またしても、締め切り遅れてすみません。
身辺ばたばたしておりまして。私事ですが、とうとう婚姻届を出しました。名字は変えていません。……というと、いろんな友人に「夫婦別姓にしたんだ〜」と言われます。法律婚で夫婦別姓が既に認められていると思っている人って、すごく多いですよね。多くの人が、「禁止する理由がない」と思ってるんだと思うんだけど。なんで法案通らないんですかねえ。別に同姓にしたい人はすればいいんだから、別姓にしたい人にまで干渉しないでほしいですよねえ。住民票をもらってきて、長田姓になった相手の戸籍上の名前を見ると、ものすごい違和感を覚えます。
彼は、知り合いに「保険とか、パスポートとか、公的書類を全部変えなきゃいけなくて大変だね」と言われる度に、「どっちかが大変な思いしなきゃいけないんだから、どっちが名字を変えても同じ」と答えています。どっちが変えてもいいはずなのに、9割以上女性が改姓していると言われる(デーありません、すみません)現状で、「婿養子」とかでなく、男性が改姓することを選ぶ、ということには、一定の意味はあるはずと思ってはいるのですが。でもその一方で、相手が面倒な思いをしていたり、それでイライラしたりしているのを端で見ているよりも、自分が面倒な思いをしたほうが楽なんじゃないかと思ってしまう、女ジェンダーが骨の髄まで染み込んだ自分を感じます。
そしてまた、偶然私の名前からLPCのサイトにたどりついたらしい相手のご両親から、突然「あのコラムは、写真は本人なの? どうやって撮ったの?」などと話題をふられ、激しく動揺するヘタレな私でありました(その動揺を表には出してないつもりですが)。いやまあ、ちょうどプライベートな話題を出してたということもあるんだけど、LPCで書かせていただいているのは私の誇りであり、だからこそ実名でやらせていただいているわけで、堂々としてないとあかんなあ、と思ったのでありました。
さて。のさちーぬさんが、つくばみらい市のDVをテーマにした講演会が中止された事件について書かれていましたが、暴力に対抗しようという動きを暴力で威圧しようとして、行政が暴力に負けて中止にするという、あまりにもわかりやすい状況は、あまりにもあんまりで、最後の力を奪い取られるような気さえします。茨城県つくば市の県立茎崎高校で予定されていたデートDVについての出前授業も、つくばみらい市の判断を受けて、抗議を受けたわけではないが、安全策をとって中止されたそうです。そういう「自主規制」(をする学校側にももちろん問題があると思うのですが)を招いてしまったことが、今回の事件のいちばんの問題点ではないかと思います。偏っているというなら、別途日を改めて、自分たちで企画して“DV防止法犠牲家族支援の会”とやらの講演会をやればいい。なんなら、高校でもやればいいと思う。両方聴いて、どっちに共感するかは、聴衆が決めることじゃないか。拡声器を使って抗議する方々が来たら、しっかり警備してとりしまってほしい。だって、犯罪行為じゃないの、それって。行政が暴力に屈してしまったら、DV被害者に対して、加害者の暴力に屈せよと言ってるようなもんだ。あまりにもあんまりすぎて、何を言っても当たり前すぎて陳腐に思えて、ほんとに言葉を失います。
「ジェンダーフリー」に反対する人って、本当に意味がわからない。でも、私が皮肉のつもりで「ジェンダーフリーとは、『世界を“おとこ色”と“おんな色”の2色に塗り分けるのをやめて、もっと多彩な色を大事にしましょう』という考え方なのに、“中性色”一色の世界を目指していると勘違いしている輩がいるらしい」と言ったら、仲のいい女子が「え? ジェンダーフリーって“男らしい男”や“女らしい女”はよくないって言ってるんじゃないんですか?」と言ってたので、ほんとの本気に、ジェンダーフリーという言葉の意味をわかってない人が多いのかもしれないけれど。
……というわけで、ちょっとこじつけっぽいですが、ジェンダーフリーバッシングといえば、性教育バッシングなわけです。数年前に盛り上がった性教育バッシング、そろそろ下火かなと思っていたのですが、2007年11月に、『性教育の暴走』という新刊が発売されているのを発見してしまい、読んでみました。
いやもう、これがほんっと、読むのがつらかった。目次だけでもおなかいっぱいです。ちょっと抜粋してもいいですか? なんか、これだけ読めば十分って感じしませんか?
