暑中お見舞い申し上げます。みなさま、お元気ですか? 夏バテしてませんか?
最近のLPCコラムは、ますます新連載が充実してきていて、「こんな中で私なんぞが連載を持たせてもらっていていいんだろうか」という不安と、「私も負けずにますます頑張らねば!」という気概との間で板挟みになっている今日この頃です。いや、とりあえず、せめて締切は守れよという話でありますが!!(スミマセン)
特に、うっかり法律婚をしてしまったフェミを名乗る男がエロチャットにはまっていて、セフレがいたりその日会った相手とセックスをしたりしていて、そんな相手と日常的にナマでセックスをしてしまっている私にとって、今福貴子さんの「ナマ問題研究」と、萬田潤子さんの「三十路マンコの品格」は、かなりググッとくるというか、目が離せない感じです。
つい先日も彼から、「今日、チャットで知りあって初めて会った相手とラブホ行っちゃった」とウキウキ報告されたり(隠さないだけマシかしら?)、チャットで知りあった地方在住の人妻のセフレの人が近くに来るから泊まりで出かけてくると言われ……。それが嫌だという私がおかしいと責められ、なんだかいろいろ思い惑っている日々なのです。まあ、おかしいかどうかはわからないけども、嫌なものは嫌なのであって、それを我慢してまで一緒にいることはないよなあと、最近ようやく気づいた次第でございます。(友人にさんざん言われてきたことですが、響くには時間がかかりますね。フェミフェミ鳴いても自分のことではヘタレというのはいかがなものかと思いますが)
私自身は、エロチャットとか、ネットで知りあった相手とセックスをする楽しさがどうにも理解できず、少なくとも今一緒に暮らしている相手にはできればやめてほしいなと思っているし、自分もやってみたいという気はないのですが、萬田さんの連載を拝見していると、いろいろと考えさせられるところがあるわけです。
たとえば、非常に単純に話をしてしまうと、男がやっているとすごく情けなくてみっともなくて頭がワルイ印象で、女をモノ化してるようなキモチワルさを感じるのですが、女がやっていると、なんとなくラディカルな実践に思えるような感じがあります。
あと、いろんなめんどくさい過程をすっとばして、ただのチンコとマンコになって「会う→セックス」を実践したときに、わかりやすい「女ジェンダー」「男ジェンダー」を体現した方がてっとりばやそうな気がして、女という記号を演じなければいけないようなイメージがあって抵抗を感じます。
そういうサイトをちらっと覗いてみると、たとえば、男→女は呼び捨て&タメ口、女→男はさん付け&敬語というのがスタンダードなようで、それだけでもげんなりしそうになるのですが、そこらへん、実際のところはどうなんでしょうか。今後の連載をますます楽しみにしています。
さて、毎度のことながら前置きが長くなりました。
今回紹介したいと思っている『性犯罪被害にあうということ』という本は、レイプ被害にあった著者が、被害にあったとき、そして被害後から始まる長い時間に、何を思い、何を感じ、どんな気持ちを抱えていたか。周囲の対応をどう感じていたか、どんな支援を必要としていたか、周囲の人に何を求めていたか、などを書いた本です。
どんな人でも、一度は読む価値がある、非常に考えさせられる本で、私ごときがあれこれ批評できるような本ではないので、ここではあまり内容にはふれないことにして、ぜひぜひみなさんご自身で手に取って読んでみていただきたいと思っています。
ただ、ひとつだけ、私がショッキングだったエピソードを書かせてください。
著者は、たとえば事件がきっかけで恋人との関係がどんどんぎくしゃくしていってしまったり、両親に受け止めてもらえず、心配されるよりも怒られたり事件のことは(外聞が悪いから)他人に言わずに黙っていろと言われたりします。それはもちろんとても酷いつらい話ではあるのだけど、(誤解を招く言い方ではありますが)「よくある話」というか、「そういうことってあるんだよね」と受け止めた上で憤れる感じがするんです。
でも。これはとうてい受け入れられない、受け入れたくないということがひとつあるのです。
著者が、事件後に出会って、その後結婚する相手がいます。つきあい始めは被害のことを打ち明けられず、でも著者はずっと、事件の後遺症で性行為に恐怖感を覚え、行為のあとでこっそり嘔吐するような状況。つきあって4ヶ月目に事件のことは伝えたものの、気分が悪くなって吐いてしまうことは言えず、セックスの要求を受け入れ続ける著者。
事件のことを聞いて、「つらかったね」と一言いってくれる彼。でも、それでも変わらず身体に触れてくる彼。「つきあっているのに、拒むなんて……」と自分に言い聞かせて、彼の要求を受け入れてじっと耐える著者。
セックスそのものに恐怖感があり、特に被害時の状況を思い出すことから、乱暴にされること、車の中でのセックス、玩具などを挿入されること、真っ暗で大音量の音楽が流れている環境などが怖いことを伝えてもなお、乱暴なセックスをして、著者が脅えると「どうしたの?」とたずねる彼。ごめんと謝ってもまた数日で、口を押さえたり玩具を使うセックスをする彼。
あげくに、
「セックスを恥ずかしいなんて思わないで。美佳は真面目すぎる。こんなときくらい大胆になったり、理性を失ったりしていいんじゃない? たまにはリラックスしなよ。いつも気を張ってると疲れちゃうよ」
とのたまう彼。
なんちゅう無神経な男だ、と思うと同時に、もし私が彼女の立場だったら、やはり「やめて」と言えずに恐怖と吐き気をこらえてじっと耐えて性行為が終わるのを待ってしまうのではないかと思い、何よりもそのことにとてつもなく腹が立ちます。
事件後に親身になってくれた元彼も離れていき、家族とも断絶して、非常に心細い状況に置かれる中、新しい彼はやっと見つけた「味方」だったのだと思います。味方だったはずだと。
本来、彼女が性行為をするのがつらいということと、彼が性行為をしたいという欲求とは、同じ天秤の両端に乗せられるようなことではない、と私の理性は叫んでいます。だけど、自分のつらさは、相手(男)の性的欲求を退ける理由として認められない、という感覚がやっぱりどこかにあるような気がするのです。
もし私だったら、「強姦された(=穢れた?)自分を、それでも受け入れて結婚しようと言ってくれるような素晴らしい人なのに、私なんかと結婚したせいで性的欲求を満たすことができなくなるなんて申しわけない」とか思ってしまいそうな気がする。腹立たしいことに。
どこかで、「男の性欲を満たすことは、優先されなければならない」という価値観を内在化させられている自分自身に気づかされ、なんとも胸が苦しくなるのです。
そこから、きっちり抜け出したいと、抜け出さなければと思います。私だけでなく、すべての女が。
『性犯罪被害にあうということ』小林美佳・朝日新聞出版 1,200円(税別)