母たちの部屋、父たちの部屋、

母たちの部屋、父たちの部屋、 或いは女の部屋と男の部屋、それとも女優の部屋と男優の部屋なのか、パーテーションで仕切られて、二つの上映室が向かい合わせに設置されている。それぞれ六つの画面が横一列に並んでいて、どこかで見たことのあるような母親役父親役たちが、映画の中から切り取られ、背景を黒塗りで処理されて、ストーリーやシュチュエーションを剥ぎ取られて、ただの女性的表情或いは男性的動作と化して、同じ場面を繰り返している。まるでマリオネットのように映像作家に操られて、永遠に同じ瞬間をさ迷い続ける。哀れなような可笑しいような。

父たちは、トニー・ダンザ、ダスティ・ホフマン、ハーベイ・カイテル、スティーブ・マーティン、ドナルド・サザーランド、ジョン・ヴォイト。ダスティ・ホフマンのあれはたぶんクレイマー・クレイマーだろうし、ジョン・ヴォイトの演じているのはチャンプだろう。母たちは、スーザン・サランドン、メリル・ストリープ、ダイアン・キートン、ジュリア・ロバーツそして真っ赤なドレスのシャーリー・マクレーン。一番左端の派手な化粧のママは誰だろう。カタログで名前を確認して驚いた。わたしの見たことのあるフェイ・ダナウェイとは随分印象が違っていたから。

ビデオ・インスタレーションが新手法として登場し、あっという間に現代美術の主流になって久しいが、今回のヴェネチア・ビエンナーレでも、たくさんの映像作品やビデオ・インスタレーションにお目にかかった。その中で特に印象に残ったものの一つがこのMother,2005 Father,2005 という1972年南アフリカ生まれ、キャンディス・ブリーツの作品だ。

わたしは初めそうとは知らず、父親たちの部屋へ入った。ハリウッド・スターがずらりと並んで、レコードの針が飛んで音楽が繰り返されるのと同じように同じ動作を繰り返している。ハーベイ曰く、「ダディは何でも知っているのだダディは何でも知っているのだダディは何でも知っているのだ」と。ダスティ曰く、「君の言うことは解るよ君の言うことは解るよ君の言うことは解るよ」と。父親たちは妻や子の反乱を前に、この苦境を何とか切り抜けようと必死だ。必死に冷静に振舞ったり、必死に優しくなろうとしたり、必死に相手を説得しようとしたりしている。チャンプは特に自分の強さを誇示しようとしているように見える。何に必死なのかというと、ダディらしさを失わないということにつきると思う。包容力、理解力、判断力、余裕、上位、威厳、そして最終手段は断固たる決め付け或いは暴力的な仕草。それぞれの映画の中でダディたちが入れ替わって、別の家族を説得しようとしたとしても大した違いはないのではなかろうか。彼等があまりにも父親らしいので、ハリウッド・スターの演じる父親たちは、始め、実在の父親たちの焼き直しであったのかもしれないが、今や、実在の父親たちの方こそが、演じられた父親たちの再生産なのではないかとすら思わせる。

こんなに簡単に鮮やかにジェンダーを見せつける方法があったとは感服。わたしはこの映写室に長い間留まり、切り取られた父親たちの標本を楽しく眺めていた。相槌を打ったり、感心してあげたり、お茶を出したりしてあげなくても、自動的に父親らしく振舞う手の掛からない男たちを、安全圏からただ眺めることができるのが、わたしにはとても楽しかったのだ。オーディエンスは入れ替わり立ち替わり出入りしていたが、長く留まる人はなかなかいなかった。父親たちの部屋は平均して閑散としていた。父は寂しいものなのか。

「ああ楽しかった」と暗い部屋を出て、ふと見ると隣に暗幕の垂れた同じような入口があり、少し覗くと女優の映像が横一列に並んでいるのが目に入った。「なるほど。」わたしは今度、初めから母親たちの部屋であることを納得して入っていった。中は結構な人混みであった。まずそのことに驚かされた。明らかに女優の方が人目を引くらしいのだ。作品のコンセプトから言えば、両方同じ時間をかけて鑑賞するのが筋と言うもの。だがしかし、人々は己の感性に正直なのであった。なぜだろう、女優の方が華やかで見ていて美的に満足するのだろうか、女性の方が顔の表情が大きく動くので見飽きないのだろうか、それともたまたま登場している女優たちの方がスターとして有名だったということなのか。わたし自身は上記の「安全地帯」という理由で父親たちの部屋の方が楽しかったので、それは想像するしかないのだが。

母親たちは一見して取り乱していた。激しく泣き叫び、たくさんの涙を流し、或いは物静かに立ちすくんでいたとしても、なぜか皆、取り乱しているように見えた。動作や顔面の変化が過剰なように見えた。なぜなら女優たちはその人物の感情を表現しようとしていたから。相手を説得するときに「わたしは怒っている」「わたしはいらついている」「わたしは悲しんでいる」だからなんとかしてちょうだい、わたしを幸せな気分にするためにわたしの言うことをきいてちょうだい、という説得方法をとるらしい。母親マリオネットたちの画像からはそうなふうに読み取れた。母たちをいくら長く見ていても、相手が誰なのか見当がつかないし、いったいどんな問題が持ち上がっているのか想像することも難しい。とにかくその母の感情の在りかだけは痛いほど伝わってくるのだ。女性を演じるということはこういうことなのだろう。求められる女性像というのはこういうことなのだろう。女ジェンダーというのはきっとこういうことなのだろう。悲しいときは泣くしか術を持たず、解決してくれるのはそれを請け負った夫か何かであって、決して自ら解決してはいけないのだ。とにかく相手をいかにその気にさせて、自分の思うように誘導できるのかが、母の実力、女の解決方法なのだ。ハリウッド・スターたちは一列に並んで、ちっとも女らしくしないわたしに向かって、女というものを教えてくれているようであった。

「D.Vは突き詰めればジェンダーの問題だ。感情を持つことを禁じられている男ジェンダーと、優位に立つことを禁じられている女ジェンダーとの間に発生するのだ。」ドメスティック・バイオレンスの問題に長年取り組んでおられる方がこう話していたと、ここでそれを持ってきたのを、あまりな飛躍とお感じになるかもしれない。しかし、あの洗練された楽しく親しみやすい映像作品を思い出すたび、わたしの頭の中ではこの言葉が後を追いかけるように浮かんでくるのだった。それはたぶんわたしがドメバイ育ちだからなんだろう。これは本質を見通す視線なのか、それとも、傷ついて狂った被害妄想なのだろうか。


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