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第一章 学校では今 ― 子どもだけが見られるポルノグラフィー
交尾四十五連発!
近親相姦では傷つかないのか
第二章 父母たちの憂鬱 ― 扇動で親への眼差し一変
「これは酷い!」と小泉総理
市教委が性行為を勧める副読本
性教育の教材は「何でもあり」の無法地帯
第三章 教室では、今 ― 憑かれた教師の餌食になる子供たち
そんなにジェンダーが憎いですか?
同性愛に過剰な配慮
男女の恋愛と同性愛を同列・同格に
中学生に「外だし危険」が、正しい教え方ですか?
罪悪感なく“お手軽”中絶を奨励
第四章 お墨付き与える官庁と教委
ピルとコンドームで“無敵の避妊”成功?
性教育は子供の望ましい行動を助ける?
札幌市では性教育も中絶、性感染症も全国トップクラス
第五章 危機に立つ生命のリレー ―性の氾濫から子供たちを守るには
心身の飢えが性の暴走に直結
朝食を食べる子は性行動に走らない
「NO!」と言える親に
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……そりゃもちろん私だって、今現在行われている性教育の全てが、非の打ち所がない完璧なものだとは思いませんし、その全てに賛同するものではありません(そもそも、行われている性教育の全てを知っているわけではありませんし)。改善すべき点も、そりゃ多々あるだろうと思う。(しかし、性教育を批判するのに、性教育と関係ない事例を挙げるのはやめてほしい。本書では2007年7月に、北海道立札幌丘珠高校の40代の男性英語教諭が、夏休みの宿題に「街でナンパ」「街で知り合った人とデート」をテーマに日本語で作文してそれを英訳するという課題を出し、参考資料に「好きな体位は」などの表現を含む男女の会話の例文集を添付したという事例が紹介されているが、この課題に問題があるとすれば、批判されるべきはこの英語教諭個人であろうと思う。あたかも、それも性教育の一環であるかのような語り方は卑怯だろう)
だけど、性教育そのものは、私は絶対必要だと思う(コンドームを嫌がる馬鹿男を前にして、心の中で「コンドーム教育くらい義務教育にしてくれ!」と叫んだことは一度や二度でないような気がします)。言葉にすると陳腐だけど、正しい知識は自分の身を守るし、必要な知識を子どもに与えないことは、虐待と言ってもいいと思う。
そして、性教育を叩きたがる人は、「子どもの利益」に寄りそう視点がなく、ただ「性」と聞いただけで妄想ばかりが暴走しているように見えるのだ。
セックスという言葉を聞いただけで、「まあ、いやらしい!」、障がいを持つ児童の正しい理解を得るために作られた、性器のついた人形を見れば、ごていねいに人形をわざわざ裸にして写真を撮って「なんていやらしい教材だ!」、性器の名前なんて口に出すのもはばかられる、性の知識を教えたら子どもはセックスしまくるに違いない、性に関することは暗闇の中に隠しておくべきなのだ。ん〜、そういう反応をする人のほうが、「イヤラシイ」と思うんだけどな〜。
本書で気にかかるのが、「大人でも〜」という記述である。たとえば、小学校の図書室にある本には「大人でも知らないような性の情報があふれている。」ここでいう性の情報とは何かと言うと、ペニスや勃起、射精のしくみについてである。いや、大人はそんなことも知らないんですかね。「性の情報」という言葉は曖昧だけど、大人はたとえば性風俗には詳しくても、自分の身体についての情報には疎いということなのか。
