2001/6/20〜2001/10/24
VOL.02 青空アパート〜善之21歳の場合・祐子29歳の場合〜
<善之21歳の場合>
ボーカルががなりたてた声で叫ぶように歌う「Eastern youth」のファーストアルバムを大音量でかけながら、善之はパソコンのキーボードを間断なく打ちつづけた。朝の7時半だというのに頭は冴え渡り、それでころか一晩中寝ていない目は充血し、かすかに狂気の色を帯びていた。
書ける、書ける。狂気乱舞する心の中を必死に押さえながら、思いつくまま単語を打ち込みながら文章を綴り続けた。
しばらく前から来週の末で公募の締め切りのある、純文学雑誌の懸賞小説賞に送るための小説を書いていたが、ここのところスランプで行き詰まっていた。小説を書くことを商売にしているわけでもないのに、スランプというのは一体どういうことか、と自分でも思うが、10枚ほど書いたところで全く書く気を失っていた。が、昨日の夜になって、突然何かが目覚めたようにタイピングし始めた。文章が後から後から降って沸いてくるようだった。
今日は大学にもどこにも行かず、ひたすら体力の続くまで書きつづけよう、そう、決心した。しかし、6時からビデオ屋でのバイトがある。それまでには少なくとも3時間は寝ておきたい。だが、まだ時間はたっぷりある。しかも、期限があると思うと、だらだらせずに文章に執念が沸いてくる。
善之の部屋は3階建ての雑居ビル、青空アパートの2階の一番奥、角部屋に住んでいる。間取りはこのアパートの中では6畳一間に狭い2畳ほどのキッチンがついているだけで一番狭いが、角部屋であるため隣は片側だけだし、真下は肉屋だから音漏れ気にする必要もないため、自分では気に入っていた。
部屋に置いてある家具といえば、フローリングの床にベッドと本棚、机とそれにのっているマックぐらいだ。キッチンに小さな食卓が置いてあるが、一人の時はたいてい食事もすべてこの狭い机で済ます。
本棚にはたくさんの本がならんでいるが、真ん中の一段だけきれいに背表紙をそろえられて並んでいる以外、他の段には本は重ねて積んであったり、カバーが外れて剥き出しになった文庫本がよじれてつっこまれていたり、全く整理がされていない。整頓された真中の段には吉行淳之介とレイモンド・チャンドラーのハードカバー本と文庫本が折り目正しく並んでいる。
部屋には2つの窓がある。ひとつは表の通りに面した窓。もうひとつは隣のビルに面した窓だ。当然、後者の窓はまったく用を足していない。隣との境、50センチのところからかすかに明りが忍び込んでくるだけだ。通りに面した方の窓からは朝日が差し込んでくる。日毎に暖かくなる日差しは少し夏の鋭さを持ち始めて、部屋の中を舞う埃を照らしている。
机の傍らに置かれた灰皿にはタバコの吸殻が満杯に詰め込まれている。昨晩からどれほどタバコを吸ったか記憶にない。歯の表面はヤニで少しべとついている感じがするし、体も少し汗ばんで、シャワーを浴びたいところだが、今ここで席を立ち上からシャワーを浴びようものなら、この頭の中にある起動中の何かが溶け出して体から流れ出しそうで、とてもそんなことはできない。
善之の探求するところは男の性だ。図らずも自分と同じ読み方をする姓を持つ、吉行淳之介のような男の性をレイモンド・チャンドラーのように乾いた文体で描きたかったのだ。とは言うものの、善之にはそんなにたくさんの性経験があるわけでもなく、この前セックスしたのはいつのことだか、今現在はすっかりオナニストである。しかし、自分には何かがある、と思うのだ。何か、人間の根本である性を抉り出すような何かが自分には書けると思うのだ。
今、書き上げているのは、衰えを見せ始めた中年男と、若い退廃的は女が出会い、激しい性に目覚め、落ちていく話だ。この中でも特に気に入っているのはこの女のキャラクターだ。幼いようで奔放、子悪魔のようでありながらやさしい母性でときにこの中年男を包み込む。ぞくぞくするような女だ。
善之は傍らのタバコのケースに手を伸ばしつかんだが、中身に手応えがないので、ぎゅっと握り締めると案の上つぶれてしまった。ため息をひとつついてそれをゴミ箱に放り投げると、また手をキーボードの上の定位置に戻した。そして、タイプした最後の字面を眺めると続きを書こうとした。しかし、言葉がうまくつながらない。数単語タイプしたが、手が止まってしまった。Deleteキーでそれを消して改めてまたタイプしなおそうとしたが、浮かんでいた言葉が四散してしまった。右手で髪の毛を掻き揚げて頭皮を引っかく。しばらくパソコンの画面を見ていたが、手は死んだようにぴくりとも動かない。
しかたなくあきらめて机の前から立ち上がった。立つと肩や肩甲骨、腰の骨がごきごきいう。もう、何時間同じ姿勢で座っていただろう。少し集中力が切れたのだろうと思い、タバコを買いに外に出ることにした。データを保存して、サスペンドモードにすると、洗面台の鏡をちょっとのぞいた。ぼさぼさの頭に充血した目。水道をひねって手を水で濡らすと、ぬれた手で髪の毛を撫で付け形だけ整えた。机の上の財布と鍵の束をつかむと、サンダルをつっかけて外に出た。パソコンでドライになった目に朝日は少々まぶしかった。
