発見し、発散し、癒し、そして再生するために行うのだ。美しい芸術的な写真を残すことが求められるのではない。それにも関わらず、ジョー・スペンスの写真がなぜアート作品であるのかは、写真一枚一枚の出来栄えによるのではなく、彼女の行動と、撮られた写真の集積によって構築されたものとによるのだ。彼女の写真はわたしたちが通常疑いもせず信じ込んでいる観念に、強烈な一撃を与える。
多くの人が見たくない、隠しておいて欲しいと願う、病に冒された女性美の象徴をさらし、MONSTERという驚くべき言葉でくっきりと際立たせる。わたしたちは図星をつかれたことにたじろぎ、或いは、彼女のおかれた状況と彼女の決意とを読み取ろうとし、「病という隠喩」について思いを巡らせたりする。彼女は書き残している。「自らの感情や感覚を辛くとも表現しよう。<他者>として見られることの醜さに挑戦しよう。」そしてその自らの行為を彼女は「主体言語の第一歩」と呼んでいる。
わたしがジョー・スペンスの作品に惹かれるのは、一つには、自分と共通の乳がんという体験から発生した作品に、「そうそう、その通り。」と何度も膝を打ったからであり、もう一つには、その技法がパフォーマンス・アートに通じるからだと思う。ある意味、彼女が行う行為はパフォーマンス・アートそのものだ。ただ違うのは、パフォーマンス・アーティストが観客と伴にあるのに対して、フォト・セラピーでのパフォームと伴にあるのは、カメラの視線だ。それは仮想された視線なのであって、被写体が本当に対峙しているのは、あくまでもその視線を仮想するに至った、自分自身の内面なのだ。そして更にもう一つ、わたしが彼女の作品に惹かれる最大の理由は、彼女の「規定のされ方」に対する「異議申し立て」の姿勢の、強靭さ、粘り強さ、ユーモアなのである。
なんだかジョー・スペンスのおっぱい写真に反応して、わたしのおっぱいのがんがもぞもぞしている。がんとがんとは呼び合うのか。「これこれ、フーサンのがん、これはただの写真だよ。話し掛けても無駄ですよ。残念ですねえ、わたしも、ジョーと一遍、話してみたかったと思います。」
さて、次回も引き続き、もう一人のモンスターについて。わたしは今、アイリーンに夢中なのだ。