あなたにわたしの気持ちは わからない。もしも誰かにそう言われたら、一旦は素直に敗北を、自らの至らなさを認めるべきである。少なくとも一度黙るべきである。そんなつもりで言ったのではないという気持ちに胸が締め付けられ、気が狂いそうになったとしても、何か言い返すのは控えた方がよろしかろうと思う。話の内容は関係無い。どちらの言っていることが正しいのか、どちらが誤解しているのか、どちらがどちらでももうどうにもならない。そのとき相手は、あなたの焦燥感を解消してあげようとする心の余裕を使い果たしてしまったのだ。心のシャッターを下ろしてしまったのだ。それ以上いくら言葉を尽くし自説を展開し続けようとも、もう相手に聞く耳は無い。相手にとってあなたはただのうるさい呼び鈴にしかすぎず、近づこうとすればするほど、相手の気持ちはあなたから遠く離れていく。遥か遠くへ。
わたしが言ったのは、「あなたには言われたくない。」という言葉だった。このような言葉を発することがあろうとは、我ながら驚いた。がん患者とそうでない人、治る見込みのない人と治る見込みのある人、健康そうな人とそうでない人。それらの境界を、できればなきものにしたい、少なくとももっと自由に行ったり来たりしたいと思い、こうしてなんじゃらかんじゃらと毎週書き綴ってもいるというのに。ついに言ってしまったなあ、やっぱりわたしもいっぱしのがん患者なんだなあと、しみじみと実感するのだった。
わたしに差別化され、拒否されてしまった相手は、「がん患者は皆、がんで無い人にはがん患者の気持ちは解らないって言うのね。」と訴えた。わたし以前に何度か、目の前でシャッターをガラガラと下ろされたことがあるらしかった。そのことで傷ついてもいるようだった。考えてみれば果敢な人である。わたしの下ろしかけたシャッターを再び持ち上げようとがんばった。けれどわたしはもう彼女の熱意に答えることは出来なかったのだ。
例えば、「諦めなさい」と節子さんは言った。(過去のコラム、2004年9月4日「諦めなさい。」参照)それを言われた時、わたしは酷いことを言うとは思わず、反対に喜びを感じ、節子さんの度量の大きさに感動したのだ。それは数々の苦境を乗り越え生き抜いてきた人、たった今わたしの目の前で「諦めずに」進行がんと闘っている人、その人の体から直接発せられた言葉だったからだ。何を諦め、何を諦めるなと言っているのか、発した人の声そのものが、複雑な言葉の意味を、直接わたしの体に送り込んできたような感じだった。「メッセージ」を受け取った瞬間だったと思う。
それではもしも、医者から「諦めなさい」と言われたらどうか。誰だって容易に想像がつくと思う。同じ言葉でもその意味は全く違ってくる。それはまるで死刑判決にも似た、多大な苦痛を患者に与えてしまうことだろう。「諦めなさい」などという言い方を普通医者はしないだろうと思うが、仮に言ったと仮定して、その場合は、何を諦めなければならないのか具体的な説明が不可欠だ。例えば、「完治を目指すのは諦めなさい」とか、「10年生きるのは諦めなさい」とか。しかしながら本当を言えば、この場合は「諦めなさい」という言葉は不適切だ。「完治はしない」或いは、「完治は困難」とか、「統計的に10年生きることは難しい」或いは、「10年生きる人は5パーセントくらい」などと言うべきだろう。どんな厳しい状況の中でだって、何かを諦めたり諦めなかったりするのは患者の自由なのだから。
そしてもう一つもしも、よく知らない人つまり「他人」に、「諦めなさい」と言われたらどうか。医者に言われたら悲しくなるが、この場合は怒りを感じるに違いない。わたしのことを知りもしないで、と反発を感じるだろう。例え「他人」が、目を開いて現実に立ち向かうように励ましているつもりでも、正しい知識や情報を与えているつもりでも、或いは本当に、地獄に突き落とそうとしていようと、そのモチベーションいかんに関わらず、わたしは腹を立てるだろうと思う。
「あなたには言われたくない。」と表明したとき、わたしは仮定したのと同じような状況にあり、少なからず腹を立てていたのだ。しかしながら腹を立てれば立てるほど、わたしの身分は保護されるべき弱いものとして、言って聞かせなければならない下位の存在として固定され追い込まれていくようだった。わたしはその状況の中でもがき、二重に怒りの淵に落ち込んでしまった。わたしの訴えは言い訳にしかならず、言えば言うほど、もがけばもがくほど、深みにはまっていった。そして最後には怒ることを諦め、悲しみに沈み、孤独感に包まれてしまったのだ。
自分のコミュニケーション能力がこれほど低いとは知らなかった。もう二度とこのような目には会いたくない。多様な相手に対応できるよう、コミュニケーション能力を磨くことにしよう。担当医としっくりこないで、毎回診察日のたびに、漠然とした不安や不満を言い表せず、不完全燃焼気味になってしまうのも、どうやら、わたしのコミュニケーション能力が低いからのようだ。がんになったら、患者になったら、努力しなければならない、勉強しなければならない、知識を身につけなければならない、話術を習得しなければならない。がんになったってことは、もう普通の人とは違うのだから、なにごとも普通以上にならなければならない、普通以上の忍耐、普通以上の理解力、普通以上の包容力、普通以上の気力、自分の命は自分で守るという意気込みが大切だ。
がん患者になりたての頃、初めて乳がん患者の集まりに参加し、なんて気の強い人たちだろうと思ったことを思い出す。気の強い人のなる病気かと思ったくらいだ。それは、努力し、勉強し、話術を磨き、普通をやめて、あらゆる能力を伸ばそうとし、命がかかっているという意気込みを身につけた結果だったのかもしれない。或いは、理想の患者になろうと背伸びする姿だったのかもしれない。ついさっき考えたこととは裏腹に、わたしはこのまま、ドンクサイ患者でいて、時折り皆に説教されつつ、赤剥けの心をふうふう風にさらしながら、怒ったり泣いたり笑い飛ばしたりして、不器用に生きていこうかとも思う。