女流ナントカとか閨秀作家

女流ナントカとか閨秀作家 という時代がかった言い方と、あまり変わらないんじゃないでしょうか。と書いてあった。「展覧会の感想をお聞かせ下さい」というわたしのメールへの返信だ。閨秀ってなんだろう、初めて聞く言葉だ。辞書を引いてみると「学問や芸術に優れた婦人」とある。本当に初めて聞いたのだろうか、聞く耳を持たなかったのだろうか、実のところはわからないが、閨という字に違和感を覚えた理由はお察しいただけるだろう。閨、ねや、つまり寝室またはプライベートルーム。むかしむかし宮中で女性の暮らす部屋を閨と言ったそうだ。字義どおり捉えれば、「閨出身の秀でた人」ということになるが、「閨に居るにも関わらず秀でている、つまり本来劣っているはずなのに、学問芸術をなすとは、それは珍しい」というニュアンスを感じてしまう。今時閨に引きこもるのは男女を問わない。だからきっと閨秀は死語だ、ということにした。

閨秀が聞かれなくなったとは言え、女流と言う言葉は今もなお健在だ。女流作家、女流画家、女流名人、女流棋士、女流講談師。女流がつくことを嫌う人は多いが、反対に望む人々もいるのである。女流は二流という意味では無く、確立された興味深いカテゴリーの一つとして連綿と続いてきた。或いは女性の少ない分野でのパイオニアに冠たる称号として使われてきたという側面もあるだろう。同じ言葉なのに、何処で誰がどのように使っているのかを見極めなければ、その意味を捉えることが難しい言葉の一つだ。だが、大抵は、本流である男性と区別して、女性というハンディのもとにあることを示すために使われている。複雑である。

数年前わたしが関わっていた、ウィメンズ・アーティスト・ネットワークというグループのホームページにリンクをはって下さったある芸術系新聞社主催のホームページがあった。お知らせをいただき確認すると、紹介の一文に「女流美術作家集団」とあった。これは違う、全くもって的外れなのであった。だがしかし、そう書いた人にどこがどう的外れなのか理解してもらうことはなかなか難しい。面倒だったので、ただ「違います」と指摘し、相手の方もおそらく面倒だったに違いなく、「失礼しました」とお返事を下さっただけだった。

ウィメンズ、女、婦人、女子、女性、女流、クィーンズ、レディース、シスターズ、女性たちを称する言葉はたくさんある。それぞれに違うニュアンスがあり、それぞれに使われてきた歴史がある。ちなみに、ウィメンズ・アーティスト・ネットワークでは、「女性が自分の望むものを表現することを応援する」という目的を表すためにウィメンズと名付けられた。構成メンバーは女性に限ろうという方針だった。なぜなら男ジェンダーの中で生きてきた人と女ジェンダーの中で生きてきた人とでは、抱えている問題が違うから、という視点に立っていた。主には互いの意見や情報の交換の場として機能していたのだが、自助的な要素も大きかった。ところが、外部の多くの人々から、女性のアートというカテゴライズは古い、或いは偏っているという批判を幾度も突きつけられたのだった。

今は閉館してしまったが、六本木ではアートの拠点として衆目を集めていたストライプハウス美術館に、わたしとパフォーマンス・アーティストのイトー・ターリさんが展覧会の企画を持ち込んだときのことだ。今から6年前の話になる。なぜストライプハウスだったのか、それは館長が女性だったということに尽きた。女性の手による女性作家だけの展覧会。女性ならこの主旨を理解してくれるだろう、と期待したのだが、その期待が甚だ甘いものであると気付かされるのに時間は掛からなかった。館長は言った「女性作家の展覧会、ウチではもう10年も前にさんざんやりました。今さら古いでしょう。」わたしたちはコテンパンにノックアウトされ、すごすごと美術館をあとにした。館長にとって女性作家展は、使い古されたネタの一つに過ぎなかった。

同じ展覧会でスポンサー探しの最中にも、また同じような目に会った。芸術文化部を設け、アートへの助成に力を入れているアサヒビールの解答はこうだった。「女性という括りは偏っているとウチの女性社員も言っています。」絶句するしかなかった。展覧会とはテーマを絞らなければ成り立たない。いろいろなテーマ、いろいろな括りがある。しかしながら、女性に限っては、その括りが偏っていると言うのだ。女性という括りをすることで見えてくるものは多様で興味深い、その発見をお伝えしようと思うのに、括ってはいけないとは、困ってしまった。

何はともあれ、ウィメンズ・アーティスト・ネットワークは出品作家40名以上の展覧会を成し遂げた。あれはもう4年も前だ。

そしてまた何年たっても同じことが繰り返される。「女流ナントカとか閨秀作家とかという時代がかった言い方と、あまり変わらないんじゃないでしょうか。」東京都現代美術館において、3月15日まで開催されていた「愛と孤独、そして笑い」展はすべての作品が女性作家の名のもとに展示されている、女性作家展と言っていいものだった。その会場でばったりと出くわした知人の職業はアートキュレーターだった。彼がどんな感想を持つのか、わたしは興味があったのだけれど、交わしたメールは一往復だけ。閨の字を辞書で引きながら、そしてついでに婦人の婦の字を辞書で引きながら、わたしの感想を、どこからどう説明しようかと途方にくれているところだ。

女性の居場所は広がった。閨という囲いからはとっくに出たし、家という狭い世界からも脱出、というか出入り自由にははなった。女性の人生や抱える問題は多様化し、女性作家の表現も様変わりした。むかし女流が示す領域は外からは一様で、しかし中から見ると多様で豊かな世界であったのだと思う。けれど今や、女性を取り囲む状況は複雑になり、女流と言う領域が成り立つものかどうかも疑わしい。女性作家展であるということの意味はその時代時代で大きく異なるのだと思う。

女性の現場は激動の現場だ。だから面白い。確かにわたしは当事者でもあるし、女性作家マニアなのかもしれない。最近ふいに、女性が創る文化は、男性が創ってきた文化の歴史を凌駕する地点にまできているのではないか、という気がした。腹の中に隠れていたエイリアンが、バリバリと皮膚を食い破り飛び出て来るような、そんな気がしたのだ。気のせいか。

婦人の婦、掃除する女だそうだ。家を管理する嫁。つまり「女は結婚して一人前」説に基づくところの大人の女だ。わたしのようなシングルの女は正確に言うと、婦人ではないということか。



INDEX
[2006/05/20]
本日は晴天
[2006/05/16]
トランスジェンダー的
[2006/05/05]
連休中は時代劇鑑賞
[2006/04/14]
お腹の中に何か暖かいものが
[2006/04/07]
「最期まで希望」
[2006/03/30]
同情と共感
[2006/03/17]
女人禁制とは、
[2006/03/10]
がんとがんじゃないものの境界線
[2006/03/03]
つまり、男女共同参画ってこと?
[2006/02/20]
2月25日発売!
これより前のコラムを見る
▼コラム一覧へ戻る  ▲topへ