がんファンタジー

がんファンタジー というものがある、ようだ。がんを語るとき、これ無くしては語れない。万人に受け入れられ、愛されている物語である。セックスファンタジーが、いくつか代表的なパターンがあるとは言え多様であり、各人が勝手気ままに選べるのとは違い、がんファンタジーはほとんどの人に共通の確固たるファンタジーである。それがファンタジーだとも気付かぬくらいに。反対に言えば、がんファンタジーは未熟、未発達、イメージが貧困と言えるのではないだろうか。しかし、まあ、ファンタジーのある病気なんてそうそうないのだから、あるならあるで楽しんでみようか、がんファンタジーを。

例えば、がんは悲劇的である。そして陶酔的である。さらに運命的である。なんてロマンチックなのだろうか。このときばかりは思い切り自己憐憫に浸ってみる。長湯は禁物だが、こんな機会はめったにないので、一度は肩まで温泉に浸かるようにどっぷりと、己の感情に溺れ、自分を可哀想に思って涙するのもいい。湯上りは気持ちいい。どん底から立ち直ったあなたを迎えてくれるのは、キラキラと輝きに満ちた素晴らしい新世界だ。それは以前と何も変わらない、しかし何から何まで全く違う新世界なのだ。そしてあなたは家族や友人、医療関係者や会社の上司同僚、あらゆる身の回りの人々から励まされ、大切にされ、或いは冷たい言葉を投げかけられ、信頼を失い、関係を絶たれるかもしれない。どちらにしろ、それはあなたに賢さと強さと寛容をもたらす。あなたは以前より人間的に成長し、周りの人々の気持ちが良く解るようになる。あなたは苦しみに堪える。死の恐怖に立ち向かう。生きていることの価値を知る。隣人の愛を知り、また、あなた自身が愛の震源地となる。自然はかくも美しく、人間の創作物はかくも素晴らしい。まだある。あなたは今までの人生を振り返る、遣り残したことや、言い残したこと、謝りたかったことや、ありがとうって言いたかったこと、全部この際片付けておく。悔いなくこの世を去るために。最後の日まで精一杯大切に生きようと心に誓う。もしもあなたが女ならばなおさら、最後の日まで愛する人のために生きるのだ、ほれ、愛する人に尽くすのだ。仕上げは、いよいよ避けえぬ運命の日、あっ、言い忘れたが、この日を盛り上げるためには予め主治医に「余命○○です」との予言を頂いておくように。あなたは愛する家族か友人かに見守られ静かに旅立つ。そこはファンタジーの総仕上げなので、ぜひとも成し遂げてほしいところ。眠っているような微笑んでさえいるような、文字通り仏様のような顔を残して。一筋の涙を見せるのも効果的なり。

小説ドラマの類には、こんな話が多いのではないだろうか。ついこの間もこの基本ラインを貫いたテレビドラマを見てしまった。特に女とがんという組み合わせとなると、もしその人がただの健康な人という設定ならば不自然に映るほど、良く気の付く、家族や周りの人々に尽くす、明るく健気ないい人として描かれる。そして爽やかに死んでいくのだ。女の誉れだ。この手のファンタジー最上級は何といっても、白血病と少女。純真、純愛、美人薄命、しかも処女、白いシーツ、花柄のパジャマ。守ってあげたい、愛してあげたい。わたしがファンタジーと称して書き連ねたことが、全部絵空事だとは言うつもりはない。わたしの体験したことも盛り込んである。しかしいかにも通り一遍、ワンパターン。まあ、待て、それでこそファンタジー、それでこそ永遠の物語、なのかもしれない。

何年も前にわたしは、テレビであるドキュメンタリーを見た。がん告知を受けた人が呆然自失の体で病院を後にする。表に出たところはイチョウ並木で、おりしも秋たけなわで、黄色く色付いたイチョウが夕日に照らされ路上に降り注ぎ、世界は金色に光り輝いていた。「これほどの美しい風景を今まで見たことが無かった。」とナレーションが入った。わたしはそのドキュメンタリーを見終わったとき、号泣していた。特に光り輝く金色の世界というのに並々ならぬ感銘を受けた。心に焼き付いて、心象風景の一つとなった。それはわたしのがん告知ファンタジーとなった。素的だなあ、金色に輝く世界、どんなだろう、見てみたいものだと憧れてさえいた。

だから、自分が医師に「がんです。」と言われたとき、辛かったけれど、半分はいよいよ金色の世界だ!と思わないでもなかった。しかしながら、イチョウ並木が無かったたからだろうか、夕方ではなかったからだろうか、わたしに金色のエクスタシーは訪れなかった。世界は以前と何ら変わらず微動だにせず、特に美しいと言うこともなかった。本当にがっかりであった。

その日わたしは前から食べたいと思っていた行列のできる評判の寿司屋に並んだ。ランチセットに更に数品足し、たらふく食ったあと映画を見に行った。確かボーリングフォー・コロンバインだったと思う。上映時間を待つ間、ガーデンプレイスのカフェに腰を降ろし、カプチーノを注文した。何か本でも読んでいたと思う。運ばれてきたコーヒーカップをふと見ると、表面のきめ細かなミルクの泡に、シナモンの粉ですうっとハート模様が描かれていた。普段なら「洒落たことを」と思うだけだろうが、この時わたしの目からは、このタイミングで、ぽとりと涙が一粒こぼれた。コーヒー一杯いれることにこれほど細やかに気を使って、人を優しく慰めようとする人もいるのだ、暖かいなあ、世の中捨てたものじゃないなあ、生まれてきてよかったなあ、と感極まったのだった。いかがでしょうか、これ、あなたのがんファンタジーに使えそうですかね。

がん患者自身も、がんファンタジーを持っている。わたしにとっても、がんは何かしら病気以上のものだった。病気以上の苦く切ない何かしらであった。がんが死へと連なっている限り、がんファンタジーは健在だろう。死というものの持つファンタジーは人間最大の快楽の一つであると思う。更にもう一つのファンタジーの源は秘密というキーワードだ。本人にはとても言えない、子供たちには黙っていて下さい、父には言いたくありません(わたし)、世間さまには伏せておきましょう(詳らかにされる要人は天皇くらい)。秘密は切ない、秘密は美しい、秘密はハニー。しかしながら、がんはそのうち、だんだんと助かる人の方が多くなり、命を脅かす病というイメージは薄れてくことだろう。そして誰も秘密にはしなくなる。だから、がんファンタジーを味わえるのも今のうちだ。

それでつまり現代は「がんの時代」と言っても過言ではないと思う。がんを克服しようとする過渡期にあるからだ。いつまで過渡期なのかは知らないが。当事者がどんどん語り出し、医療現場あれこれの情報も開かれていく。ワンパターンながんファンタジーでは、もはや鑑賞に堪えないし、悲劇なだけでは語りきれない。ホラーものやお笑いものもあればいいのに。


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