女人禁制とは、

女人禁制とは、 女が行ってはいけないところ、また、それを定める制度のこと。言葉として、なんだか仰々しいような響きを持っている。女禁止! 進入禁止! 立ち入り禁止! なぜなのだ。そこは男子トイレか、それとももしかしてハッテン場なのか。なにしろ女であるわたしは行ったことがないので、本当のことを知る由も無い。

ただ単に、何のために? どういう理由で? と疑問に思い、「どうして女だからって修行してはいけないのだろう? 女に修行は必要ないのかな?」などと、呟いてみたことがあった。そのとき、わたしの隣には、1970年代の日本の現代美術を背負って立っていたことのある、その頃は廃れていたが、もの派という美術運動の旗手の一人、つまり当時わたしの大学のセンセイであったところの男が立っていて、「ごめんね」と一言謝ったのだった。わたしは独り言のつもりだったので、「へっ?」と問い直すと、「ごめんね。昔からきまっているんだよ。」と多少の説明をつけ加えた。「でも、だから、どうしてそう決まったのでしょうか?」と、さらに問うと、「まあまあ、いいじゃないの、そう深刻ぶらなくても!」ポンポンとわたしの背中を叩きながら、話を打ち切ろうとした。「いえ、深刻ぶってません。ただ、わからないだけで、」「うーん、そうだねえ、どうしてだろうねえ、ボクにもわからないな。」「女は修行する必要がないのかもしれないですよね。もともと悟ってるのかもしれないですよね。」とわたしが言うと、またポンポンと背中を叩いて、立ち去っていったっけ。

このときさらに新たな疑問が、わたしの頭の中にきのこ雲のように湧き出てきていた。どうしてセンセイが謝るのだろう? センセイはいったい女人禁制に何の責任を負っていると思っているのだろう?現代美術だけでなく、世界を全部背負ってる気分なのだろうか?それとも、何か教育しようとしてくれたのだろうか? すみません、何にも解りませんでした。

それからときどき、わたしは女人禁制について考えた。考えたと言うよりは、「なぜなんだろう?」という疑問を思い出しただけだったのだが。そしてそのたび、センセイの「ごめんね」も思い出していた。センセイは男として、やはり少しは、後ろめたいような気持ちがしていたのだろうか。謝ればそれで済むと思っていたのだろうか。

「あの子に何が起こったのか、わたしにはさっぱりわかりません。ある日突然出家してしまったのです。」浮かない顔をした母親が取材のカメラに向かって独白している。そのテレビ番組のテーマは、仏教の教えがどれほどタイ人の心の支えになっているのか、どれほど生活に浸透しているのか、ということのようだった。一人の若い僧とその家族を取材して、親思いの子、子を思う親の心、さらにはそれぞれの思いを高める仏教の教え。辛いことも愛情も執着も乗り越えて、タイ人の悲喜こもごも愛情物語。てん、てん、てん。しかしどうしたことか、わたしはまったく心が動かない。感動の波が沸き起こってこない。番組ではここが山場と、美しい音楽をこれでもかこれでもかと流している。てん、てん、てん。感動の波が沸いてこない。わたしは異文化の人の心を理解しないのか、親子の情愛が汲み取れないのか、偏狭な心根の持ち主なのか。

母親は、とても悲しそうな顔をしている。「わたしに悪いことばかりおきるのは、前世で功徳を積まなかったからなのです。だから今生では幸せになれないのです。」と言う。母親は高齢の父親の介護をしている。父親は立つことができない。下の世話から食事の世話から、すべて彼女一人で背負っている。その上、頼りの息子はなんの相談もせずに一人勝手に出家してしまった。寂しい上に経済的にも大きな打撃だ。息子は母のために功徳を積もうと仏の道に入ったという。修行を積んで、一日だけ家に戻った。息子としてではなく、一人の僧としてその家の先祖を供養するために。母親は精一杯の手料理を用意して彼を迎える。立派になったわたしの息子。これからは親子ではなくて、一人の僧として彼を敬わなくてはならない。家から僧が出るのは名誉なこと。会えないのは寂しいけれど、彼はわたしのために功徳を積んでくれている。ありがたやありがたや。

わたしはこういうふうに思った。息子よ、お爺さんの介護手伝え。ただそれだけ。

息子はきっと謝りもしないだろう。心からお母さんのためにと思っていることだろう。母親も、出家といわれちゃあ、手も足もでない。酷い話だなあ。全然感動しないなあ。感動しないどころか、ちょっとした怒りみたいなものを感じるなあ。取材した人はいい話だって思ったはずだよなあ。そうでなければここでこんな音楽は流さないよなあ。

そしてわたしはまた女人禁制を思い出した。男としては、女が近くにいると邪念が湧いてしまい修行の妨げになるので、男の都合として女を避けるためにずうずうしくも勝手なルールを設けているのか、程度のことしか思いつかなかったのだが、もう少しわかってきたような気がした。男は、女が俗界を下支えしてくれていないと困るのだ。男が恙無く修行に励むためには、女の力が必要だ。女は辛くてもがんばって耐えて俗界を保ってくれていなければならない。それが世界の構造。女人禁制の制度としての意味はそこにある。女人禁制の聖地自体にたいした都合はないのだ。女人禁制という制度を発令している権力にこそ意味があるのだ。お母さんは出家できない。お母さんの愛は俗世において、たくさんの役割を担っているから。お母さんの愛は社会の維持に不可欠だから。お母さんの愛のない世界なんて考えられない、有り得ない。だから、お母さんの愛は当たり前すぎて、功徳にはならないんだろう。


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