ジュブナイルにフェミの萌芽を見る

 わ〜ん。
 またしてもご無沙汰しておりまして申し訳ありません。
 コラム連載も増えているので、今度こそ打ち切りを言い渡されるのではないかと思いつつ、そう思うことでさらに筆が進まなくなるのでございます。

 体が本調子でないのと、仕事がそこそこ忙しいのと、自称フェミ男とヤリまくってるのと(ほんとフェミの風上にもおけぬ事態なんですが、詳細は割愛)いう理由もあるのですが、ここにきて、「私は本当にフェミニストなんだろうか」という疑問にぶちあたってしまいまして。

 たとえば、フェミ系のイベントに行くと、なんとはなしに自分が浮いているような気がする。女性学とかフェミニズムを学んだことはないし、基本的な本も読んでない(のに書評を書こうとする)。フェミの歴史も知らない。また、なにか運動をしているわけでもないし、多分今後も運動に関わるパワーは私にはないんじゃないかと思う。こんなんで、フェミニストを名乗るのはおこがましいんじゃなかろうかと、それはずっと感じていたことではあるんだけど、なんだかその思いが表面化してきてしまって。私はこんなコラムを書く資格があるんだろうかとか、そもそもフェミ的な人が読んで私の文章はおもしろいのだろうかとか、もっとここで書くにふさわしい人がたくさんいるんじゃなかろうかとか思い出したら、こわくて何も書けなくなった。

 その恐怖は、今もまったく減じていないわけなのですが、まあ、もうやめろと言われるまで、書き続けるしかないではないかと開き直ろうかなと。そもそも私が北原さんと初めてお会いしたのは、何年か前にLPCのスタッフ募集に応募して面接してもらったときなのですが。残念ながらその時は採用されなかったわけですが、今振り返ると、それでよかったんじゃないかなと思うわけです。

 私はフェミニズムにどっぷりつかって、研究したり運動したり啓蒙したりするよりも、フェミニズムに共感する者として一般社会にあって、フェミをよりどころにしたり、フェミを応援したり、フェミを実践したりしているほうが似合っているんだと思うのです。まあそんなスタンスで、もう少しここにいさせてもらえると嬉しいです。

 ……と、いつも前置きが長くてすみません。だから私は、フェミの成果をただ簒奪し消費するだけの人間である、とも言えると思うので、偉そうなことを言えた立場じゃないのですが。
 でも、フェミ的空気って、世の中から減退、してませんか。

 私は、子どもの頃、「女なんだから女らしくしろ」とか言われたことはなかった。女ジェンダー全開で男に頼ろうとする女子は「ブリッコ」と言われてバカにされた(……っていうのが、いいことではないかもしれないけど)。言いたいことを言ってやりたいことをやる女子は、「オマエ、女じゃねえよ!」なんて言われたけど、それは冗談、いやむしろ勲章だった。子ども心に、女の状況はこれからどんどんよくなるんだっていう気がしてた。自分が大人になる頃には、女はもっと生きやすくなるんだって(そういう言葉でではないけど)感じてた。

 それがどうだろう。大人になった今の状況は、あの頃思い描いていたのとだいぶ違っている気がする。電車の中のカップルは、女子が上目遣いに彼の機嫌を窺っている。テレビのバラエティやらドラマやらも、なんだか逆行してませんか?

 フェミは〜? フェミの空気はどこにいったの〜??? ぜいぜいぜい(←息苦しくなった)

 んで、フェミ、意外とジュブナイルに残ってるんじゃないか? と思ったのがこの本。少年少女がこういう本を読んでるのなら、まだ希望はあるんではないでしょうか。やっぱ、10代までに読んだものの影響って大きいですよねえ。……そう思わせてくれたのが、茅田砂胡『レディ・ガンナーと二人の皇子』なのです。
 スニーカー文庫という、少年少女向けの文庫(中村うさぎも、ここから出たんですよね、たしか)で、「痛快お嬢様アドベンチャー」というキャッチをつけられたシリーズ。キャサリンという14歳の貴族のお嬢様が、行く先々で事件に巻き込まれ、四十四口径の銃を片手に活躍し、解決していくというものです。

