ヒーメノプラスティア と読むのだろうか、Himenoplastia、小陰唇縮小手術のことらしい。そうと解った途端、ヴェネチア・ビエンナーレ報告の続きを書こうと、よやく手がキーボードを打ち始めた。実はわたしは現地でこの作品を見た時は、てっきり、女子割礼シーンだと思ったのだった。その残虐性に打ちひしがれ、とにかく紹介したいのはこの作品なのだが、現代美術と女子割礼、そんな危険な取り合わせを一体どんな言葉で語ったらよいのかと逡巡していた。本当はそんこと到底書けるはずは無かった。前回の最後に、来週は個々の作品について書きますと言うようなコメントを書き添えたことを心から後悔していた。
なんて残酷なと半ば目を背けつつ、始めは隣接して同時に映写されている同じアーティストの別の作品記録ビデオを見ている間に、チラチラと盗み見るようにして眺めていた。無抵抗に開かれた両足の間、押し広げられた女性器に局部麻酔の注射が施されている。大きな画面一杯に映し出される女性器、医療用手袋をはめたのっぺらとした指先、白いシーツと金盥と鋏。あっ、まさか!心の中で小さな叫び声が起こった。というのは、その鋏が些かのとまどいも見せずに、大陰唇をチョキチョキと生真面目そうに切り取り始めたからだ。そしてわたしは、一部始終を、目を背けることも忘れてすっかり見届けてしまったのだった。
そのあまりの無造作から、何か酷いことが成されたのだと感じ、咄嗟にわたしは女子の割礼、つまり女性器切除と思い込んだ。美容整形手術とは全く思いも及ばなかった。カタログには「2004年、グループ展のためのパフォーマンス」と記してある。パフォーマンス?ビデオ作品ではなくパフォーマンスの記録であるということは、切り取られたのはアーティスト自身の大陰唇であり、字義通りに捉えるならば、手術はパフォーマンス・アートとして展覧会場で行われたのかもしれなかった。まさか!であるが。そしてわたしの妄想は続くのだが、もしかすると鋏でチョキチョキは、アーティストのオーダーだったのかもしれない。小陰唇縮小手術を調べてみると、予めデザインされたラインに沿って、レーザーメスで丁寧に処置されるようなのだ。ビデオに記録されたあの所作が美容目的のやり方だとは考え難い。しかし所によっては、あんなやり方をすることもあるのかもしれない。いやいや、そうではなく、やはり作家は「女性器切除」を見せつけたのではないか?柔らかいイメージ、美しいイメージに彩られた小陰唇縮小という名の「女性器切除」を。貞操または処女性と抑圧、虐待と美容、つまり管理と自主規制のシークエンスがわたしの頭を悩ませる。
この衝撃的な作品を提示した作家の名はレヒーナ・ホセ・ガリンド。ガテマラ出身の30歳で、今年のヴェネチア・ビエンナーレで36歳以下部門の金獅子賞に選ばれている。展示されたパフォーマンスの記録ビデオは他に、2001年ヴェネチアにおける「スキン」と2003年ガテマラにおける「誰が足跡を動かすことができるのか」の2本。「スキン」では、彼女は全身の毛髪を隈なくそり落とし、素足素裸のままヴェネチアの街を歩いている。「誰が〜」では、彼女は血と思しき赤い液体の入った洗面器に足の裏を浸し、舗道に足跡をつけながら警察所の前まで歩いていく。
わたしがヴェネチア・ビエンナーレの印象として、120人にも及ぶ出品作家の中から特に彼女をピックアップしたのには、やはりわたし自身の興味がパフォーマンス・アートに偏っている、ということは申し訳ないがもちろんあるだろう。しかしそれよりも何よりもわたしの記憶に強く刻まれたのは、赤い生身の肉の切り取られ捨て去られるあの映像だった。ただの生きている肉の映像だった。ただの女のまんこだった。美術展にはあまり展示されないしろものだ。しかもアーティストがアートのために自分自身の大陰唇を切っては捨ててしまうのだ。
彼女は非常にシステマチックな方法で、その肉体から手垢にまみれた観念の衣を剥ぎ取って、身体そのものに近付いていくことのできる数少ないアーティストなのだと思う。それは女の体を持つものにとって本当に凄いことなのだ。彼女が自身の身体に近付けば近付くほど、通常それを許さないことで機能している社会システムの残酷さというものが際立ってくる。さっきはアートのためにと書いたが、アートというシステムをすら彼女は利用しているのかもしれない。過激だがその構築力によって必然となった彼女のパフォーマンスは、まるで尻込みするアートの概念そのものを先導していくほどの力強さを持っている。そしてまんこはアートになった。あの赤い肉。麻酔を打たれてもなお生き生きと呼吸するかのようなあの力強い肉体。
警察署の階段状のエントランスに立ちはだかる、ユニホーム姿の警察官たち。彼らの目前に血の入った洗面器を置き去りにして、裸足の彼女がスタスタと立ち去って行く。「誰が足跡を動かすことができるのか」の最後の場面である。それが何だったのかはその時その場にいなければ正確には感じられないことであろう。しかし、その血、何者の体から何のために流されたのか語ることのない血液は、見る者に想像することと同時に現実を見詰めることを喚起させる湧き出る泉としてその場に設置されたのだとわたしは思った。彼女が自らの身体を不安定で困難な状況に運んでいくその様は、その意思を貫き通すという点で、まるで等身大の革命だ。アートと呼ばれる世界あるいは業界が、彼女のような生き物にとって生息に足る場であること、それがアートのパワーであって欲しい。ヴェネチア・ビエンナーレ、理想郷でもただの祭りでも有り得ないが、「アートは自由を語れる最後の場である」とは、今回の総合ディレクターの一人、マリア・デ・コラール氏の発言だ。
アート話が続いていますが、請う、もうしばらくのお付き合い。フーサンの血は抗がんホルモン剤とアートでできているのだ、なんちゃって。ボルドーワインでできていないことだけは確かなり。