わたしたちがヤリマンとして生きることの誇りと歓びを宣言したのは、2年前の春。思い返せば、10年ぶりに「あんなヤリマン女」と呼ばれたことに当惑し、ココマンちゃんたちにそれを吐き出しているうちにみるみるエンパワメントしちゃって、わたしはヤリマン! イエ〜ス! ヤリマンってすばらしい! いいえ、ヤリマンこ・そ・が・すばらしい! と、心晴ればれ、意気揚揚と謳いあげて・・・
だけどこないだ、チンコとの関係に絶望したココマンちゃんから電話をもらって、わたしも考え込んじゃったよ。2年前の高揚感と、現在の絶望感、それもダウンカレントに捕まって暗い海にひきずり込まれていくような底なしの絶望感との、この落差。あーあ、「ヤリマン宣言」のあの頃が懐かしいよ。
ヤリマンの多難ぶりを先輩たちの足跡に学ぶことはできないかなあと思っていたんだけどさ、これはどう? 日蔭茶屋事件。1916年、女性記者の神近市子が、アナーキスト大杉栄を短刀で刺したという事件のことよ。
大杉は「自由恋愛」を提唱していて、妻があり、神近と交際し、さらに青鞜の編集長をしていた伊藤野枝とも深い仲に。神近が身を退こうとすると、大杉は「俺は多角恋愛の実験を試みているんだ。君がついていけないのは、思想的未熟のゆえだ」と強弁。ついに神近は、大杉と伊藤が投宿している日蔭茶屋に乗り込んで、大杉を切りつけたという次第。
なにしろ3人とも有名人だから、当時はずいぶんと巷を賑わせたらしい。神近は記者業の他に翻訳もこなすエリート女性だし、伊藤は女性解放運動の中心メンバーだし、ほほう、痴情の果てに刃傷沙汰かい、嫉妬に狂ったオンナってのは怖いねえ、キャリアウーマンとやらも一皮むけばただのメスってわけだ、と世間は手を叩いて大喜びだったろうよ。
事件の直前、ある雑誌に3人の原稿が掲載されているのを見つけたんだけど、「自由恋愛」の当事者として、それぞれ書簡形式で執筆しているの。神近は大杉あてに、大杉は伊藤あてに、伊藤は大杉あてに。とんでもなく醜悪でしょ。
でもさ、このヒトたち、一体どこが間違ってたんだろう? やっぱり「多角恋愛」は人の道にもとるということ? 1対1の排他的な関係でなきゃダメなのかしら? ヤリマンのわたしたちは、どの人物に自分を投影するの? 大杉の息の根を止められなかったのはホントに惜しいと感じちゃうわたしは、真のヤリマンではないのかしら?
ここに「ヤリマンの困難」、いや、「ヘテロヤリマンの困難」を解明するカギが潜んでいるような気がするの。わたしが問いたいのは、「ヤリマンとヤリチンは手を結べるか」ってことよ。
従来、オトコにはオトコの特権が、オンナにはオンナなりの特権が与えられてきたとすると、ヤリマンっていうのは、オンナの特権をすべて手放した状態だよね。オトコからの保護や「妻の座」を放棄し、2流市民の地位なんてノシをつけてお返しするわ、畜生扱いで結構よ、みたいな。むきだしの身体に風を受けて生きることの爽快さを知っているのがヤリマンでしょ。
その一方でヤリチンは、オトコの特権をこれっぽっちも手放さない。むしろ、オトコの特権を十二分に行使している状態こそが、ヤリチンでしょ? 複数の恋人がいて、場合によっては妻もいて、みんな納得づくで。
特権の玉座にどっかり腰掛けながら「ラディカルなオレ」を吹聴して、そのうえ「オトコの責務」からの解放を主張したりしてさ(メンリブ!)。どこをどう比較してもヤリマン精神とは交差しない、それがヤリチン。
ヤリマンとヤリチンとの関係は、だから、貧富の差が最も激しい取り合わせなんだよね。表面的な行動様式はそっくりであるにもかかわらず。
ヤリチンがヤリマンの同志だなんて、タチの悪い冗談としか思えない。それどころか、圧倒的な経済格差を背景に余裕しゃくしゃくでヤリマンと握手しようとするヤリチンなんて、むしろヤリマンを搾取していると言ったほうがいい。
ヤリチンには近づくな。それがこの事件の教訓じゃないかしら。
ヤリマンは、大杉に承認されて舞い上がっちゃった伊藤にも、貧富の差に激高した神近にもなり得る。第3の道があるとしたら、それはやっぱり、ヘテロな関係に絶望することだと思うよ。
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