遠方の友人

遠方の友人 を訪ねる旅に出た。新幹線で東北へひた走る。都心から脱出した途端、景色の中に秋の陽光がきらきらと輝いている。緑がどんどん多くなっていく、田んぼの稲はたわわに実り、黄色く色づき、優しく頭を垂れている。小高い丘が重なり合っている。郡山から先は初めてだ。東北は森の国、それからもう一つ、北へ行くほど青色が美しくなっていく、そんなことしか考えない幸せな時間、飛び去っていく時間。列車の車窓から呆けっと景色を眺めるのは極楽。お座敷列車があるのだから、温泉列車があってもおかしくないよな等と楽しい空想に身を任せる。時おり読みかけの本に目を移し、飽きれば遠くへ視線を投げる。

その友人に会うのは5年ぶりくらいだろうか。以前彼女は東京に住んでいて、わたしたちは、パフォーマンス・アートのことや、読んだ本のことや、共通の友人のことやらを飽くことなく語り合った。あまり一緒に出歩いた記憶は無く、大抵どちらかの部屋でゆるゆると時をすごした。彼女は15歳ほど年下で、その瑞々しい感性はいつもわたしの意表をついた。彼女は人並みはずれて鋭くそして不安定だった。その白い肌は雪国で育ったせいか、そのまっさらな視線は広い景色の中で育ったせいか。東京の生活は水が合わなかったのだろうか、彼女は精神安定剤や睡眠薬を常用していたが、とうとう実家へ帰っていった。それから後も思い出したように年に一二度、電話をかけてくれていた。

「わたし退院したんです。」8月お盆の頃、突然彼女から電話があった。「えっ、そりゃおめでとう。どれくらい入院してたの?」「二年。」なんだか久しぶりだなとは思ったが、それほど長い間、わたしは彼女から連絡のないことに気づかなかったのだ。何と言うことだろう、わたしは彼女のことを忘れていたのだ。この2年、わたしの方にもいろいろあったとは言え、彼女の苦境を第六感で感じなかったことが、なんだかわたしは悔しかった。

「パフォーマンスをしたんですよ、雪の降る日に。体を赤く塗って、日章旗を振ったんです。」真っ白な景色の中で上半身裸の真っ赤な女が、白地に赤の大きな旗を力いっぱい振っているの図。瞬く間に頭の中に鮮烈なイメージが湧き上がる。力強い配色、考え抜かれた道具立て、一瞬にして心を砕くように見る人の胸をつくコンセプト。潔さ、純粋さ、必死さ、そして冷徹な批判精神。「わたしはハプニングが好きなんです。やはりパフォーマンスはハプニング的な要素があるべきです。わたしは好きです。わたしはハプニングをやります。」彼女はいつも、まず本質的なことを言うのだ。「自分の家の庭でしました。チラシを作って人を呼びました。」「近所の人が気持ち悪いと言うのです。気違い女と言うのです。」「親戚の伯父さん二人に挟まれて、車に乗せられて、病院に連れていかれました。わたしは自分を傷つけるようなこともあったので、そのまま強制入院。」わたしは驚いて聞き返した「パフォーマンスやっただけなのに?気違い扱いされたの?」「そう、誰もアートなんて思わなかった。」「ただの気の振れた娘にされたの?」「そうです。」「何で二年も。」「さあ、いろいろ壊したからかな。電話とか、壁とか。」

確かに彼女は薬を服用し、通院もしていた。だからと言って、彼女のパフォーマンスを正統に扱わないなら、芸術性を無視するのなら、そのような社会の方こそが狂っている。同じパフォーマンスでも単独、突発、野外ではなく、アート・フェスティバルのような時や、ギャラリーのような場所を選んで行われたのなら、誰も彼女のことを気違いとは思わないだろう。例え、相変わらず理解し難いものと受け取られようと、その場では、わけの解らない気違いではなく、解らないパフォーマンスをするアーティストということになるだろう。翻ってみれば、アートの領域とは、気違いに社会の秩序を乱されないようにするためのゲットーのようなものである、とも言えるのだろうか。

彼女に会ってみると、懐かしいというよりは、以前よりも親しくなっているという気がした。彼女はさらりとこう言うのだ。「あまり無防備にパフォーマンスをすると酷い目にあうということが解りました。」なんでもかんでも自主規制で、本当のことがなかなか伝わってこない世の中にあって、なんというまともな判断方法だろうか。「またやりますよ。今度は親にも、やりたいことを、どういう意味があるのかをよく説明して。」そんな話をしていると、ちょうど居間のテレビに、開幕したばかりの横浜トリエンナーレの様子が映っていた。「とかく難しいと敬遠されがちな現代アートですが、ここでは参加型の楽しいアートを目指しています」と紹介されている。「これではまるで愛・地球博だね。」とわたしが言うと、「楽しいアートって、どんなものなんでしょうか?」意外に真剣な顔をして彼女はそう言った。

ここからここまでがアートの展示場なのだと区切られた場所で、「アート」に「参加」するということに、一体どれほどの意味があるのだろうか、とわたしは懐疑的になった。例えば東京都にはヘブンアーティストというものがいる。まずアーティストは審査選定される。公園や地下鉄などに現れ、許可されあてがわれた場所で束の間活動するのだ。おそらく何時から何時までと決められていることだろう。これを定め運営する東京都生活文化局は、「都民が気軽に親しむことができ、アーティストと観客との交流をとおして芸術文化を育む場」を提供している、と誇らしげだ。

アーティストは審査され選ばれなければならないのだろか。アートとは規制され管理されなければならないのだろうか。もっとフレッシュで、予想外で、刺激的な、気持ちの良い晴れた日にこそ突然やってくる、不思議や慈愛を心に残して消えていく、お天気雨のようなアートだってあるのではないか。「人間の幸せは自由であることだとわたしは思います。自由であることなんです。」薬の作用で体中の神経が多少鈍くなっているので、彼女の発語はたどたどしい。ゆっくりとわたしの心を濡らし、沁みてくる。



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