2001/6/20〜2001/10/24
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VOL.04 揺れる心〜美恵子51歳の場合〜


<美恵子の場合>

スズメがちゅんちゅん鳴いている。目覚めよくぱちっと目が開いた。部屋は薄暗 かったが、障子を通して朝の光が部屋にほのかに差し込み、部屋の隅に置かれた化粧 台が小さな陰影を作っていた。

静かだ。とても、静かだ。

美恵子は静かに寝返りを打って右を向いた。左には夫の達也が寝ている。静かにい びきをかいている。おそらく今6時になったころだろう。閉経してから目覚めが良く なった気がする。気のせいかもしれないが。

美恵子の自宅は仕事場の雑居ビルからはほんの少し離れたマンションの一室にあっ た。すぐ側に区営の大きな墓地があり、とても静かで暮らしやすいところだ。ただ、 夏は蚊が多い。梅雨が近づけば、蚊が大発生する。もうそろそろ、蚊取り線香を炊い て寝なくては。美恵子は頭の中に「蚊取り線香を押入れから探し出しておくこと」と メモした。

6畳間の畳の部屋がひとつと洋間がひとつ、それにダイニングキッチンがあるだけ の、小ぢんまりとした部屋だ。子供はいない。今寝ているのは畳の部屋で、布団を敷 いて寝ている。洋間との仕切りの襖は開け放したままだ。その向こうのキッチンまで 見渡せる。障子越しに入ってくる光でうっすらと見えるキッチンの食卓をぼんやり見 ていた。食卓の椅子は4脚あるが、普段使っているのは向かい合った2脚だけだ。

ここから見える食卓はとても切ない。私達はどのぐらいの時間をあそこですごしてき たのだろう。そして、どのくらいの時間をこれからすごすのか。美恵子の目から一筋 涙がつたって枕を濡らした。最近、自分はとても涙もろくなったと思う。何でもない ことですぐに涙がでる。胸が締め付けられる。心がぐらぐら揺れる。でも、それを夫 に知られたくないと思う。まるで、思春期に逆戻りしたかのようだ。
静かに布団の中で目をつぶった。早くこの胸の中にある、ぐらぐら揺れるもやが消え ればいいと思う。

「隣の石井君がお見合いするらしいよ。」達也は折りたたんだ新聞から目を離さずに 言った。バックにはNHKテレビの朝のニュースが流れている。
「石井君が?誰が話しを持ってきたの?」
「ほら、花田さんいるじゃない、お好み焼き屋の。あそこのおかみさんが話しを持っ てきたんだって。おかみさんのダンナの妹の友達とか、ダンナの関係の人らしくて さ。石井君もけっこういい年だからね。」
「今いくつかしらね。」
「32だって言ってたかな。」
「そうなの。この間まで20代だと思っていたのに、あっという間ね。」

石井君は美恵子の肉屋の隣でラーメン屋をやっている青年だ。普段はパートのおば ちゃんと二人でまかなっている、こじんまりとしたラーメン屋だ。最近夕方からバイ トの女の子が出入りするようになった。
「で、どうなの?その相手の方は。」美恵子はパンにバターを塗りながら言った。
「相手の方っていう言い方もおかしいわね。」
「相手の方はどうなのかな。まだ写真見せてもらってないよ。石井君照れてたよ。も う、そんな年じゃないのにな、あいつも。」達也は新聞をめくって、美恵子からバ ターナイフを受け取り、自分のパンにバターを塗り始めた。
「真面目に仕事するし、良い奴なんだけど、なかなか彼女ができないな。一日中あそ こで仕事しているから出会う機会もないんだよなあ。ちょっとは若い人が行くところ で遊べばいいだ。あいつも。」
若い人、という言葉に疎外感を感じて、美恵子は少し俯いてパンをかじった。
「石井君には石井君の世界があるのよ。友達とキャンプに行ったりしてるみたい よ。」
「キャンプが好きな女の子なんて、最近じゃいないだろ。もっと若い女の子が喜ぶと ころにいかなきゃあ。」
美恵子は達也の自分を年寄りに見せるような言葉に違和感を覚えた。若い女の子、て 何なんだろう、その言い方は。
返答に詰まった美恵子はその言葉を無視してテレビのニュースに聞き入った。
ニュースは新首相が外遊先から帰ってきたことを伝えていた。

