アイリーンはモンスターと 呼ばれたそうだ。自らの体にそう記すことでMONSTERの名乗りを挙げたジョー・スペンスとは違い、アイリーン自身が望んだわけではなかったのだが、全米のマスコミは彼女をMONSTERと呼んだ。それはニックネームというよりは、称号に近いものではなかったかと思う。
アイリーン・ウォーノス。1998年11月から一年足らずの間に7人の男を射殺し、複数の死刑判決を受け、2002年、薬物による死刑執行でこの世を去った連続殺人犯。今や全米だけでなく、ハリウッド映画ファンのいる多くの国々でその名を轟かせている。
映画「モンスター」が話題になるとき、人々の最も大きな関心事は、「アイリーン」を演じたシャーリーズ・セロンの変貌ぶりである。彼女は、美人でも努力すればモンスターになれることを実証し、数々の主演女優賞をものにした。そしてその授賞式では、以前と変わらぬ優雅なブロンド美人の姿を披露し、人々をほっと安心させたのである。わたしの個人的な都合を正直に申し上げれば、シャーリーズには「アイリーン」役そのままの風貌で、ぜひ、女優として生き残り活躍し続けて欲しかった。残念である。
スクリーン上に現れた、「アイリーン」になりきったシャーリーズを目にしたとき、わたしは「カッコイイ!」と思った。女のくせに、体を大きく見せようと堂々と胸を張り、顎を突き出し、虚勢を張って歩き、無造作に煙草をくわえ、シミだらけの荒れた素肌がその苦節を物語る。これは紛れもなく、ミステリアスで魅力的な主人公の登場だ。シャーリーズは自ら持ちうる限りの「モンスター」としての要素を結集させ、鍛え上げ、観客に全てを見せようとする。それは単なる役作りというに留まっていない。体内の奥深くで探り当てられ、引っ張り出され、そのまま無防備に晒された姿、ある意味、一つの、彼女自身の本当の姿と言えると思う。自分自身の中に、その人物に通じるものを見出すことができなければ、その役柄を血肉化することはできないはずだから。シャーリーズはその困難な作業に成功している。一言で言って、カッコイイのだ。
「シャーリーズ・セロンのファンはイメージが壊れるから、見ないほうがいいです。自分も見なければ良かった。」映画の感想を書き込むサイトにそうあった。ザマアミロである。女がいつもお望みのまま、美しく慎ましく優しくあると思っている、そんな甘っちょろいイメージは壊れた方が身のためである。
さて、連続殺人犯アイリーン・ウォーノスをモデルにした映画は「モンスター」だけではない。痛快・犯罪・逃避行・ロードムービーの名作、自由を求める女性像を哀しくも爽やかに描いた「テルマ&ルイーズ」、これが初めてのものだと言うのだ。アイリーンが逮捕されたのが、1991年1月9日。「テルマ&ルイーズ」は同年の4月(?)には公開されている。あまりにも早い。犯人がはっきりする以前から、ハイウェイ連続殺人は新聞紙上を賑わせていたし、似顔絵が公開されてもいたのだから、おそらくは、アイリーン逮捕以前に犯人像が空想され、映画の制作はスタートしていたのだろう。それにしても、ハリウッドの、話題性への対応の早さには恐れ入る。かぶっちゃいないが、シャッポを脱ぐのみである。
フェミ的に言って、「テルマ&ルイーズ」は間違いなく映画史に残る一篇だ。初めて描かれた、セクハラ男をやっつける痛快アクションであり、男抜きの女の友情、女の連帯を描いた青春グラフティである。そしてこの映画に続いて、女二人連れの犯罪・逃避行ものがいくつか生み出された。1995年イギリスの「バタフライキス」。逃避行が始まるところで映画は終るけれど、1997年アメリカの「バウンド」。4人組だが、1998年ドイツの「バンディッツ」。そして最も破壊的で痛くて快い、2000年フランスの「ベーゼモア」。
これら反社会的にして落伍者たる女たちの元祖、というか本家本元、本物であるアイリーンの、実際の事件から12年を経て、2003年「モンスター」は制作された。長い遠回りの末、ようやく機が熟したということなのだろうか。連続殺人犯となった女の真実を知るために、わたしたちはまず長年の空想癖から足を洗う必要があった。それにしても、「テルマ&ルイーズ」と「モンスター」の落差には驚きを禁じえない。「テルマ&ルイーズ」はアイリーン・ウォーノスの話題性だけを取り上げて、中身を捨て去って作られた。まるで狐の息の根を止め、皮を剥いで、高価なコートに仕立てるように。そしてそれがフェミ的に見ても、一つのエポックとなっているのだから、遣り切れない。
余計なことかもしれないが、ここで一言言っておきたい。リドリー・スコットには騙された。どうりで、「G.I.ジェーン」はしっくり来ない、何だかおかしいと感じたのも頷ける。
さりとて、「モンスター」を完全に信用するわけにもいかない。それでアイリーン本人のインタビューを含むドキュメンタリーを見ることにした。作中、ドキュメンタリー作家であるニック・ブルームフィールドは何度もアイリーンに同じ質問をしている。「初めの殺人は正当防衛ではなかったのか」と。それに対するアイリーンの答えは、「正当防衛ではない、公判での告白は全てうそ」というものだった。そしてついには、「正当防衛かただの殺人か、そんなことはどちらでもいい」と断じて、ニックの質問を退けるのだ。そうだ、どちらでもいいのだ。アイリーンは、法の定めた限定的な善悪を超えて、犯罪としてばらばらに切り離された時間を繋ぎとめて、彼女の人生全体を掴みたかったのではないか。その瞬間が、正当防衛であったのかどうかという分類の仕方では、彼女は自分を救うことはできなかったのだ。例え極刑を免れ得たとしても。
「誰の中にも悪魔はいる。わたしの悪魔は、この世があんまりひどいので、わたしの中から出てきてしまった。わたしを生かしておくと、また人を殺してしまうよ。」アイリーンはカメラを睨みつけてそう言った。わたしはその言葉にその視線に圧倒され、彼女に迫りたいと思った。それで、遠くから堀を埋めるように、モンスターを旗印に、ぐるぐる周りを廻ってみたが、なかなかアイリーンにまでは辿り着かない。本当にアイリーンは、遠くかけ離れた孤独なモンスターだったのであろうか。このままもう少し廻り続けてみようと思う。わたしは薄々感じている。女としてこの世に生まれたにも関わらず、女に対する性的欲望、そしてその性的対象物への蔑みから完全に解き放たれるには、MONSTERとなるしかないのではないかと。