動物の交尾の写真を集めた写真集を見て、「これでもか、これでもか、と交尾ばかりの写真と解説である。(中略)見終わる頃には大人でも「クラクラッ」と目眩を覚えるほどだ。その方面にとくに強い感心を抱くマニアックな人向けの特別な書籍かと見まがうばかりのものである」。小学校低学年向けの『せっくすのえほん』『おちんちんのえほん』を、「驚くべきポルノグラフィー」と評する(そこにポルノ性を見出せる)その驚くべき想像力。それってさ、「大人でも」ではなく、「(まっとうな性教育を受けてこなかった)大人だからこそ」じゃないのかと思うわけですよ。
そしてまたげんなりするのが、“性の自己決定”という言葉の(これは故意に曲解しているのか? と思わせるような)誤解である。性教育推進派は、「いつでも、自己決定さえすれば性交をしてもいい」と、セックスを推奨している、「性行為へのハードルを下げる」と言う。あのさあ……。そういうこと言う人は、ご本人が、禁止されなかったらやりまくっちゃう人なんだろうなあ、と邪推してしまいますよ。なんか、当たり前すぎて言うのも恥ずかしいけどさ……。自己決定って、リスクも知って、自分で考えて行動を決定して、その結果についての責任も負うってことでしょ。ついでに言えば、自分がやりたくないことを流されてやっちゃったり、相手の気を引くためにやっちゃったりしないってことでしょ。「子どもが責任なんてとれないことは自明」というんだったら、結果に責任をとれないことはやらないってことでしょ。(さらについでに言うなら、その判断に必要なのが知識でありその知識を提供するのが性教育だ。たとえば望まない妊娠や中絶、性感染症の正しい知識を得ることは、まず第一に“安易な”性行動を抑制し、次いで正しい予防行動を促し、さらに、それでも望まない妊娠や感染などの事態に陥ったときに、適切かつ迅速な対応をとるために欠かせないものなのである。)
まあ、結婚するまではセックスをしてはいけない、生涯ただひとりの異性としてしかセックスをしてはいけない、自慰もしてはいけない、というのが著者の理想のようなので、結婚しない人、異性愛ではない人、性別違和や性別のはっきりしない人をはじめ、さまざまなケースは彼女の頭の中にはじめから存在していない、理想から逸脱するものは、どんな目に遭ってもどうでもいいのかもしれませんけど。
セックスを「いけないこと」とみなすこと、また「してはいけない」と抑圧することに、私はどうしても共感できないんだけど、もし、「結婚するまではセックスをしてはいけない。中高生はセックスをしてはいけない」という価値観を強めたとして、何が起こるか。もし、万一そこから逸脱したときに、誰にも打ち明けられない、誰にも相談できないという状況だと思う。今でさえ、誰にも言えずに中絶可能週数を過ぎて苦しい十月十日を耐えたのちにトイレで嬰児を殺したり、若くして産んで後悔して虐待したり、性感染症に気づかなかったり気づいても受診できなかったりして進行してしまったり、そういう例は少なくないだろう。中絶を決断しても、自分を責め続け(しかも女ばかりが)、また「将来子どもを産めなくなる」という脅しにおびえるばかりだ。
性教育を批判する人たちは、まさに“安易”に、「安易に中絶を勧めるなどけしからん」だの、「感染症かなと思ったら迷わず病院へ、というメッセージは、セックス推奨にほかならない」だのというけど、ほんの少しでも、子どもの立場に立って、その気持ちを想像したことがあるのかと問いたい。「子どものくせに“安易に”セックスした罰だ」とでもいうのなら、それ以上性教育に口を挟むな、である。
あと、これだけは許せないのが、本書の近親相姦や強姦に関する記述。