 この話では、主人公が父親とともに訪れた、男子のみが王位継承権を持つという憲法のある国が舞台になります。皇太子は、王位を継ぐときに、次の皇太子を決定しなければなりません。王家存続のために、皇太子は有力貴族から複数の側室を迎え入れ、男子を生むために励むわけです。父を亡くし、国王即位を間近に控えた皇太子には、5人の同い年の息子(当然それぞれ母が違う)がいて、その中でもっとも優秀なひとりが、皇太子となります。王家は国民にとって空気のような存在で、王族はあまり国民の前に姿を見せず、国民も、存在するのが当たり前のものだから、王家に対して疑問も持たないわけです。

 そんな国家において、現在の皇太子候補の5人のうち、最有力候補と目されているひとりは、実は男子として育てられた女子、というストーリーなのです。……やあ、もう、どっかの国の皇太子も、世が世なら、やっと生まれた子どもが女児で、継承権は男だけとかくそ馬鹿げた規範があって、そしたら男と偽りたくなるかもしれないねえ、などと考えてしまいます。

 んで、男として育てられたその少女は、もちろん、自分が女だと言うこと、そしてそれを他人に知られてはいけないことを知っていて、「男らしく」振る舞うわけです。んで、初対面で主人公に危機を救われるんだけど、その少女にとって、女に助けられるとか、女に礼を言うなんて、ものすごい屈辱なんですよ。

「『女のくせに、でしゃばるな』/キャサリンは絶句した。/自分に投げつけられた不躾な言葉の意味が理解できなかったのだ。」
「『おまえは女のくせに男の真似をして銃を持つなんてどういうつもりだ? 女は女らしく男の陰でおとなしくしていればいいんだ』/あまりのことに呆気にとられていたキャサリンの顔が壮絶な怒気に染まった。」

とこんな具合。で、

「『女は―頭が悪いんだ。難しいことは考えられないんだ! 女が夢中になって考えることは化粧とか衣装とかそんなくだらないもののことばかりだし、女が唯一役に立つことといったら子どもを産むことだけなんだぞ!(中略)』/なるほどとキャサリンは思った。/つまりこの少女はずっとそう言われて育ってきたわけだ。/自分が女だと認めてしまうことはすなわち子どもを産む以外に何の役にも立たないものだと、能なしだという烙印を押されてしまうことになる。」

なんていう具合に、ジェンダーとか女性蔑視の考え方が、凝り固まった世間知らずの考え方として書かれ、それが読者の目線にいちばん近い主人公の価値観によって、当然のごとく否定されます。

 やっぱり、10代くらいの頃って、おもしろくて魅力的な物語の主人公が言っていることって、無意識にコミットしてしまいませんか? それってすごく危険なことだと思うけど、そういう形で、フェミ的な空気が少年少女に染み込んでいくとしたら、それは希望が持てることだと思うのです。

なんたって、
「『女は子どもを産むしか能がないって言うんなら、男はその女に子どもを産ませること以外、何の能があるっていうのさ?』(中略)『だいたい男が馬鹿だなんてことは社会の一般常識だよ。人の話は聞かないし、ろくろく考えもせずに思いこみだけで突っ走るし、見栄だのメンツだのつまらないことにこだわって事態をまずくすることなんかしょっちゅうだし、それを指摘しようものなら逆上して喚き散らすか、反対にいじけるかのどっちかだ。要するに形だけ大きくなっても幼稚で無責任で恥を知らない、ただの子どもだってことさ。あの連中が女の半分でも頭を使ってくれたらどれだけ世の中ましになるかわからないよ』」
……と、こうですもの。

 大人の私でも、スッとしてしまいます。
 こういう空気が、少年少女向けの本に、もっともっと増えてくれたら、日本の将来はもうちょっと明るいんじゃないかなあ、とか夢想してしまうわけです。
 まあ、活字離れが叫ばれる昨今、どんだけ効果があるかは疑問ではあるわけですが。本好きな子だけが生きづらい世の中っちゅうのは避けたいものでございます。


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女子の国の内戦は終わらないという洗脳
[2008/05/01]
「三十路」だから「ミソジニー」なんですか?
[2008/04/07]
「男の幻想」にはつきあいきれません
[2008/02/29]
「『過激な性教育』妄想の暴走」
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[2007/11/10]
「働きマン」
[2007/10/12]
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[2007/08/27]
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