生き物はDNAを運ぶ舟

生き物はDNAを運ぶ舟 と、生物学者が言うのを聞いたことがある。わたしたちの行動を支配するものはDNAなのであり、その存続、継続、受け渡しがこの世に生を受けし者の使命なのである、とか。また、子或は兄弟姉妹の子までなら、自分の生命を投げ打ってでも助けてしまうのがこの舟の性である、とか。この言葉から何が分かるのかと言うと、どんなに一生懸命この学者がDNAの研究をしていたのか、ということが分かる。そんなにDNA中心に物事を考え、人間観まで単純化しなくても、と思わなくもない。だが、しかし。

実は、わたしは舟として途切れてしまったことが、今、少しだけ悔しいのであった。抗がん剤の投与で月経が無くなってからも、心密かにいずれ復活するのでは、と期待していた。そして、もし復活したなら、誰の精子かにそれほどこだわることもなく子を成そう、などと思い描いてもいた。だが、それは程度として「気軽な」考えでしかなく、真剣に思い悩んでいたわけではなかった。本気で子を産みたいと思っていれば、この抗がん剤の投与例のうち、40代では70%が閉経していると聞かされた時に、卵子凍結保存あるいは卵巣凍結保存、あるいはいっそのこと、受精卵にしてから凍結保存などについて検討するべきだっただろう。だが、しかし、わたしはそれほど真剣ではなかった、というか出産する気など毛頭なかった。

その時はだから、あまり深く考えることも無く、まあ大丈夫だろう程度の気持ちで治療を開始したのだった。そして抗がん剤の投与は無事に終了したが、いつまでたっても月経は止まったままだった。折悪しく治療開始直前、わたしはお気に入りの生理用紙ナプキンを5袋も買いだめしたばかりだった。もう使うことも無いと分かってはいたが、一年余りもそのナプキンを戸棚に仕舞いこんだままにした。そこはかとなく、踏ん切りがつかないような気がしていたのだ。診察室でこの患者の閉経について話題にされることはまったくなかった。がんの治療が目的の通院だったのだから、独身女性の子を成す能力についてドクター側が問題にするはずはなく、患者としても現人生において具体的に差しせまった問題という意識もなく、呑気にやり過ごした。閉経したのかな、していないのかな、と気になってはいたが、血中ホルモン濃度を調べるなどしてケリをつけるのは先延ばしにしていた。なんとなく、知りたくなかったのだ。それにもし月経が戻ってきてしまえば、治療上月経を止める注射を打たねばならず、それは月に一度、尻にふっとい筋肉注射でとても痛いと聞いていたので、止まったままであることはむしろ好ましかったのだ。

わたしみたいな者は、成り行き上、結果としてなんとなく生みそびれたということになるのだろうか。既に40代であったわけだし。しかし、なんとなくと言うよりは、やはりあまりにもあっけなく、考える間もなく、ぷっつりと終わってしまったことに対して判然としない思いが残っているという気がする。産む機能がこの身に備わっていた頃、結婚するのはいやだし、出産するのは気が進まないし、だから子供がいなくて当然だろうと思っていた。けれど、まるでがんの治療と引き換えのように閉経してしまったことの、うっすらとした何か嫌な感じを自覚してからは、本当はどうしたかったのだろうかと改めて考えてみるのだ。例えもうしばらく排卵し続けていたとしても、子を設けていたかどうかは甚だ疑わしい。それでわたしは自由にわがままに仮想してみることにした。

わたしが子孫を残すためには、生物科学がもっと発達していて、生命倫理がわたしの都合のいいように確率されている必要がある。そのような近未来を想定してみる。わたしの細胞の核を他の卵細胞に移植し体外受精させる。したい人はすればいいが別に女が出産しなくても大丈夫、受精卵保育器があるから。そんなことを空想してみると、わたしは結婚妊娠出産がいやだっただけで、子が欲しくなかったわけではないということに気が付いた。考えてみれば、男は生まれつきそれで当たり前なわけだけれど。

最近診察時に、今までになくドクターにしつこく閉経しているかどうか聞いてみた。答えは分かっていたのだが、やっと素直な気持ちで口に出して言えるようになった自分を確認するためだった。「血液検査でホルモン値が閉経パターンになりましたね。」との回答。「一度そうなってからまた戻るってことはありませんか?」「ありません。」「なんだ、そうか。いよいよ閉経か。」するとドクターは少しあわてて「だからと言って、女性でなくなるわけではありませんよ。」と付け加えた。「うっくー!」このうめき声、彼には何と響いたであろうか。その心は「そんなに簡単に女やめられたら、何もこんな苦労はしないんだよう!」であったのだが。


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