『ママにもいえなかった…』(ミカエル・ルンドグレン文 ウルフ・グスタフソン絵 北沢杏子・はまこぺーション訳 アーニ出版)という、恐竜の女の子を主人公にして、本書いわく「父親が娘を犯すというおぞましい近親相姦のストーリー」を描いた絵本を引用して、「近親相姦をされても、あなたは被害者。汚れていない。何も悪くない」という言い方をして、「近親相姦されそうになったら、断固として戦え」「近親相姦は犯罪行為だ」と言わないとは何事だ、と批判する(あまつさえ、性教育を推進するフェミニストたちにとって「セックスは『いつでも、どこでも、誰とでも』であるから、自己決定をすればセックスをしていい、という解釈だ。「誰とでも」いいのだから、近親相姦も許容範囲なのだろうか」とまで言う。父親が娘に性虐待を与える行為のどこに「自己決定」があるというのか)。近親相姦されるような状況に至らないように「『スキ』をつくらないように注意し、もし、万一、そうした状況に直面したら、断固として撥ね退ける心構えを備えさせることが必要」だと主張する。
性的被害についての「圧倒的な力の前では、『いやだ』と言えない場合もあることをきちんと説明しておきます。これは、子ども自身が不必要に自分を責めてしまうことを避けるために、とても大切なことです」(「『いやだ』といっていいんだよ―子どもたちを性的被害から守るために」SEXUALITY No.30)という文章を指して「こんなことを言っていては、誰も抵抗しなくなってしまう。無抵抗主義は、『犯してください』と言うのと同じである。」と批判する。
オマエ、ほんとにそれを被害者に向かって言えるのか、である。「スキをつくるな」「断固として抵抗しろ」は、そのまんま「スキをつくったあなた(私)が悪い」「抵抗しなかったあなた(私)が悪い」というメッセージにすり替わる。被害に遭った子どもを、さらに追いつめる。
ほんとに、想像力の欠如というのは犯罪的であるなと思う。
最終章のはじめに、「これまでの章で、我が国の性教育の実態を、つぶさに見てきた。これが若者たちの性行動、価値判断に及ぼしている影響は、計り知れないほど大きい」とあるんだけど、残念ながら若者たちの性行動、価値判断に大きな影響を及ぼしているものは性教育ではなくほかのものだろうと思うんですよね。そこに少しでも影響を与えられる性教育が存在するのなら、喜ばしいことではなかろうか。
あとがきを読むと、「一、男女共同参画社会基本法・基本計画・条例一式の廃止、二、性教育の停止、三、徳育の復活」が日本の危機的状況を救うのだそうである。「『フェミニズムがこの国を滅ぼす!』と焦燥感に駆られて言論活動を始め」たのだそうである。「『百年後の日本民族のために護国の楯とならん』と命の限り戦った英霊たちに、顔向けのできないような次世代にしてはいけない、との思いは強まるばかり」なのだそうである。
「うちの子、学校でどんな性教育を受けているのかしら」と心配になってこの本を手にしてしまった保護者の方々は、ぜひあとがきまでしっかり読んでいただきたいものである。亡霊に取り憑かれて暴走してるんだなということがよくわかるだろうと思うので。
もう、著者はほんっとに「ジェンダーフリー」と「フェミニズム」が嫌いらしくてさ。男女の役割分担の固定化を固持したいらしくてさ(わざわざ言うのもばからしいけどさ〜、どっちを選んでも良い中で、従来「男の役割」「女の役割」とされてきたことを演じたい人は好きにすりゃいいじゃんねえ。要は押しつけるなって話であってさ。自分が三歩下がって男を立てたいなら、自分だけやっててほしいものである)。
「“男女の役割分担の否定”が現実社会にマッチしているか、本人を幸せにするか、ひいては、大人になったときに築く家庭を円満にするか、そして将来生まれてくるであろう次世代にとって幸せか―などという配慮は、そこには皆無だ。初めにイデオロギーありき、ということなのだろう。」っておっしゃるんだけど、皆無だと思います?
その批判こそ、現実社会を見ずに「初めにイデオロギーありき」ではないかと思うんだけど。
『性教育の暴走―セックス奨励教育の実像』桜井裕子・扶桑社