「女性の心」を持って生まれた

「女性の心」を持って生まれた のです、男性の体であるにも関わらず。男性アナウンサーが、GID、性同一性障害について説明している。幾度も繰り返し強調される「女性の心」。わたしは思わず声を挙げた。「女性の心」って何だよ、と。わたしは女で、性同一性的に困難さを感じてはいないけれど、「女性の心」を持って生まれたのかどうかわからなかった。「女性の心」というのはどういう心なのか、首を傾げて目線を上向きにした、つまり考え込んだ。

以前、同じ番組でセックスレス夫婦を取り上げていたときに、アナウンサーはこう言っていた。「男性はセックスのときこそ男らしさを発揮しようと思うものですよね。」わたしはこれを聞いて本当にびっくりした。なぜなら、わたしにとってセックスとは、まず裸になることで、裸になると人間は弱い、弱いからこそ優しくなる、弱くて優しい丸腰の人と人とが触れ合う、というふうに考えているから。それで、このアナウンサーをテレビの中で見つけるたびに、どんな番組であろうとも、その発言を思い出してしまうのだった。もしあるとすれば、これが「男性の心」というものなのか。男らしいセックスとは何だろうか。腰を動かす速さや強さのことだろうか。

わたしは自分のことを女性と認識しているが、その認識の根拠は何処にあるのか、よくよく考えてみると、考えれば考えるほど解らなくなる。わたしは女性の体を持っているが、そのことがわたしに女性だという自覚を与えているのだろうか。それも一理ある、しかし100パーセントではないように思う。わたしの体型はどちらかと言えば肉感的で、実は、自分の性格には似合わないと思っている。第二次性徴の年頃に、体が女らしくなっていくのがあまり好きではなかった。まわりから女と認められるのが、何となくいやだった。振り返れば、うっすらとGIDの香りが漂う。それでも単純素朴に、自分の体は自分だという以外の発想を持たなかった。

ある時、women by women と銘打った展覧会に参加したときのこと、主催者である友人に「あなたは自分を女と思うか。」と聞かれて、わたしは「うーむ。」と考え込んだ。彼女は「よし、それならわたしが女にしてやる。」と言った。つまりフェミニストにしてやるという意味で。それでわたしは自分の持つ、女であることに対するちょっとした違和感を自覚し、またそれを解きほぐしていく術としてフェミニズムを捉えるようになった。わたしは全ての女が、女であることに対してちょっとした違和感を持っているのではないだろうかと思っている。女性とはそのように自分自身を複眼的に捉えざるを得ない存在なのではないだろうか。だから、「女性の心」と言われると困るなあと思うのだ。MtFの人が持って生まれた「女性の心」は、わたしが持て余している「女性の心」とは違う、そんな気がする。

女性性嗜癖ということが言われる。美肌しかり、痩身しかり、バストアップしかりだ。女性たるもの、女性は誰でも、女なのだから、より美しく、より愛される、より幸せな女にならなくては。ならなくてはどうだというのだ。とにかくならなくては。なぜなのだ。女ですもの。だからどうして。女だから。だから。女がより女らしくつまり美しくありたいと願うのは、女性であることに対するちょっとした違和感を持つからこそのように思われる。現実に直面するその違和感を、忘れようとする一つの方法なのではないだろうか。心と体が少しズレている、全ての女性はズレているに違いない。

それなら男性はズレていないのか。正直わからない。ズレていないのが男性の男性たる所以のような気もするし、ズレているからこそ、より強くより速く腰を動かしたいのかもしれないし。最近はテレビのバラエティ番組で「ダンスィ」というような言い方を耳にする。心身の一致した従来の男らしい男とはちょっと違う、するっとズレたもう一つの男性像をそう名付けようとしているのではないだろうか。それは座りの良いダンセイという範疇からはみ出し加減の、少し不安定な感じの、少し壊れた感じのダンスィだ。

男性にとって自分固有の性別に対する捉え方と、女性にとってのそれが違うのではないかと考え始めたのには、一つのきっかけがあった。ある時、新聞紙上で30代男性の肺がん闘病記のブックレビューを目にした。見出しに「ガンになっても俺は俺」とあったのだ。これはわたしにとってショックだった。なぜなら、わたしは「フーサンにがんが背負わされたのではなく、フーサン自体が変化した」と書いたから。この二人の感想の違いは、男性と女性の自己イメージの違いを、如実に映し出しているのではないだろうか。それぞれの性格の違いと言うよりは、ジェンダーの違いから出た一言だろうと思ったのだ。「ガンになっても俺は俺」「腐ってもタイ」そんな自己肯定感の高さが正直羨ましくもあった。

女であるということはわたしにとって常に揺れ動いている。女であることそのものさえ怪しくなってくるほどに。それは女であることの違和感をそのままに、いろいろな考え方感じ方で女を捉え直してみようとするフェミニズムというものを知ったせいでもあると思う。いつか女は考え尽くされ感じ尽くされ、解体されて消えて無くなるのかもしれないと、ブッディズムとフェミニズムをごっちゃに混ぜたような境地をぼんやりと空想してみる。すぐにそうやって死生観のようなものを持ち出そうとするのは、がん患者ならではとお許し願いたいのだが、その時、そのような末世にあって、男性はどうしていることだろう。「オレハオレオレハオレ」と世界の果てまで合唱し続けているのだろうか。やはり羨ましいと思う。


INDEX
[2006/05/20]
本日は晴天
[2006/05/16]
トランスジェンダー的
[2006/05/05]
連休中は時代劇鑑賞
[2006/04/14]
お腹の中に何か暖かいものが
[2006/04/07]
「最期まで希望」
[2006/03/30]
同情と共感
[2006/03/17]
女人禁制とは、
[2006/03/10]
がんとがんじゃないものの境界線
[2006/03/03]
つまり、男女共同参画ってこと?
[2006/02/20]
2月25日発売!
これより前のコラムを見る
▼コラム一覧へ戻る  ▲topへ