自民党に投票した人もしなかった人も、

自民党に投票した人もしなかった人も、今度の衆議院選挙については、この随分極端な結果を見て驚いた人も多かったようだが、わたしも大いに驚かせてもらった一人だ。いつもは「ちぇっ!」と一言感想を発した後は、テレビを消して風呂に入って、翌日にはすっかり選挙のことなど忘れてしまうのだが、今回は三日三晩さらに二晩を経てなお頭から離れない。与党327議席。憲法改正のできる議席数、全体の3分の2、すなわち320議席を見事に上回ってしまったから。もともと民主党も改憲派なんだから、今さらそこを持ち出すこともないじゃないという意見もあるが、発せられた直後は一応失言扱いだったあの「日本は神の国」発言が、今やどういう意味を持ってくるのかと考える。あれは奇しくも、スーパー与党内最大となった派閥のボスの発言だった。コイズミ・ソーリはその派閥の出身だ。実家みたいなものだろう。ソーリの大勝で実家も栄える、パパゲーノ・モリの格も上がるというものだ。

早くもボスはやりたい放題の気配を醸し出している。選挙前には衆議院解散後派閥の会長を辞任すると発言していたはずだが、選挙後は、辞めるつもりは無いと言っている。やりたい放題はパパゲーノに限らない。選挙翌日、カンジチャーノ・タケベは早速言った。「郵政民営化だけじゃない。憲法改正や他の問題もある。」と。あの国民の責務とか書いてある、おかしな試案を持ち出す気らしい。国民は白紙委任したわけじゃない、とあちらこちらで言われているが、あげちゃったものはあげちゃったものだ。貰った人がどう使おうと口出しするのはいや増して困難だ。

しかしそれにしても、わたしはコイズミ・ソーリのどのへんが格好いいのかわからないし、どのへんが頼りになりそうなのかわからないし、どのへんが強いリーダーシップなのか全然わからない。彼のオーラが全然見えない。「人生いろいろ」とか、「ガリレオ・ガリレイの地動説」とか、言っていることもちっとも響いてこない。いつだってどこかからの借り物だし、核心をうやむやにするための言い訳がましい発作的な詭弁に過ぎない。このテレビ情報時代、その場を凌ぐアドリブ的な才能が他の部分よりも目立つという現象が見えてくるだけだ。

民主主義的機能ということから見れば、あまりにも便利で解りやすいテレビは「両刃の剣」と言える。人間の感覚は視覚に囚われやすいもの。赤ちゃんは毎日見ている親の顔をその他の顔と識別する、そして特別なものとして記憶し愛着を抱く。それは生存を左右する大切な能力であるのだが、人からの好意を掴むには効果的な方法として、親でなくとも簡単に利用することができる。毎日少しの時間でも国会の廊下ででも記者からの質問に答えテレビに映ることを続けたソーリの姿に、視聴者は見慣れたという愛着を抱かずにはおれないだろう。安心感といってもいいかもしれない。例えば、毎日のニュース番組で野球の話題を放送しなくなったら、あっと言う間に球場に足を運ぶ人は減り、プロ野球の存続は難しくなるのではないか。コイズミ・ソーリがテレビに出なくなれば起きることはきっと同じ。

始めに現実の姿在りきではなく、テレビの中からやってくるものが私達の現実なのだ。わたしたちはすでに、インターネット普及以前から、そんなバーチャルな世界に住んでいた。すでにそんな二極化した世界に生きていた。テレビに映る人と映らない人。わたしたちはテレビを通して概念的なものと繋がっている。手に触ることのできない全てのもの、国家とか歴史とか社会とかスターとか権力者とかソーリとか。テレビが何を選ぶのか、視聴率の高いものを、わたしたちが見たいものを。わたしたちは何から見たいものを選ぶのか、テレビの画面に映っているものの中から。つまり自己撞着。しかもテレビに映っているものはすでに権力者によって選択されている始末。

でもよく考えてみれば、この自己撞着こそがバーチャルなのだ。テレビを消しさえすればもう、この架空の現実はどこにもない。これこそが見えなければ存在しないシュレディンガーの猫なんじゃないか。つまりテレビはその特質としてもともと詭弁を内包している。コイズミテキを問うテレビ番組を見ることは、洗濯機のウズを無為に見つめているよりもグルグルしているということになり、甚だしく馬鹿馬鹿しい。見ちゃったけど。

ここからは手前ミソ。国或いは国家というものと個人との関係について、アーティストはその活動の性質上、多少敏感だろうと思う。「越境するおんなたち2001」という企画・制作・出品すべてを参加者間でまとめ上げていく多分にワークショップ的な美術展に参加したときのこと。そのシンポジウム、テーマは「ウイメンズアートをどのように捉えるか」だったのだが、途中、話は国家と個人との関係を通り抜けないわけにはいかなくなった。インドネシアからのパフォーマンス・アーティストは自身の投獄経験をも交えながら、表現活動が国家権力によって著しく抑圧されていようと、いやだからこそ、そのような国内で行為し続けることの意義と決意を静かに語った。それは政治的な活動ではなくヒューマニティの発露なのだと。また自らを「電脳流民」と称する台湾出身の映像作家は、アーティストはその活躍の場を世界中どこにでも自由に選ぶことができるし、またそうするべきだと反論した。彼女は国のすることに囚われず一人の人間として生き抜くことがアーティストとしてあるべき姿と言いたかったのだと思う。

今このとき、わたしは二人に思いを馳せる。これらのスタンスの違いはどちらが正しいと言うものでもなく、どちらが厳しいと言うことでもない。社会のエッジに行ってみる、社会のエッジにその手で触れる、社会のエッジを際立たせる、社会のエッジを越える、壊す、どちらにせよそれがアートなんだと思う。そんなアートが、表現が、発言が、活動が、これからここにはもっとたくさん必要だ。


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