がんとがんじゃないものの境界線 は案外と曖昧なものだ。からだのどこかに腫瘍が見つかると、次にはその細胞の検査をする。悪性かどうか見極めるためだ。悪性でなければ良性、つまりがんじゃない、と見なされる。その悪性良性の境界線も、実はそれほどはっきりしていない。細胞の異型度は5段階にクラス分けされていて、「クラス5がでました」は「がんでした」と言うことだ。詳しいことは知らないけれど、クラス4とクラス5が決定的に違うように、クラス1とクラス2は違うのだろうか? クラス3とかクラス4とか異型度が高ければ高いほど、のちのちその細胞ががん化する危険が高くなるのだろうか? クラス4のようなクラス5のような細胞というのもあるはずで、その場合はどちらに振り分けるのだろうか?
がんの腫瘍はがん細胞の集合体だ。一つ一つのがん細胞の性質は必ずしも同じではない。むしろさまざまな性質を持つがん細胞の集まりなのだ。何かしらのがん誘発因子が分裂途中の正常細胞にガツンとぶつかってしまったとき、それは細胞レベルでは結構な広範囲の大事件だったりして、一度に何個も犠牲者(がん細胞)が生まれたのかもしれない。さらにそれらの元祖がん細胞たちが分裂を繰り返していくたびに変わっていったことの結果なのかもしれない。がん細胞は細胞として不完全で不安定だ。細胞が分裂するときに、親細胞の性質をそっくりそのままコピーするとは限らない。そもそもそこのところで失敗したのががん細胞の始まりなのだし。
変わっていく、衰えずいつまでも増殖を繰り返す、生き延びるために耐性を獲得する、しかし正常細胞よりも弱い、身体の全体性から切り離されている、といったところが、わたしのがん細胞に対するイメージだ。わたしのがん細胞、いったい何をしているのだろう。目に見えるところでは、日々、減少しているような気がする。目に見えるというのが、一種特別な状況だけれど。皮膚に浸潤し、からだの外へ外へと向かっていたわたしのがん細胞は、よほどの脳天気だ。(どうしてもがん細胞に人格を想像してしまいます)体の外へ出てしまっては生きてはいかれないという、細胞としての基本のキが間違っていた。今はそのことを多少は学習したようで、皮膚から外に出ようとはぜず、体内にじっと留まっている。そうかと言って、体の内側、暗い方へとこもっていくのは性に合わないらしく、その場で小さくなって暮らしている。全体の数を縮小し、節約してなんとか凌ぐことにしているようだ。いつか挽回のときを狙い、虎視眈々としているのだろうか。それとも右肩上がりをやめて、縮小安定型(?)経済に挑戦しているのだろうか。異型化を諦めて全体性に目覚めてくれたら、それが、がん細胞さん、あなたにとっても最良の道であるのです。などと、わたしはうつむいて、左のおっぱいと、胸の真中の胸骨あたりに向かって理を説き、説得工作を試みている。宿主のわたしも、およその脳天気であるらしい。
よく、がん治療のための医療行為は戦争に例えられる。放射線は武器であり、抗がん剤は弾薬であり、患者の体は戦場だ。医師は戦場に直接出向くことのない軍の最高司令部であり、患者自身はさしずめ現場の将軍と言ったところか。わたしは今、敵であるがん細胞集団に対して、休戦を申し出ていながら、影でこっそり手を回し、目立たないようホルモン抑制部隊を差し向けているという、ちょっとなんだか、小ずるい戦法をとっている、というような気がする。「小ずるい」と感じるのは、なんとなく体の調子がはっきりしないという実感からきている。化学療法中のように、もっとはっきり調子が悪ければ、がんと戦っているという実感が得られ、非常事態、激しく戦闘中、ああ、散る桜もまた美しからずやってな気にもなるというもの。しかし、わたしは平和主義を標榜するもの。戦争を容認していていいのか?しかも、この世で最も身近である、自身の身体という場において。
わたしの考え方は混乱しているのか? 戦争と医療行為をいっしょにするのは、理屈がおかしいのか? しかしそれなら、体を傷つけながらの治療というのが、本来の、治癒という考え方に反していながらも、治療と見なされるという、便宜的としか思われないような現状をどう捉えるのだ。がんの治療は理屈がおかしい!のではないか?わたしはわたしのからだを攻撃している。がん細胞もわたしのからだだし、がん細胞といっしょに死んでいく、言わば民間人であるところの正常細胞のことはどうする?いいのか、これで?将軍として、深いジレンマを感じる今日この頃。
そんなことを考えるのも、それはきっとヨガのせいだ。ヨガを始めて9ヶ月あまり、だんだんからだが解れてきて、今まで存在を感じなかった筋肉に、意識がとどくようになってきた。そこにわたしの肉体があるということの実感が、少し強く、繊細になったという気がする。からだのパーツが繋がっていて、重なっていて、そしてからだを直立させている。人間が直立しているという状態は、案外精巧にできていて、一番気持ちの良い状態を探り出し、維持していくには日常的な微調整が必要なようだ。からだが解れてくれば解れてくるほど、ちょっとした偏りがどうにも気持ち悪く、しょっちゅう、伸びたりひっくり返ったりして調整したくなる。そして体液の循環が良く、からだの調子がいいという状態を、ほんの数時間思い出したりするのだ。それでも、おそらく飲んでいるホルモン抑制剤のせいなのか、それともがんのせいかもしれないけれど、体調がどんどんよくなっていくということはない。相変わらず疲れやすいし、関節はぎしぎししているし、頭はボケーっとしているのだ。ああ、気持ち良く在りたい! いつでも、いつまでも。
わたしは?期のがん患者、標準治療と言うものはない、ある意味自由な立場といえる。しかも、ただ今がん細胞休眠中。だからこそ試してみようか、ヨガに漢方にホメオパシーにマクロビオテック。これが果たして、手持ち無沙汰な将軍の、ちょっとした思いつきであるのかそれとも、からだの欲求を読み取っているということなのか、そこまではっきり解るには、まだまだ修行が足りないようだけれど。