その日は「有頂天ホテル」へ 行くことにした。夜9時から始まるという秋篠宮記者会見をテレビで見ようかと、ほんの一瞬迷ったが、結局わたしは地下鉄に乗り、巨大スクリーンをいくつも備えた娯楽コンプレックスへと足を運んだ。平日のレイトショーだったので、大きな吹抜けのロビーは閑散としていた。いくつもの上映室が同時に入口の扉を開けて観客の訪れを待っており、暗い内部にためらいつつ、わたしはそのうちの一つに入っていった。すでに予告編が始まっていた。背後でパタンと扉が閉じられた。
映画の中は大晦日だった。「何のために大晦日があるのよ。明日からまた新しいことが始まるのよ。」物語中一番のオプティミストらしいめげないコールガールの台詞。自殺しそうな気配を漂わせる失意の汚職政治家を、なんとか明るい方向へ誘導しようと健気に立ち振るまっている。物語の舞台はホテルだから、いろいろな人が入れ替わり立ち替わり、悲喜こもごも。いろいろな役者がいつものはまり役のイメージで、或いは、目を疑うカツラや大きな模造耳をつけた際どいイメージで、それぞれ役をこなしている。例えば、自身のお恥ずかしい写真の入ったケイタイを、人の手からもぎ取って、滅茶苦茶に踏みつけて壊し、狂喜の雄叫びを上げながら全力で走り去っていく、ザ・マン・オブ・ザ・イヤー役の角野卓造。不思議に似合う一九分けのカツラの上から、女物のゴージャスなブルネットのウイッグを被って、女優の逃げた穴を埋めようと必死にメイクしている、芸能プロ社長役の唐沢寿明。物語は年越しパーティという大団円に向かってあれよあれよと展開していく。コメディの王道をいく、楽しい楽しい、ときどき悲しい、そしてまた楽しいという展開だ。もちろんわたしは映画を見ている立場であって、実際、その物語をいっしょに生きることはできないのだが。
部屋の数ほどたくさんの物語。登場人物は全員がそれぞれの事情を抱え、自分を抱えて、名誉とスキャンダル、夢と現実、かつてと今、表と裏、愛と金、正義と保身、過信と不安、うそと本当、思いやりと自分勝手、常識と非常識の間、要するに人生の狭間で右往左往。皆が皆一生懸命で忙しい。新しい年がやってくる前に、このモンダイをなんとかしなければ、何か新しいことを見つけなければ。ホテルはそんな生きることに夢中な人々が巻き起こす笑いの渦ではちきれそうだ。物語りはいよいよ佳境に入り、それぞれが危機をどう乗り越えていくのか、思いをどう成就させていくのか、どんなどんでん返しがあるのか、見ているほうは目が離せない。ところがどうしたことか、たった今げらげら笑った自分から幽体離脱でもするように、ふと、何か寂しい感じが、ぽちっと心に芽生えた気がした。わたしは「有頂天ホテル」の住人にはなれないという、疎外感のようなものが胸をよぎった。
それは、ここへ来る直前に見ていた、紀子さん懐妊を報じるテレビ・ニュースのせいかもしれなかった。街頭インタビューでは皆にこにこと祝辞を述べていた。誰も彼もが幸せそうだった。幸せそうでない人はカットされたのだろうから、それは選別された情報なのだから、皆が「おめでとうございます」と言っているのは、仕組まれた仮想の現実なのだから、こんなわたしもこの国に住んでいるわけだから、それはたいしたことではないのかもしれない。しかしそれでも、それは事実だ。天皇家に男子が生まれるであろうことを喜び、その喜びを映像にして配信し、皆が喜んでいることでこの国の雰囲気はなんとなく和み、男子のみが尊いという考えが野放しにされ、皇室典範改定論議は急速にしぼんでいく。男子が生まれるのなら改定する必要はないという暗黙の合意は、この国の大方の人々の思いを反映するものであり、結局は、男尊女卑文化の根強さを肯定するものとなっていく。わたしはこの日本に生まれ、そして死んでいく身である。否が応でも、この国において自身の尊厳を守っていかなければならない。そういう意味で、わたし個人と祖国との関係には偽りがあると言える。深い内面的なところで、わたしは日本国民を偽装している。そしてわたしは、日本のほかに故郷を持たない。悲しさのような寂しさのような苦い感情が、心の奥底からじわじわと上ってくる。
さて、映画「THE有頂天ホテル」を楽しく見ながら、同じような疎外感を覚えたのはどういうわけだったのだろうか。後半のある時点で、物語の全容が見えてきた頃にわたしはようやく気がついた。ここにいる女たちは皆なんという優しい、なんという賢い、男を愛する、素晴らしい女たちなのだろうか、ということに。騒ぎをおこしているのは間抜けな、見栄っ張りな、強欲な、ドジな、そしてそれゆえ人間的な魅力に溢れる、目の離せない男たちである。それぞれに守護神とも言うべき女性たちが割り当てられていて、最後は何とか、彼女たちの行動力や、的確な助言や、暖かい励ましやらに支えられて難局を乗り越え、人間的にもほんの少し成長していく。有頂天ホテルの女性たちは、一言で言って、それぞれ顔の違う聖母たちなのだ。男の有頂天をお世話し支えるマリア様たちなのだった。作者個人の女性観の反映に過ぎないと割り切ってしまうには、その日わたしはナイーブであり過ぎた。聖母礼賛、それはまた形を変えた男たちの物語だ。聖母の胸に抱かれているのは、いつでも男の子ではなかったか。聖母とは、男を愛し慈しみ、育む女のことだったのか。
聖母も、美人も、処女も、良妻も、賢母も、マドンナも、レディも、悪女も、魔性の女もみんな女の偶像である。この偶像、みんな男あっての偶像である。わたしは女を崇拝しない、そして男も崇拝しない。だから国家も崇拝しない。なんだかちょっとヤケクソ気味に、その日、そんなふうに考えた。国体の救世主となった紀子さんの、聖母然とした微笑みが、その日、頭から離れなかった。
(「THE 有頂天ホテル」おもしろいです。男系崇拝とは何の関係もありません。)