<美恵子51歳の場合>
まだ、シャッターの閉められた肉屋の調理場に、ばん、ばん、という音が響き渡る。
出刃包丁で豚足を切り落としている音だ。包丁の柄の根元は厚さが1センチもあるだ
ろうか。豚の足は一回では切り落とせない。固い部分だ。達也の手が、いつもの決
まりきった行動で手元にあった布巾で包丁の刃を、すっと拭いた。そして、もう一
度、豚の足に刃を当てるとねらいを定めて包丁を振り下ろした。白い半袖の割烹着
から無駄のない筋張った腕が覗く。豚の足は引き千切られて、流しに捨てられた。
牛刀に持ち替えられた達也の腕が、一つのリズムに合わせたように肉の塊をスライ
スしていく。収縮する度に腕の筋肉が盛り上がってはへこむ。
豚の肉は血の量が牛に比べて少ない。肉の塊からある程度の大きさにスライスした
ものを器用に調理台の上に並べていく。白い筋の線は牛刀の先を使って取り除く。豚
肉の塊はどんどん解体されていく。
その指で私の中を引っ掻き回してくれたらどんなに気持ちがいいだろうかと、私は
頭の中でのけぞる。ぐっと、喉をならす。昔みたに、指を動かされただけでぐらぐら
して、重心を失ったら、どれほど気持ちが良いか。想像のなかでは私はひどく濡れて
いて、指は滑るようにうまく動くのだ。
でも、それが想像にすぎないと気がついて、失望する。ひどく白々しくて、さめて
いる。その、昔から筋張っている薄い肩に噛み付いてやりたくなるのだ。妄想の中で
はあんなにうまくいくのに。想像のなかのあなたは全く違う人物になっている。そう。
いつも買いに来る、通りを挟んだ向かい側の郵便局員宿舎に住んでいる若い郵便局員
になっている。でも、声や人格は達也さん、あなたなのよ。大腿を持ち上げられて、
あなたのその指で引っ掻き回されるんだわ。でもね、顔や肉体はあの郵便局員なによ。
お互いがお互いにすれ違うようになってから、何年かが経った。今年、私は51にな
る。この間、カイロプラクティックの待合室で女性週刊誌を読んだわ。そこに本当に
小さな記事だったけど、フランスの若い女性作家が肉屋を舞台にした激しいポルノを
書いた、て記事が載っていた。そこに載っていたほんの短い引用を読んだのがきっか
けだった。待っている間、2度は読み返した。男の肉屋が肉を切るシーンと主人公の
彼女と性行為をするシーンがダブっていた。私は頭の中で何度もその描写を繰り返し
た。家に帰ってから久しぶりにオナニーしたわ。やっぱりイケなかった。更年期障害
なのね、きっと。少し前からうまく体が反応しない。でも、なんとなく気持ちが良か
った。どこまでも想像は広がっていって、体はぼんやり明りがともったように温かく
て。イクところまでいかないけど、久しぶりに充足した。満ち足りたわ。
それからだわ、あなたが肉を切るときを意識しはじめたのは。あなたがあの郵便局
員になったらいいのに。でも、人格と指はあなたのもので、その細いけど力強いその
指で私の中をいじってよ。私が気持ちよさそうに目を細めると、私の目を覗き込んで、
ゆっくり唇を重ねる。激しく吸う。舌が絡み合う。指が体のなかでひくひくとうねる。
あなたの指は私の捕らえどころを知っていて、そこに指が当たるたびに私は腰を震わす。思わず声が漏れる。でも、あなたはキスを止めない。私はたまらなくなって、あ
なたに入れるように促すけど、あなたはしない。目を覗き込んで、まだダメだ、て言うの。
「もう、終わったのか?」
「え?」
「もう、終わったのか?ハンバーグの用意。」達也が後ろを向いたまま、声をかけた。
「今から丸めるわ。」園子は台から手を放し、挽肉をハンバーグに丸める準備を始めた。
大きなボールに挽肉と卵を割りいれながら、振り返ってちらりと達也を見た。いつ
もと同じ様子で肉を切りつづける。料理帽の襟足から白髪の交じった髪の毛が覗いて
いるのを見て、ため息をついた。
ボールの中の挽肉を卵と指で練り混ぜる。肉がねっとりと指にまとわりつく。膣の中も、こんな感触がするのかしら。園子は肉を少しつまんで生のまま口にいれた。
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<那美16歳の場合>
駅から200メートルほども続く長い商店街のちょうど真ん中ぐらいにその小路はある。
商店街に面した中規模のきれいな郵便局があり、その脇をその小路は通っている。地元
民はその小路を三角通りと呼ぶ。なぜなら、その一本向こう側にマルヤマというでかく
て有名な安売り洋服店があり、その店に面した小路がマルヤマ通りと呼ばれているかた
だ。つまり、丸と三角をかけている、というのが地元民の通念になっているが、本当の
ところはよく分からない。いつの間にかそうなっていた、というのが本当のところだ。
ちなみにマルヤマ洋服店の裏の公園はヤルヤマ公園と呼ばれ、三角通りを間に入ったと
ころにある、ホンの小さいブランコがある公園は三角公園と呼ばれている。
三角通りの右側には小さなスナックや食べ物屋が連なっている。左側は郵便局の裏側
で、郵便局員宿舎になっている。郵便局の建物は真っ白にペンキが塗られ、宿舎は灰色
をしている。宿舎の隣、三角通りの奥はNTTの敷地ででかい茶色い建物と、広い駐車
場になっていて、三角通りに面したところに従業員出入り口があるが、オペレーターの
