これは「男女関係」ではない

これは「男女関係」ではない という例として、一つ。8月13日レズビアン・ゲイパレードの帰り、二丁目で一杯やってタクシーを拾った。話し好きのタクシードライバーに当たった。「今日あたり都内で人出があるのはこの辺だけですよお、すごいですねえ、お祭りかなにか?」「そうです。パレードがあったので。」「はああ、いいですねえ、お賑やかですねえ。」「ああ、お盆の東京は人少ないですよね。わたしも明日から田舎ですわ。」「ああ、いいですねえ。」「やっぱ、年に一度くらいは顔出さないとね。」「それで、お賑やかなんですよねえ。皆さん集まって。」(あれ? まだ二丁目の話だったのか? 帰省の話にシフトしたつもりだったが。)彼の頭の中で「二丁目」という言葉が膨張し、聴力に悪影響を及ぼしているようだった。

以前にもタクシー話をしたことがあったが、考えてみればタクシーに乗るという行為は、わたしにとってちょっと特別なことなのである。それは贅沢な乗り物だからと若い頃は思っていた。けれど中年になって、タクシーに乗るくらいのことがそれほど贅沢でなくなってからも、心の底に小さいけれど打ち消し難い違和感があることを意識せずにはいられない。どんな違和感か。告白しよう、親しくもない男と二人きりで密室に閉じ込められた違和感である。しかも相手はハンドルというイニシアチブを握っている。後部座席におとなしく座している間中、わたしはまるで、あっぷっぷ体勢とでも言おうか、達磨さんにでもなったような気分。一人相撲ながら、どうしても少しだけ緊張してしまうのだった。

運転席の彼は、あまり間を空けずに様々と次々と話し掛けてくる。暫く会話を続けるうちに、ふと疑念が湧く。何だかこの人変である。やけに丁寧、やけにシタデ、やけに何だか猫なで声。そしてやけに近い距離感、親近感。会話の内容は普通に進んでいくのだが、わたしは気持ちが落ち着かない。ゴマをすられている感じに近いだろうか。ある種の違和感。しかしこの違和感はいつもと質が違っていた。頭の中の引出しの、過去の記憶を多方面に渡って検索してみたけれど、これと同じ感覚はどこにも見つからなかった。今までこんな扱われ方を、わたしは誰からも受けたことがないのだった。釣銭を渡すとき、わざわざぐるりと体を返して、タクシードライバーは客の顔を覗き込もうとしたので、やっとわたしは気づいたのだが、彼はわたしをオカマと思い込んでいたらしかった。

タクシー稼業の醍醐味を想像するに、それは漁師に近いのではないだろか。今日の景気はどうかな、たくさん釣れるといいな、どんなお魚が引っかかってくれるのかな、荒れたことが起こらず今日も一日無事で過ごせたらいいな、と日々願っていらっしゃることだろう。だから釣れたお魚がどんなお魚だったのかつい確認したくなってしまう気持ちはわかる。それが珍しいお魚だったとすればなおさらだ。パレード用に普段着の範囲ながらちょっと派手目の女装をしていたカリアゲのわたしは、新宿二丁目=ゲイ=オカマという固定観念に支配された人の目には、確かにウィッグをとったオカマに見えた、かも。

彼は終始、「でも」この人は男なんだということを踏まえて話し掛けていたのだと思う。暗黙の男同士の力関係がそこにはあったのだと思う。わたしをつまり客を、或いは年上の男を、彼は「上」に置いて話していたのだ。それはとても不思議な感覚だった。ふわふわとした軽い感覚だった。そしてわたしは、彼がまるでわたし専属の下僕ででもあるかのように「下」になるので、何だか解らんが何かがとても心配だったのだ。そこには丁寧な性格、手馴れた接客、職業人としての自負などから生まれるお客様への態度とは違う、もっと強固なもっと許し合った、言わば甘美な上下関係が存在していた。しかし、慣れない、というかその関係を内在しないわたしにとって、それはまるでマボロシ、何かの間違い、戸惑っているうちに終ってしまった、あっと言う間の夢の出来事であったのだ。

そこはかと無いこのエピソード、わたしに強い印象を残した。だって気持ち良かったから。相手がどう出るのかを慮ってあげなくていい立場。ただただオレサマ振りを発揮しているだけで歓迎される立場。そればかりかオレサマ振りの発揮度が低ければ、もっと高めるようにと相手に誘導される立場。信じられないほど肩の荷が軽い。何だってできるような気になってくる。一度やったら止められない。でも、もう二度とないだろうな。

ここで老婆心ながら、一言。オカマは女になれないよ! ってわたしは言いたい。MTFにも、本当にその地位捨てていいの! ってわたしは言いたい。

話をスライドさせよう。フーテンの寅さんは男ジェンダーの一つの極みだ。教養も無く、金も無く、地位も無く、美貌も無い。寅さんにあるのは男らしさのみ。けれど楽しく暮らしている。いい人だいい人だと行く先々で愛されている。それは寅さんがこんな男あんな男なのではなく、男という中心点近くに生息しているからだ。(混じりけの無い)男として、(不純物の混じった、一般人としての)男の中に在るはずの、(真の)男を正すという重要な役どころを担っているからだ。ここで男としてわたしがイメージしているのは、狭量で脆い日本男児などというローカルなものではないので、悪しからず。

ところで女寅さんは可能だろうか。物語として、女寅さんのキャラクターはどんなものになるだろうか。女だてらに自由気ままに世を渡り、男にも女にも心に届く説教を垂れる、困った人のためなら一肌脱ぐが、孤独を愛しているので、結局はどこにも定まることは無い、そんな姉さん。可能かもしれない、けれど車寅次郎のように緩んだ人物では持たない気がする。女寅さんは、情に脆く恋心に躓きやすいところはあっても、面倒見のいい姉御肌なしっかりした人物でなければ、得意の説教に説得力を持ち得ない。苦労を積み重ねてきたことが見て取れるような、ある種の貫禄がなければ、皆様に愛されない、そんな気がする。つまり多少の底上げ、下駄が必要なのかもしれない、エンターテイメントとしては。タイトルはきっと「女はえらいよ」がいい。「男はつらいよ」の向こうを張るのだとすれば。それでは、こんなトランス・ジェンダリズム一案、と言うことで。


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