************************************
<裕美29歳の場合>
裕美はイライラした様子で自転車の籠に荷物を投げ込んだ。するとバッグいっぱいに荷物が積めこんであったので籠に押し込んだ拍子に一番上に入れておいた携帯用ウェットティッシュがバッグから滑り落ちた。しかも、裕美が立っている自転車の反対側に落ちてしまった。こめかみの辺りがぴくぴく痙攣するような感じにとらわれた。乱暴にサドルを押し上げて、音を立てながら引き出した自転車をもう一度立てかけた。そして、反対側に回り込むとウェットティッシュをかがんで拾い、籠の中のバッグに強引に押し込んだ。それだけでこめかみがどくどくいって、眩暈がするような気にとらわれた。
鼻の下にかいた汗を右手の甲で軽くふくと、その様子を自転車から少し離れたところから見ている智子と目が合った。5歳の小さな目で見られていると子供とはいえ、見透かされているようで、羞恥心が湧き上がってくるとともに、苛立ちも感じた。裕美はすぐに視線をそらすともう一度元の場所に戻り、自転車を引き出した。
「ほら、行くわよ。」智子に声をかけた。
智子は胸に小さなウサギの人形を抱えたままついてくる。裕美は自転車に乗らずに押して歩いた。智子の幼稚園はすぐそこだ。歩いて十分に行ける距離である。今日は智子を幼稚園に連れていった後に別の用件がある。
青空アパートから国道とは逆の商店街のある方へ抜けた。幼稚園は商店街を少し行き、魚屋の角を曲がったところにある。朝の商店街はまだ準備を始めようかというところで、少しざわつき始めている。学生の登校時間も過ぎているが、遅い出社をする会社員や学生の姿がちらほらする程度だ。
郵便局の前で同じアパートの2階にすんでいる男子学生とすれ違った。だぼついたチノパンにTシャツで、髪の毛はぼさぼさ。俯いて手でタバコを囲って火をつけながら歩いている。何度目かのトライでタバコに火をつけることに成功すると、ふー、と空を仰いでおいしそうに煙を吐き出した。すれ違うときもこちらに気づいた様子もなく、まったくの素通りだった。
再びこめかみがひくひくいうのを感じた。朝出かける間際になって、智子はウサギの人形を手離さなかった。あれだけ優しい声で置いていくように言い聞かせても、言えば言うほど意固地になっていく。どうせ幼稚園の中に入るときには人形は手放さなくてはいけない。そのとき、また一騒動持ち上がるのだろう。きっと狂ったように泣き出すに違いない。
智子は自転車から少し距離を置いて、人形を両腕で抱えたままじっと自転車のタイヤの辺りを見つめながら歩いている。青空アパートの片隅で、自転車はいつも野ざらしで駐輪しているためにタイヤのチェーンがさび付いて、車輪が回転するたびにぎいぎいなる。
ぎい、ぎい、車輪が一回転するたびに2回鳴る。視線を3メートル先のところで止めたまま、静かに黙って歩いていると、その錆びついた音と重なるように智子の小さな足音も聞こえてくるようだ。商店街は朝の準備を始めようとしている。ガラガラとシャッターを開けたり、埃を防ぐために店の前に水を打ったり。ほんのもう少しあるけば幼稚園にたどり着く。その側に行けば、すぐに裕美はいつものとおり明るい笑顔で皆におはようを言わなくてはならない。
突如、裕美はこのまま自転車を投げ出して、地面に突っ伏して泣き出したい気持ちに襲われた。涙腺がかあっ、と熱くなり涙が込み上げてきそうだった。生理が来なくて2週間が経つ。それどころか3週間に突入するころだ。
裕美はこみ上げてくる涙を紛らわすために、前方から視線を逸らせて、一気に吐き出されないようにお腹に力を込めながら小さく息を吐いた。
早く笑顔に戻らなくては。明るい楽しいお母さんに戻らなくては。裕美はお腹に力を込めながら、何度も小さく息を吐いて、気持ちを整えようとした。次第に縮まっていく幼稚園までの距離が脅迫的に思えてくる。
「ママ。」その時、智子の小さな声が耳に聞こえた。
裕美ははっとして振り向いた。そして智子の姿を認めると引きつるような笑顔をかろうじてうかべた。智子はその笑顔に応えるように裕美の側に歩み寄り小さな右手で裕美のジーパンをつかんだ。
裕美は小さなその手を左腿に感じると、ぞくぞく、という寒気が背筋に走るのを感じた。そして、冷水を浴びせられたかのように、かあっ、と熱くなっていた頭が頭頂からびりびりと冷やされていった。
「今日のお弁当はなんだろうね。」裕美はこの冷たい空気を和らげようと声をかけた。
「智子の好きなケチャップの炒めたお弁当がいいね。」智子の通っている私立の幼稚園は、昼食は業者に頼んで児童にはお弁当が配られていた。
「うん。」智子は視線を前方に注視したままうなずいた。次第に商店街から幼稚園への曲がり角である魚屋が近づいてきた。商店街の向こう側からも自転車に乗った親子連れがやってくるのが見える。
高ぶっていた気持ちが穏やかに落ち着いて波が引いていくのを感じた。いつもの朝がやってきた。いつもの朝が、やってきた。小さく2度心の中でつぶやくと、静かに深呼吸をした。
コラムのINDEXへ▼
△このコラムのindexへ
▼LPCライブラリー一覧へ戻る
▲up