「乳がん」を体験していない のではないだろうか、わたしは。確かに乳がんになったけれど、「乳がん」体験はしていない、そう思う。なぜなら、わたしは手術を受けていないから。おっぱいがなくなるという体験をしていないから。おっぱいが依然として、二つ揃って然るべき位置にある。それでは乳がん患者として半人前と言っても過言ではないだろう。
乳がんの治療でまず始めに直面する試練とは、乳房切除手術である。がんを治そうとして施されることに気持ちの良いことはあまり無く、大抵それは試練には違いないのだが。乳房切除の試練とは、手術そのものが体に与える負荷、または手術後の機能的な不便さや体調の変化などに留まらない。それよりもむしろ体に刻まれた手術痕が、失われたおっぱいが、新たな精神的苦痛を生み出して、心の負荷となることの方が大きいようだ。
しかしわたしは、乳がん体験のこの大きなステップを、幸か不幸か飛び越えてしまった。そしてそのことでかえってわたしは、乳房とは何か、或いはまた乳房切除手術とは何であるのかと問い続けることになったのだ。「とても大切なことが隠蔽され語られなかった。それはなんだったのだろう。本当におっぱいを切り取るその日まで、わたしにはまだ考える時間が少し残されていた。」この「半社会的おっぱい」の第一回目はこう締め括られているのだが、わたしが乳房切除手術を受けることは無いのだから、考える時間はまだまだたくさん残っている、わたしが生きている限りは。
乳がんという病気の孕む隠喩とは、女性としてのアイデンティティが損なわれることと生命の危機との同時的なアタックに起因すると思う。女性としての魅力を失う戸惑いと哀しみ、そして死への恐怖。それとこれとが一緒くたになって迫って来、その身に残された手術痕は死を連想させる記念碑となってしまう。人生の半分はすでに死んでしまっているように感じる。もう誰にも愛されないのではないかという、死よりも具体的で身近な不安につきまとわれる。ある乳がん患者が再建した自らの胸を、詩的に「蒼ざめた乳房」と表現している。全身が高揚し熱が走るとき、そこだけはいつでも冷たく取り残されるのだ。乳がん患者の身体は女性美の象徴である乳房にエロスとタナトスとを同時に宿し、一対であるゆえに極めて強固となったシンボルを体現するオブジェと化するのだ。それは、乳がん患者本人を閉じ込める、窓の無い塔楼にもなりかねないのだ。
何も乳がんになったからというのではなく、女性の身体はもともとオブジェである。何かを表すモノということだ。ただの身体としてあるわけにはいかないモノなのだ。有り体に言えば、女性は本来「わたし」でしか在りえない自らの身体を、予めモノとして搾取されているのである。それはいつも、見られ愛でられ解釈されたり或いは評価されたりしている。女性の身体に科された「美」という重過ぎる社会通念は、誰よりもまず女性自身に叩き込まれる必要がある。「美」は「美」として自主的に機能してこそ「美」なのだ、そうであってこそ、女性美は社会に対して常に安定した価値を供給することができる。このオブジェとしての役割が一人の人間にとって、一人の女にとって、いかに過大で人間性を無視するような恐ろしいことであったのか、乳房切除手術に伴なう哀しみとは、そのことに由来するのではないか。それはひょっとして乳がんよりもずっと確実に女性の乳房を侵食し冒しているのではないだろうか。
知り合いの商業カメラマンの言葉をわたしは忘れることができない。彼はさらっと何でもないことのようにこう言った。「美人本位制ってのがあるじゃない。」「えっ?」と聞き返すわたしに彼はさも共通のお約束であるというふうに「美人が持ってる美人が身に付けてる美人が使ってるって見せることが、何でも商品価値を高めるよね。金本位制と同じよ。」と説明した。広告業界では当たり前、どうしてこんなことも知らないのという口ぶりであった。どうしてもこうしても、そんなことは知らなかった。美人が持っているからそのビールが美味しいと思ったことは無かった。これが一体誰のための本位制なのかは言わずもがなだが、そのことが全人類共通のまるで自然界の法則と言わんばかりの決め付けには驚かされる。
女性の身体は商業的にもてはやされているだけではない。精神性についての人類の崇高な試みであるとされる「芸術」においてさえ、伝統的にいともたやすく女性の身体は搾取されているのだ。街中いたるところに、公園や駅前広場に女性の裸像が設置されている。オブジェを象るオブジェとして衆目に晒されている。オブジェのためのオブジェではアートにならないので、「希望」とか「愛」とか「喜び」とかのタイトルを戴いている。ポーズをとった女性の裸体がどうして「希望」なのだろうか、或いはそれとほとんど同じポーズの別の裸像がどうして「春」なのだろうか「未来」なのだろうか。女性美を鑑賞することが目的で、お題目は何でもいいのだろうとしか思われない。この廃れ気味の分野以外でも、芸術の名におけるオブジェのためのオブジェはあらゆる分野に溢れている。写真には女性写真と呼ばれるカテゴリーさえある。ボッティチュリもルーベンスもアングルも、女性の身体に「美」という価値を担わせてきた数々の首謀者たちの一人に過ぎない。
美人というステージで活躍することを選ぶ女を或いは男をわたしは否定しない。そんな人生もあると思う。スポーツ選手になることと同じと思う。自分に役割を科し高めていこうとすることは創造的な行為の一つだとも思う。しかしながら美ということに限って言えば、美は何よりも創造するものだ。乳がんのために乳房を失って「美」の基準から転げ落ちてしまったとしても、それは失った乳房のせいなのではなく、もともとそのステージがあまりにも狭いところだったというに過ぎない。そのステージにもう一度よじ登ろうとするのか、新しい美を創造するのか、それとも女性美の必要性そのものに異を唱えていくのか、或いはオブジェであることを辞め自由な身体を取り戻すのか。
乳房を失ったのちにこそ、主体的に自らの身体を選び取るチャンスを得る女性というものに、わたしはある種の哀しみを感じるのだ。同時に、そこに哀しみがあったという地点から出発することを自覚しようと思う。わたしは出発するつもりだ、乳房を失おうとどうしようと堂々と胸を張る女たちのいる世界へ、そんな女たちが新しい社会的な価値を創ることのできる、今よりもほんの少し自由な世界へ。