女の子が朝と夕方、一度に大勢出たり入ったりするほかは、通常の営業はしていないよ
うに思える。三角通りの先、突っ切ったところには国道17号が走っている。三角通りは
商店街と国道を結ぶ形で存在している。
つまり、その三角通りは閑散としている。さびれた様子を漂わせている。そのビルは
その通りの真ん中を10メートルほど連なっている3階建ての建物で、一階はスナックが2
軒、肉屋が1軒、ラーメン屋が1軒、2階3階はアパートだ。商店街よりの右端にアパートの入り口があって、出入り口の脇からスナック、スナック、肉屋、ラーメン屋の順番で
続いている。それより手前、商店街よりで他のビルの店はすべてスナックだ。
そのアパートの名前は青空アパートという。築20年以上の建物で、みすぼらしいが造りはしっかりしている。
肉屋とラーメン屋はだいたい同じ時間に店を開く。仕込みはラーメン屋の方が少し早
く始める。
アパートの間取りはそんなに広くない。昔の建物だから、今より間取りは広くとって
あるが、広い角部屋でも3人ぐらいが精一杯だ。
那美もその青空アパートの2階に母親と住んでいる。最近母親が離婚して引っ越して
きたばかりだが、あまり不自由することなく暮らしている。母親はいろいろやってくれ
るものだから、今までの生活と大きく変わったところは住むところぐらいだ。このアパ
ートを選んだのは1階が食べ物関係の店があり、スナックは深夜まで開店しているので
安かったからだと思う。
今の那美の関心事は別のことにあった。鏡に写った自分を子細に眺めている。昨日の日曜日にストレートパーマをかけた。くせがあった今までの髪型がいっきにさらさらス
トレートになったことで、なかなか自分になじまない感じがする。登校前に入念にチェックする。
かきあげてはサラサラになった髪の毛を体感する。右から見て、左から見て、よし、
と心の中でつぶやくと、狭い洗面所から抜け出した。ばたばたと寝室から学校用のTOTO
バッグを取り上げた。
「もう、出かける。」
やはり出かける用意を終えて食事を流し込んでいる母の顔を見ずに言った。
「ご飯、食べてかないの?」パンを飲み下して母が言う。
「いらない。」短く言って、テーブルの冷めかけたコーヒーを一杯一気飲みした。
飲み終えると手の甲で口をぬぐい、乱暴にカップをテーブルの上に置くと、足早に玄関
に向かう。
「いってきます。」足を靴に押し込みながら言って勢い良くドアを開けた。
隣の少し角部屋からはステレオから響く重低音がかすかに聞こえる。隣の住人である
大学生が音楽をかけているのだろう。
階段を下りてアパートの出入り口は車がかろうじて一台止められるほどの空きスペー
スがあって、そこにこの辺の住民の自転車が止められていた。那美は最近、駅までの10
分かそこらの道を歩くことにしている。痩せるためだ。最近気になるのは腿からお尻に
かけての肉だ。自転車置き場のところで5歳ぐらいの女の子を自転車の後ろに乗せようと
している母親にすれ違った。たぶん3階に住んでいる人だとすぐに分かり、挨拶をしようとしたが、ひどくいらついている様子でこちらに気がつかないようだったので、そのまま
歩き出した。
朝7時半の商店街はまだけだるい様子で、時折店の前に水を打っている、年老いた商店
主などを除けば、静かなものだった。那美は逆方向に歩いていくブレザーを着た中学生ら
とすれ違いながら、勢い良く歩いた。
ここに引っ越してくる前はいろいろごたごたしていたが、いざ、引っ越してみると、ここは悪くないところに思われた。東京暮らしは変わらないから、学校を転校する必要もな
かったし、むしろ、学校には近くなった。ここを新天地と母が決めたのは、すぐそばに母
の実家があったからだ。国道17号沿いにある大きな東京都の青果市場で卵屋の卸を営んで
いる母の実家は、ここから歩いて5分強のところにあった。母も何かと心強く感じるのだ
ろう。今まで同じ東京に暮らしながら、母の実家に身を寄せることはあまりなく、親戚と
いっても馴染みが薄かったが、叔母は自分を可愛がってくれるし、何よりもっと嬉しいこ
とが那美にはあった。
母のお使いを頼まれて市場の卵屋をたびたび訪れていたのだが、同じ市場の中で乾物な
どの中卸をやっている朝日堂株式会社の若い従業員が那美の目当てだった。卵屋と同じ並
びにその事務所もあって、夕方、学校が終わった後に寄ると、そこの従業員が市場の空い
た広スペースでキャッチボールなどをしている。市場は早朝4時ぐらいからトラックが集ま
りはじめ、7時ぐらいから競りがはじまり、朝の10時には一段落してしまう。朝日堂の若い
従業員はその裏手のぼろアパートに部屋を与えられて暮らしているようだったが、皆夕方
には自由時間になっていた。
叔母のところに顔を出しているうちに顔見知りになり、市場に行くと話し相手になって
くれたり、缶ジュースをごちそうしてくれた。那美の目当てはいつも相手をしてくれる3人
のうちの1人で、少し無口な感じの声の低い19歳の男の子だった。ストレートパーマも当然、
彼を意識してのことだった。
今度会うとき、このサラサラストレートを見せら
れるのかと思うと、浮き足立って、全てが一新されたかのように朝の空気がうまかった。
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