店を開けてキッチンの中を簡単に拭いて肉をさばく準備をした。達也はすでに店の裏 手に業者が運んできた精肉を検品して運び込み始めていた。店の表にでると、隣の ラーメン屋の前で石井君が近所の野良猫たちに朝のえさをやっているところだった。
「おはよう。」美恵子はいつものとおり笑いかけた。
「おはようございます。」
猫の缶詰とドライフードをステンレスの容器に開けると、猫は次々と容器の回りに集 まり、えさをたかった。
8匹ほどいるだろうか。しかし、どの猫も小さく細い。野良猫の寿命は短くて、入れ かわり立ち代りしている。時折いなくなったかと思うと、子猫を数匹つれて帰って来 たりする。
猫たちががっつく様子はかわいいが、目が藪睨みだったり、口の辺りが裂けていた り、どの猫もとても衛生状態が良いわけではないことが一目でわかる。

「この子猫、ずいぶん大きくなったのねえ。」
「そうですね。でも、結局生き残った子猫はこいつだけですよ。この母ちゃん猫が最 初子供つれて帰ってきたときは3匹いましたからね。」石井君はそういいながら、三 毛で線の細いメス猫の頭をなでた。この辺りの野良猫に触れる者はあまりいない。猫 が不衛生という意味ではない。猫たちはみんな、普段は散って修羅場を生き抜いてい るから、毎朝晩えさをやっている彼以外にはあまりさわらせない。
美恵子は一番ちびの子猫の背中をそっとなでた。よほどお腹がすいていたと見えて、 時折のどに詰まらせながらえさを食べている。
「この子の父親はきっと黒のぶちだったのね。お母さんが三毛なのに足に黒いぶちが 混じっているものね。」
しばらく石井君と猫がえさを食べる様子を見ていたが、美恵子は自分の仕事を思い出 して立ちあがった。店の中に入ろうとしたが、思い出して足を止めた。
「石井君、お見合いするんだって?」
彼は顔を引きつらせて笑った。
「後で写真、見せてね。」そう言って、美恵子は店の中に入っていった。

夕方、店は2〜3人の客が待つようになって、混雑した。しかし、6時半を過ぎると終 息状態に入って、このまま店を閉める準備をしようとしていた。
そこへ、先ほど混雑時に肉を買いに来ていた近所の主婦がやってきて、包みの中の肉 が違うと言ってきた。中を開けてみると、牛の細切れを頼んでいたのに、鳥の腿肉が 入っていた。すぐに美恵子は自分が間違えて他の客のものと逆に包んで渡していたこ とに気がついた。

「どうも、すみません。本当に、申し訳ない。すぐに用意しますんでちょっとお待ち ください。」
そう言って達也は牛の細切れを包み、もう一つ包みをつくると、「お客さん、牛の良 いところがまだちょっと残ってたんで、一緒にお入れしますよ。けっこう良いカルビ だから、焼肉にするとうまいですよ。」と客に機嫌をとった。
客は最初少し怒っていたようだが、カルビに納得したようで、機嫌良く帰っていっ た。
「本当に、うちのやつが間違えて、申し訳ありませんでした。」達也はその間、3回 そう言った。

一人の客と入れ間違いをした、ということは、もう一人のお客の中身も間違っていた ということだ。もう一人は自分が頼んだ鶏よりも高い牛肉が包んであったから、何も 言ってこないかもしれない。
美恵子はそんなことを思いながら、うちのやつ、という言葉に傷ついている自分を意 識していた。胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるようだ。
達也は後片付けをしながら、「おまえ、最近どうかしてるよ」と誰に言うでもなく、 つぶやいた。
美恵子はコロッケを揚げる油の始末をしながら、また、朝方やってきたもやもやが自 分の胸に忍び込んであっという間に行き渡り、心の芯をぐらぐら揺さぶり始めたの に、気がついていた。
自分がどういう状態にあるのか、冷静に良く分かっている、と頭の中でつぶやいた。 しかし、涙は目からあふれて零れ落ち、油の中に落ちると油と分離して小さな水玉を いくつも作った。

 


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